過去の影
夜。
スマホの画面が、小さく光る。
ベッドに寝転びながら、凪はその画面を見つめていた。
【陽真くん:明後日、土曜日予定ある?】
シンプルなメッセージ。
(……)
少しだけ考える。
それから、画面をタップする。
【凪:ないよ】
送信。
すぐに既読がつく。
(……早い)
ほんの少しだけ、口元が緩む。
【陽真くん:じゃあ、昨日言ってたやつ】
【陽真くん:どっか行くか】
(……)
昨日の会話。
「今度どっか行くか」
その言葉を思い出す。
(……)
少しだけ、迷う。
でも。
【凪:うん】
短く返す。
それだけなのに。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。
(……)
続けて通知。
【陽真くん:お昼からでいいか?】
【凪:いいよ】
【陽真くん:じゃあ駅前で】
【凪:分かった】
会話は、それで終わる。
無駄に長く続けない。
それが、ちょうどいい距離。
(……)
画面を閉じる。
でも。
すぐにはスマホを置けなかった。
(……)
なんでだろう。
ただの約束なのに。
(……少しだけ)
楽しみだと思っている自分がいる。
(……)
でも。
すぐに、思考を切り替える。
(違う)
これは、きっと。
元カレのことが落ち着いたから。
誰かと普通に出かけられるようになったから。
それだけ。
(……)
そう思い込む。
画面がもう一度光る。
【陽真くん:あとさ】
少し間があって。
【陽真くん:楽しみにしてる】
(……)
その一文。
シンプルなのに。
少しだけ、心臓が強く鳴る。
(……)
数秒、固まる。
それから。
【凪:私も】
と、返した。
送ったあとで。
(……)
ほんの少しだけ、照れる。
でも。
嫌じゃない。
むしろ。
(……気分が良い)
そう思ってしまう自分がいた。
---
翌日。
昼食の時間。
教室には、いつものように夕方の光が差し込んでいた。
「陽真くん」
凪が声をかける。
「今日、少しだけいい?」
「……いいけど」
陽真くんはすぐに答える。
「どうした」
「その……」
少しだけ言葉を選んでから、
「土曜のこと、決めたい」
と言う。
「……ああ」
納得したように頷く。
「どっか行きたいとこあるか?」
「……特にない」
正直に答える。
すると。
「じゃあさ」
少し考えてから、
「買い物でも行くか」
と提案される。
「……買い物?」
「私服、見てみたいし」
(……)
一瞬、思考が止まる。
「……私の?」
「うん」
当たり前みたいに言う。
(……)
少しだけ、視線を逸らす。
「……別に普通だよ」
「いいだろ、別に」
軽く笑う。
その反応が、少しだけずるいと思う。
(……)
嫌じゃない。
むしろ。
(……少しだけ)
見せてもいいと思っている。
「……分かった」
小さく頷く。
「じゃあ決まり」
「昼に駅で電車乗ってショッピングモール行こう」
陽真くんが言う。
そのやり取りが。
自然すぎて。
まるで本当に。
普通のカップルみたいで。
胸の奥が、また少しだけ揺れる。
(……違う)
すぐに打ち消す。
私にとってこれは、そういう関係だから。
練習で。
偽物で。
必要だから。
そう思っているのに。
「……楽しみ?」
不意に聞かれる。
「……え」
「顔に出てる」
少しだけ笑いながら言われる。
(……)
そんな顔、してたのか。
「……普通」
そう返す。
でも。
「そっか」
それ以上は突っ込んでこない。
やっぱり、この距離が。
ちょうどいい。
その時。
「凪」
声がした。
振り返る。
橘恒一だった。
(……)
一瞬で、空気が変わる。
「珍しいな」
と軽く言う。
「また一緒に食べてんの」
「たまたま」
短く返す。
恒一は、ふたりを交互に見てから、
「どっか行くんだって?」
と言った。
(……)
一瞬、止まる。
「……なんで知ってるの」
「さっき聞こえた」
あっさり言う。
(……)
少しだけ、距離が近い。
会話の中に自然に入ってくる感じ。
前と同じ。
でも。
(……少しだけ、違う)
今は、そこに陽真くんがいる。
「まあいいけど」
恒一はそう言ってから、
「気をつけろよ」
と続ける。
「……何を」
「無理すんなってこと」
また、その言葉。
「凪さ」
少しだけ真面目な声になる。
「昔からそういうとこあるだろ」
「……」
「周りに合わせすぎるっていうか」
淡々とした言い方。
責めているわけじゃない。
でも。
(……)
胸の奥が、少しだけざわつく。
「別に、今は」
言いかけて、止まる。
言葉が続かない。
(……本当に?)
一瞬、そんな考えがよぎる。
「……」
沈黙。
その空気を切るように、
「大丈夫だろ」
と、陽真くんが言った。
「……え」
「凪、無理してる感じじゃないし」
自然な言葉。
強くもなく、弱くもなく。
ただ、そのまま。
「……」
恒一は少しだけ目を細める。
「……そう見えるだけかもな」
ぽつりと言う。
その一言。
さっきまでの空気が、少しだけ揺れる。
「……まあいいや」
恒一はそれ以上は何も言わず、
「じゃあな」
と去っていく。
「……」
残された沈黙。
さっきまでの空気が、少しだけ変わっている。
(……)
胸の奥に、残る言葉。
“無理してるかもな”
(……)
ふと、思う。
もし。
本当に、そうだとしたら。
(……)
隣を見る。
陽真くんは、いつも通りの表情で立っている。
変わらない。
「……陽真くん」
名前を呼ぶ。
「ん?」
「私」
言葉を探す。
でも。
うまく出てこない。
「……なんでもない」
そう言ってしまう。
(……)
言えなかった。
分からないから。
何を考えてるのか。
自分でも。
(……)
でも。
ひとつだけ、はっきりしていることがある。
「……土曜」
「うん」
「ちゃんと行く」
それだけ言う。
陽真くんは少しだけ笑って、
「当たり前だろ」
と返す。
(……)
その言葉で。
少しだけ、安心する。
でも同時に。
胸の奥に、小さな引っかかりが残る。
(……昔から)
(……合わせすぎる)
(……無理してるかも)
言葉が、頭の中で繰り返される。
そして。
ふと、思う。
“昔”って、どこまでのことを言ってるんだろう。
(……)
気づけば、考えていた。
知らないこと。
知らない時間。
知らない凪。
(……)
その“過去”を。
あいつは、知っている。
(……)
夕方の光の中で。
凪は、静かに目を伏せた。
その時の自分は、まだ知らなかった。
“昔の自分”を誰かに語られることが、
どれだけ今の関係を揺らすことになるのかを。




