少し近くなる距離
昼休み。
教室のざわめきは、いつもと変わらない。
でも。
(……なんか落ち着かないな)
理由は分かっている。
朝のこと。
橘恒一。
凪の幼なじみ。
(……)
頭の片隅に残っている。
“俺が見てた”
その言葉が、妙に引っかかる。
(……まあいいか)
考えても仕方ない。
そう思って、弁当の包みを開く。
その時だった。
「陽真くん」
声がした。
顔を上げる。
凪が立っていた。
「……どうした」
「ここで食べていい?」
「……いいけど」
少し驚いた。
凪が自分から来ることは、あまりない。
「じゃあ」
そう言って、隣の席に座る。
自然な動き。
でも。
(……近いな)
距離が、少しだけ近い。
肩が触れるか触れないかくらい。
「……」
「……」
しばらく無言で弁当を食べる。
でも、不思議と気まずくない。
むしろ、落ち着く。
(……なんだろうな、これ)
昨日、家で感じた空気に近い。
無理に話さなくてもいい感じ。
「……それ」
凪が小さく言う。
「ん?」
「卵焼き」
俺の弁当を見ている。
「……好きなのか」
「うん」
素直だった。
「甘いの?」
「ちょっと甘い方がいい」
「じゃあ同じだな」
「……うん」
ほんの少しだけ、声が柔らかい。
(……分かりやすいな)
なんとなくそう思う。
「食べる?」
何気なく聞く。
凪は一瞬だけこちらを見る。
「……いいの?」
「いいよ」
卵焼きを一つ差し出す。
凪は少しだけ迷ってから、受け取る。
「……いただきます」
小さく言って、口に入れる。
「……」
数秒。
「……美味しい」
その言い方が、ほんの少しだけ嬉しそうで。
(……)
なぜか、こっちまで嬉しくなる。
「昨日も思ったけど」
凪が続ける。
「料理、上手い」
「慣れてるだけ」
「それでも」
少しだけこちらを見て、
「いいと思う」
と、言った。
まっすぐな言い方。
変に飾らない。
だから余計に響く。
「……ありがと」
軽く答える。
でも、少しだけ照れる。
(……こういうとこか)
昨日も思ったけど。
凪は、こういうところがある。
不意に距離を詰めてくる。
しかも、無自覚っぽい。
「……」
ふと、視線が合う。
凪はすぐに逸らさない。
数秒、そのまま。
「……何」
先に凪が言う。
「いや」
少しだけ困る。
「なんか、雰囲気違うなって」
正直に言う。
「……そう?」
「昨日から」
そう付け足す。
凪は少しだけ考えてから、
「……分からない」
と答える。
でも。
「でも」
少しだけ間を置いて。
「陽真くんといると」
「楽」
そう言った。
「……」
一瞬、言葉が止まる。
(……それ、普通に強いな)
心の中でそう思う。
「……そっか」
なんとか返す。
それ以上は、言えない。
凪は小さく頷いて、また弁当に視線を落とす。
でも。
その横顔が。
ほんの少しだけ柔らかく見えた。
「……ねえ」
少しして、凪が言う。
「今日、放課後」
「うん?」
「時間ある?」
「あるけど」
「じゃあ」
一瞬だけ迷ってから。
「帰ろう、一緒に」
と言った。
「……いつも一緒じゃないか」
思わず言う。
「そうだけど」
凪は少しだけ考える。
「今日は、ちゃんと」
「……何が違うんだよ」
「分からないけど」
正直だった。
でも。
「そうしたい」
その一言。
それだけで、十分だった。
「……分かった」
頷く。
凪も小さく頷く。
それからまた、弁当を食べる。
でも。
さっきより、少しだけ距離が近いまま。
(……)
その距離が。
嫌じゃないどころか。
むしろ――
心地いいと思ってしまう自分がいた。
放課後。
昇降口には、部活に向かう生徒や帰る生徒が行き交っていた。
その中で、凪は壁にもたれて立っている。
スマホを見ているわけでもなく、ただ静かに待っている。
(……あれ、俺待ちか)
そう思った瞬間。
「陽真くん」
顔を上げた凪が、俺に気づいて声をかける。
「……早いな」
「ちょっとだけ」
短い返事。
それだけで、自然に並ぶ。
外に出る。
夕方の空気。
少しだけ涼しい風。
「……」
並んで歩く。
いつもの帰り道。
でも――
(……やっぱり近いな)
距離が。
昼より、ほんの少しだけ。
肩が触れそうで、触れない。
その微妙な距離。
「……」
凪は前を向いたまま歩いている。
特に何も言わない。
でも、離れようともしない。
(……意識してるのか?)
