昔を知る人
次の日の昼休み。
教室の中は、いつも通りのざわめきに包まれていた。
その中で、陽真はぼんやりと机に肘をついていた。
(……昨日のやつ)
橘恒一の言葉が、頭から離れない。
“無理してるかもな”
“昔からそういうとこあるだろ”
(……)
考えすぎかもしれない。
でも。
「陽真くん」
声がして、顔を上げる。
凪が立っていた。
「お昼」
「……ああ」
頷く。
二人で教室の後ろに移動する。
向かい合って座る。
弁当を開く。
それだけの、いつもの時間。
でも。
(……少しだけ)
気になる。
「……どうしたの」
凪が聞いてくる。
「なんか考えてる顔してる」
「……そうか?」
「うん」
(……)
少し迷ってから、
「昨日のこと、ちょっとな」
と答える。
「……恒一の?」
「ああ」
その名前を出した瞬間。
凪の視線が、ほんの一瞬だけ揺れる。
「……何?」
「まあ」
軽く頷く。
「無理してるんじゃないかって」
「……」
凪は黙る。
否定もしない。
肯定もしない。
(……)
それが、少しだけ引っかかる。
その時。
「朝日奈」
声がかかる。
振り返る。
橘恒一だった。
(……)
タイミングが悪い。
「ちょっといいか」
「……何」
「すぐ終わる」
その言い方。
断りにくい。
「……すぐ戻る」
凪にそう言って、席を立つ。
廊下に出る。
ドアが閉まる。
少しだけ静かになる。
「……で」
陽真が先に口を開く。
「何の用」
恒一は壁にもたれながら、こちらを見る。
「確認」
「……何の」
「お前のこと」
(……)
嫌な予感しかしない。
「凪のこと、どう思ってる」
「……」
少しだけ間を置いて、
「好きだよ」
と答える。
隠すつもりはない。
恒一は少しだけ目を細める。
「……どこまで分かってる?」
「何が」
「凪のこと」
(……)
またそれか、と思う。
「全部は分かってない」
「でも」
「知ろうとはしてる」
正直に言う。
その言葉に。
恒一は、小さく息を吐いた。
「それが危ないんだよ」
「……は?」
「凪ってさ」
少しだけ視線を逸らす。
「男、苦手なんだよ」
「……」
初めて聞く話だった。
「昔からな」
淡々と続ける。
「距離取るタイプ」
「でも」
視線を戻す。
「元カレは違った」
(……)
嫌な予感が強くなる。
「最初はな」
「普通に話せて」
「距離も縮められて」
「凪も、受け入れてた」
「……」
「でも」
声が少しだけ低くなる。
「だんだん変わった」
「距離詰めすぎて」
「束縛して」
「結果、ああなった」
(……)
頭の中で、何かが繋がる。
「つまり」
恒一は言う。
「お前も同じ位置にいるってこと」
「……違うだろ」
すぐに否定する。
「俺は――」
「今はな」
遮られる。
「でもな」
一歩、近づく。
「凪は合わせるんだよ」
「……」
「相手に」
「だから仲良く見える」
「でもそれ、本心かどうかは別」
(……)
胸の奥がざわつく。
「お前さ」
恒一は続ける。
「久々なんだよ」
「……何が」
「凪が普通に話せてる男」
「……」
「だから勘違いする」
淡々とした声。
「自分は特別だって」
(……)
言葉が、刺さる。
「でも違う」
「ただ“マシ”なだけ」
「……」
「凪にとってはな」
少しだけ間を置いて、
「お前は“久々に大丈夫そうな男”ってだけだ」
と言い切った。
(……)
言葉が出ない。
頭の中が、ぐちゃぐちゃになる。
「だから」
恒一は最後に言う。
「勘違いすんなよ」
「……」
「その距離感」
「間違えたら」
「同じことになる」
静かな声だった。
でも。
はっきりと刺さった。
「……」
何も言えないまま。
陽真は、その場に立っていた。
「……」
廊下の空気が、重くなる。
さっきの言葉が、頭の中で繰り返される。
“久々に大丈夫そうな男”
(……)
違う、と言い切りたい。
でも。
完全には否定できない自分がいる。
その時。
ふと、思う。
「……お前さ」
気づけば、口に出していた。
恒一が少しだけ眉を動かす。
「……何」
「それ」
一歩、近づく。
「全部分かってるつもりで言ってるだろ」
「……あ?」
「昔から見てるとか」
「分かってるとか」
言葉を重ねる。
「でもさ」
少しだけ息を吐いて。
「それ、逆に近すぎるだけじゃないのか」
「……」
恒一の表情が、わずかに変わる。
「幼なじみだからって」
続ける。
「ずっと隣にいるのが当たり前で」
「分かった気になってるだけだろ」
「……」
今度は、恒一が黙る。
「今の凪は」
陽真は言う。
「お前が知ってるやつと同じとは限らない」
静かに。
でも、はっきりと。
言い切る。
数秒の沈黙。
それから。
恒一は、小さく笑った。
「……言うじゃん」
でも、その目は笑っていない。
「でもな」
一歩、近づく。
「そうやって勘違いするやつが一番危ない」
(……)
さっきと同じ理屈。
でも。
今度は、引かなかった。
「……お前さ」
陽真は言う。
「彼女いるんだろ」
「……は?」
予想外だったのか、恒一が一瞬止まる。
「同じクラスの」
「……それが何だよ」
「何だよじゃねえだろ」
少しだけ声が強くなる。
「その状態で、凪にここまで関わってるのおかしくないか」
「……」
「距離近すぎだろ」
言い切る。
「……」
恒一の表情が、わずかに歪む。
「幼なじみだから?」
続ける。
「それ理由にして」
「ずっと関わり続けて」
「口出して」
「……」
「正直」
少しだけ間を置いて。
「普通に気持ち悪いぞ」
はっきりと言った。
空気が、止まる。
「彼女いるのに」
「凪に執着しすぎだろ」
「ちゃんと考えてんのか彼女のことも凪のことも」
静かな声。
でも。
逃がさない言葉。
「……」
恒一は何も言わない。
初めて。
完全に言葉が止まる。
「俺に言ってること」
陽真は続ける。
「そのまま自分に返ってきてるって気づいてるか」
「……」
「凪のこと分かってるって顔して」
「一番縛ってるの、お前じゃないのか」
(……)
長い沈黙。
やがて。
恒一は、小さく息を吐いた。
「……は」
乾いた笑い。
「そこまで言うか」
でも。
その声には、少しだけ余裕がない。
「……まあいい」
顔を逸らす。
「好きにしろよ」
投げるような言い方。
でも。
さっきまでとは違う。
「ただな」
最後に、もう一度だけ視線を向けてくる。
「後悔すんなよ」
低い声。
「同じことになるから」
それだけ言って。
恒一は背を向けた。
「……」
廊下に、一人残る。
(……)
さっきより、頭は冷えていた。
でも。
代わりに残るのは。
(……)
迷いと。
引っかかりと。
消えない言葉。
(……)
“久々に大丈夫そうな男”
(……)
それが本当だったら。
「……くそ」
小さく呟く。
分からない。
何が正しいのか。
でも。
ひとつだけ。
(……)
凪のことを。
ちゃんと知りたいと思った。
逃げずに。
ちゃんと。
そのために――
一歩、踏み出そうとした時。
教室の扉の前で。
ふと、足が止まる。
(……)
今の顔で。
何もなかったみたいに、戻れるか。
(……)
分からないまま。
ゆっくりと、扉を開けた。




