雨と相合傘
あの日。
夕方の教室で、「恋人のふりをしてほしい」と言われてから。
いくつもの放課後を、一緒に過ごした。
最初はぎこちなかった距離も。
手を繋ぐことも。
名前の呼び方も。
少しずつ、“それらしく”なってきている。
周りから見れば、もう普通の恋人に見えるだろう。
実際、最初の頃のような騒ぎも、今はほとんどない。
――付き合い始めて、数週間。
季節は六月。
梅雨に入って、空は曇る日が増えた。
そして。
俺たちの関係もまた、どこか曖昧なまま、少しずつ形を変えている。
はっきりしないまま。
でも確実に、前とは違う何かに。
放課後。
窓の外には、重たい雲が広がっていた。
今にも降り出しそうな空。
(……降るな、これ)
そう思った矢先。
ぽつ、と窓に水滴が当たる。
それがすぐに、音を増やしていく。
「……降ってきた」
凪が小さく言う。
「タイミング悪いな」
鞄を肩にかけながら、外を見る。
あっという間に、本降りになっていた。
(……傘、持ってきてない)
朝は降っていなかった。
完全に油断していた。
「傘ある?」
凪が聞く。
「ない」
「……私も、ないと思う」
「思うってなんだよ」
「確認してない」
「……」
相変わらずだな、と思う。
「どうする」
「……少し待つ?」
「弱くなるかも」
「……そうだな」
とりあえず、教室に残る。
同じように様子を見ている生徒が何人かいたが、時間が経つにつれて、少しずついなくなっていった。
気づけば、教室にはほとんど人がいない。
雨音だけが、やけに響いている。
(……)
こういう時間。
最近、増えた気がする。
特別なことをするわけじゃない。
ただ、同じ場所にいるだけ。
でも、それが当たり前みたいになってきている。
(……)
ふと、思い出す。
数日前。
廊下に、橘に呼び出された時のこと。
『お前さ、凪のことちゃんと分かってんのか』
『あいつ、男苦手なんだぞ』
『元カレ、最初は大丈夫だった』
淡々とした言い方。
でも、その奥にあったのは――
(……否定)
俺じゃダメだって、言われてるみたいだった。
『今もさ、たまたまお前と上手くいってるだけだろ』
『そのうち同じことになるぞ』
あの時、ちゃんと言い返せなかった。
たしかに今の関係は偽物で、好きなのは俺だけ。
(……)
頭のどこかに、残っている。
消えないまま。
「……陽真くん」
声がする。
「ん?」
「どうかした?」
「……いや」
考えていたことを振り払う。
「なんでもない」
「……そう」
凪はそれ以上、聞いてこない。
でも。
少しだけ、視線を落としたのが分かった。
何も言わないのは。
気にしてないわけじゃない。
分かってる。
それでも。
(……言えない)
言ったところで、どうなるか分からない。
「……」
沈黙。
雨音だけが続く。
その時。
「……あ」
凪が小さく声を出した。
「どうした」
「……あった」
鞄の中から、折りたたみ傘を取り出す。
「……あったのかよ」
「さっき確認した」
「最初にしろよ」
「忘れてた」
「……」
いつも通りのやり取り。
でも。
「一つだけだけど」
凪が言う。
(……)
一つ。
つまり。
「……相合傘になるな」
自然と口に出る。
凪は少しだけ視線を逸らして、
「……うん」
と小さく頷いた。
その反応に。
少しだけ、意識してしまう。
(……)
でも。
これも、“恋人なら普通”のことだ。
そう思い直す。
思い直そうとする。
昇降口を出ると、雨は思っていたより強くなっていた。
アスファルトを叩く音が、はっきりと聞こえる。
「……行こう」
凪が傘を開く。
小さめの折りたたみ傘。
二人で入るには、少し狭い。
「……私持つ」
「いいのか」
「うん」
そう言って、凪は自然に距離を詰める。
「入って」
「……ああ」
その中に入る。
――近い。
思っていたより、ずっと。
肩が触れる。
腕が当たる。
歩くたびに、少しずつ。
(……)
意識しない方が無理だった。
「……濡れる」
凪が言う。
「もう少し寄って」
「……」
言われた通りに、距離を詰める。
さらに近くなる。
(……近すぎるだろ)
心臓の音がうるさい。
でも。
「……」
凪は変わらない。
いつも通りの表情。
落ち着いたまま。
(……)
その差が。
少しだけ引っかかる。
(……俺だけか)
こんなに意識してるのは。
「……」
ふと。
別の言葉が浮かぶ。
『そのうち無理になるぞ』
(……)
橘の声。
頭の中で、何度も繰り返される。
(……)
隣にいる凪を見る。
近い。
でも。
(……)
本当に近いのかは、分からない。
「……」
一方で。
凪もまた、静かに考えていた。
(……いなくなっても平気?)
鈴に言われた言葉。
あの時、答えられなかった。
今も、答えは出ていない。
でも。
(……)
こうして隣にいると。
当たり前みたいに並んで歩いていると。
それが、なくなることを想像すると。
胸の奥が、少しだけ重くなる。
「……」
でも。
すぐに、否定する。
(……違う)
これは。
そういう気持ちじゃない。
安心してるだけ。
そう思っている。
思おうとしている。
「……陽真くん」
名前を呼ぶ。
「ん?」
「……濡れてる」
肩のあたりを見て言う。
「そっち寄ってるから」
「……ああ」
少しだけ位置を調整する。
さらに、距離が近くなる。
触れそうで、触れない。
でも、確実に近い。
(……)
その距離が。
逆に、はっきりさせる。
(……)
近いのに。
どこか遠い。
同じ傘の下にいるのに。
同じことを考えていない。
「……」
言葉は出ない。
出せない。
雨の音だけが続く。
強くなっていく。
気づけば。
傘の端から、わずかに水滴が落ちていた。
弾けた水が凪の頬を伝う。
完全には、防げていない。
肩の一部が、少しだけ濡れる。
でも、それを気にする余裕はなかった。
「……」
この距離は。
近いはずなのに。
どうしてか。
埋まらない。
その違和感だけが。
静かに、残り続けていた。
やがて。
雨は、さらに強くなる。
まるで。
二人の距離を、試すみたいに。




