濡れた服と乾き
雨は、帰り道の途中でさらに強くなった。
最初はただの通り雨かと思っていたのに。
気づけば、傘の布を叩く音がはっきりと分かるくらいに変わっている。
「……結構降ってきたな」
陽真が、少しだけ顔を上げて言う。
「……うん」
凪も、小さく頷いた。
傘は一つ。
しかも折りたたみ。
二人で入るには、やっぱり少し小さい。
(……)
肩が触れる。
腕が、時々ぶつかる。
歩幅を合わせるたびに、距離が揺れる。
それでも。
どちらも、それを指摘することはなかった。
「……」
雨音だけが、二人の間を満たしている。
(……)
静かすぎる。
前なら、もう少し何か話していた気がするのに。
(……)
そう思って、隣を見る。
陽真くんは、いつも通りの顔で歩いている。
特別な表情もなく。
困っている様子もなく。
(……)
本当に、いつも通り。
そのことに、少しだけ安心して。
同時に。
少しだけ、引っかかる。
「……」
思い出す。
あの日のこと。
放課後の帰り道。
「好きなんだと思う」と言われた、あの瞬間。
(……)
あれは、確かに本気だった。
冗談でも、流れでもなくて。
ちゃんとした言葉だった。
「……」
じゃあ。
今はどうなんだろう。
(……)
こうして、隣にいる今も。
同じ気持ちでいてくれているんだろうか。
それとも。
ただ、“役割”として。
恋人のふりを続けてくれているだけなのか。
「……」
分からない。
聞くことも、できない。
もし。
違う答えだったら。
何かが壊れてしまいそうで。
「……この近くだったよね」
ふと、言葉が出る。
「ああ」
陽真が頷く。
「もうすぐ家だな」
「……うん」
見覚えのある道。
前にも通った場所。
(……)
あの時は、何も考えていなかった。
ただ、流れで。
でも。
今は違う。
そのはずなのに。
偽の恋人でただ一緒に帰ってるだけ。
その言葉が、しっくりこない。
「ここ」
陽真が足を止める。
前にも見た家。
あの時より鮮明に意識が動く。
「入れよ」
そう言われて、頷く。
「……うん」
そのまま、玄関の中へ入る。
ドアが閉まる。
外の音が、ふっと遠くなる。
さっきまでの距離が。
少しだけ、切り替わる。
でも。
完全には、変わらないまま。
どこかに残っている。
「タオル取ってくる」
陽真がそう言って、奥に消える。
凪は、玄関で一人になる。
静かだ。
さっきまでの雨音が、嘘みたいに遠い。
その代わりに。
自分の呼吸だけが、やけに意識される。
(……)
前に来た時も、同じ場所のはずなのに。
今は、少しだけ違う。
理由は、分かっている。
自分の中で、何かが変わっているから。
でもどう変わったのかは分からない。
「はい」
陽真が戻ってくる。
差し出されたタオルを受け取る。
「……ありがとう」
指先が、少しだけ触れる。
ほんの一瞬。
それだけで、意識してしまう。
これはなんだろうか。
普通に異性の家だからか。
他の誰でも緊張するものだろうか。
タオルで髪を拭く。
水気は、そんなに多くない。
でも。
落ち着かない。
それはきっと。
濡れているせいじゃない。
「……」
陽真くんは。
この関係を、どう思っているんだろう。
“偽の恋人”。
それは、自分が言い出したこと。
理由も、ちゃんとあった。
でも。
陽真くんは、その前から。
「好き」と思ってくれていた。
それなのに。
今も、こうして一緒にいる。
変わらずに。
距離を保ったまま。
「……」
それは。
優しさなのか。
それとも――
まだ、好きでいてくれているのか。
「……」
もし、そうだとしたら。
この関係は。
「……」
胸の奥が、少しだけ痛くなる。
その時。
「ただいまー!」
明るい声が響いた。
「……あ」
陽菜が顔を出す。
そして、凪を見るなり――
「……あ! 凪さん!」
ぱっと表情が明るくなる。
「また来てるー!」
「……こんにちは」
「やっぱ彼女なんだ!」
嬉しそうに言う。
「今日もめっちゃ綺麗だし!」
「制服もかっこいいし、大人っぽいし!」
「……ありがとう」
少しだけ視線を逸らす。
こういう言葉は、まだ慣れない。
でも。
(……少し、嬉しい)
そう思ってしまう。
「……でもさ」
陽菜が、二人を交互に見る。
「なんか今日、ちょっと違くない?」
「……何がだよ」
陽真が言う。
「うーん」
少し考えてから、
「距離は近いのに、なんかよそよそしいっていうか」
と首を傾げる。
その言葉が、妙に刺さる。
「……気のせいだろ」
陽真が軽く返す。
「そうかなー」
「この前ご飯食べに来た時の方が普通だった気がしたんだけどなぁ」
納得していない様子。
でも、それ以上は言わない。
代わりに。
「ねえねえ」
と、すぐに明るくなる。
「もうすぐテストでしょ?」
「……ああ」
「だったらさ!」
ぱっと身を乗り出して、
「勉強会とかしたらいいじゃん!」
と言った。
「一緒にやったら絶対楽しいし!」
「家ならゆっくりできるし!」
「……」
少しの沈黙。
でも。
(……勉強会)
その言葉が、残る。
「……まあ」
陽真が言う。
「ありかもな」
「でしょ!」
妹が満足そうに笑う。
「絶対いいってそれ!」
凪は、静かに視線を落とす。
(……一緒にいる理由)
また、増える。
自然に。
当たり前みたいに。
でも。
それは。
本当にいいことなんだろうか。
もし。
陽真くんが、まだ私を好きなままだとしたら。
この時間は。
この関係は。
優しさに、甘えているだけなんじゃないか。
「……」
分からない。
でも。
「……」
少しだけ。
このままでいたいと思ってしまう自分もいる。
それが。
一番、いけない気がした。
外では、まだ雨が降っている。
強く。
途切れることなく。
そして。
拭いたはずなのに。
どこか乾ききらない嫌な感覚が。
二人の間に、静かに残り続けていた。