分からない。
でも。
嫌じゃない。
むしろ――
心地いい。
「……ねえ」
凪が小さく言う。
「ん?」
「手」
一言。
それだけで意味は分かる。
「……また練習?」
一応、聞く。
「うん」
頷く。
でも。
少しだけ間を置いてから、
「……それだけじゃない」
と、続けた。
「……」
その言葉の意味を考える前に。
凪の指先が、そっと触れてくる。
控えめに。
でも、逃げないように。
そのまま、軽く握る。
昨日より、自然だった。
迷いがない。
「……」
「……」
少しだけ沈黙。
でも、不思議と気まずくない。
「……あったかい」
凪がぽつりと言う。
「普通だろ」
「そう?」
「うん」
「……そっか」
少しだけ、声が柔らかい。
(……)
横を見る。
凪は前を向いたまま。
でも、ほんの少しだけ口元が緩んでいる。
(……分かりやすいな)
そう思う。
でも、口には出さない。
そのまま、しばらく歩く。
手を繋いだまま。
「……」
ふと。
凪の指が、少しだけ強くなる。
ぎゅっと、握る。
「……どうした」
思わず聞く。
「……別に」
短い返事。
でも。
「……離れるの、やだなって思っただけ」
ぽつりと、続ける。
「……」
一瞬、思考が止まる。
(……それ、反則だろ)
心の中でそう思う。
「……まだ繋いでるだろ」
なんとか返す。
「うん」
凪は小さく頷く。
でも。
そのまま、もう一度少しだけ握り直す。
確かめるみたいに。
(……)
胸の奥が、じわっと熱くなる。
「……ねえ」
凪が言う。
「ん?」
「こういうの」
少しだけ言葉を探して、
「嫌じゃない?」
と聞いてくる。
「……何が」
「その……」
少しだけ言い淀む。
「近いの」
「……」
少し考える。
でも。
答えはすぐに出た。
「嫌じゃない」
むしろ――
とは言わない。
でも、十分だ。
「……そっか」
凪が小さく言う。
その声が、少しだけ安心したように聞こえた。
(……)
その反応を見て。
ふと思う。
(……ああ)
これは多分。
俺だけじゃない。
そう思いたい。
「……」
歩き続ける。
夕方の道。
変わらない景色。
でも。
隣にいるのは、昨日とは少し違う凪。
「……」
ふと、凪がこちらを見る。
目が合う。
そのまま、数秒。
逸らさない。
「……なに」
先に凪が言う。
「いや」
少しだけ迷ってから、
「今日は、よく話すなって」
と答える。
「……そう?」
「昨日より」
「……」
凪は少しだけ考える。
それから、
「……分からない」
と答えた。
でも。
「でも」
少しだけ間を置いて。
「話したいと思った」
と、続ける。
「……」
その一言が。
やけに重く感じる。
「……そっか」
それしか言えない。
でも。
それで十分だった。
しばらく歩く。
会話は少ない。
でも、沈黙は苦じゃない。
むしろ、落ち着く。
「……じゃあ、ここで」
凪が立ち止まる。
分かれ道。
「……ああ」
頷く。
でも。
手は、まだ繋がったまま。
「……」
「……」
一瞬だけ、間が空く。
「……離す?」
俺が言う。
凪は少しだけ考えて――
「……うん」
と答える。
でも。
すぐには離さない。
ほんの一瞬、間を置いてから。
ゆっくりと指を離す。
その動きが、少しだけ名残惜しそうで。
「……」
胸の奥が、少しだけ強く締まる。
「……また明日」
凪が言う。
「……ああ」
短く返す。
凪は少しだけこちらを見て。
ほんの少しだけ――笑った。
学校では見せない顔。
それを見た瞬間。
(……)
はっきりと、思った。
(やばいな、これ)
もう。
引き返せないところまで来ている。
そんな気がした。
凪は背を向けて、歩いていく。
その背中を見送りながら。
(……)
胸の奥に残る感覚を、うまく言葉にできないまま。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
この時間が。
この距離が。
思っていたよりも、ずっと大事になり始めている。




