凪の幼なじみの男子
週明けの月曜日。
教室の空気は、まだどこか落ち着いていなかった。
理由は分かっている。
「見た?土曜も一緒にいたらしいよ」
「ちゃんと付き合ってんじゃん」
そんな声が、あちこちから聞こえる。
雪城凪と俺のことだ。
(……まあ、そうなるよな)
もう隠すつもりもない。
むしろ、その方が都合がいい。
「おはよ」
席に座っていると、凪がいつも通りの調子で声をかけてくる。
「おはよう」
短く返す。
それだけのやり取りなのに、周りの視線を感じる。
(……慣れないな)
凪は特に気にしていない様子で、席に座る。
いつもの“氷姫”。
でも。
(……昨日とは別人だな)
ふと、土曜日の姿を思い出す。
私服で、少し柔らかい雰囲気の凪。
あれを知っているのは、今のところ俺だけだ。
(……なんか、変な感じだな)
そんなことを考えていると。
教室の扉が開く音がした。
少しだけ、空気が変わる。
「……あ」
誰かが小さく声を漏らす。
「久しぶりじゃね?」
「別のクラスだっけ」
そんなざわめき。
視線が一箇所に集まる。
(……誰だ?)
そっちを見る。
入ってきたのは、一人の男子だった。
背は高め。
雰囲気は落ち着いている。
でも、どこか“慣れてる”感じ。
自然に人の視線を受け流すような空気。
(……)
その男子は、教室の中を軽く見渡して。
まっすぐ――
凪の方を見た。
「……凪」
名前を呼ぶ。
迷いのない声。
凪の肩が、わずかに止まった。
「……久しぶり」
男子はそのまま歩いてくる。
俺の席のすぐ近くで止まる。
「ちょっといい?」
凪に向けて言う。
「……」
凪は一瞬だけこちらを見る。
ほんの一瞬。
それから、立ち上がった。
「少しだけ」
短く言う。
そのまま、二人で教室の外へ出ていく。
「……」
取り残される。
周りの空気が、一気にざわつく。
「え、誰あれ」
「雪城と普通に話してたぞ」
「幼なじみなんじゃないっけ?」
「名前呼びだったよな?」
そんな声が聞こえる。
(……知り合いか)
いや、それ以上だろう。
あの距離感。
あの呼び方。
(……)
なんとなく、落ち着かない。
机に肘をつく。
そのまま、窓の外を見る。
でも、何も頭に入ってこない。
(……誰だよ、あいつ)
気になる。
けど、聞ける立場かと言われると、微妙だ。
「おい」
横から声がかかる。
クラスメイトの男子。
「今のやつ、知ってる?」
「いや」
正直に答える。
「有名だぞ、あいつ」
「……そうなのか」
「雪城の幼なじみの橘」
その一言で。
頭の中が、少しだけ静かになる。
(……幼なじみ)
なんとなく、納得する。
あの距離感。
でも同時に――
(……ああいうの、いるんだな)
少しだけ、引っかかる。
“ずっと一緒にいたやつ”
そういう存在。
(……)
無意識に、さっきの光景を思い出す。
自然に名前を呼ぶ声。
迷いのない距離。
「……」
胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
その頃。
教室の外。
廊下の端で、凪と男子が向かい合っていた。
「……久しぶり」
男子がもう一度言う。
「うん久しぶり 恒一」
凪が短く返す。
少しだけ、間が空く。
「聞いた」
恒一が言う。
「彼氏できたんだって?」
「……うん」
「急だな」
淡々とした声。
でも。
どこか、引っかかる言い方。
「そうでもない」
凪は答える。
「……そうか」
恒一は少しだけ視線を逸らす。
それから。
「元彼の件」
と切り出した。
凪の表情が、わずかに変わる。
「その彼氏のお陰で助かったのは事実だな」
「……そう」
「正直、俺がいない間にああなるとは思わなかった」
その言い方は、落ち着いている。
でも。
どこか、責めるようにも聞こえる。
「……別に」
凪は言う。
「自分で何とかするつもりだった」
「無理だろ」
即答だった。
「……」
「前からそうだったじゃん」
恒一は続ける。
「お前、ああいうの押しに弱いから」
凪は何も言わない。
否定もしない。
「……で」
少しだけ間を置いて。
「その彼氏」
恒一が言う。
「本当に大丈夫なのか?」
その一言で。
空気が、少しだけ変わった。
「本当に大丈夫なのか?」
その一言。
凪はすぐに答えなかった。
少しだけ視線を落とす。
「……何が」
やや遅れて、返す。
恒一は、少しだけ息を吐いた。
「そのままの意味」
淡々とした声。
でも、目はまっすぐだった。
「急に彼氏ができて」
「それで解決って」
「……解決してる」
凪は言う。
短く、はっきりと。
「もう来てないでしょ」
「まあな」
頷く。
「でも」
そこで少しだけ言葉を区切る。
「やり方が、凪らしくない」
その言葉に。
凪の指先が、わずかに動く。
「……どういう意味」
「そのままだよ」
恒一は続ける。
「お前、ああいうの嫌いだっただろ」
「誰かに頼るの」
「……」
「それなのに、彼氏って形で解決するのは」
「なんか違う」
責めているわけじゃない。
でも。
“分かってる側”の言い方だった。
「……別に」
凪は言う。
「方法はどうでもいい」
「結果が出てるなら」
「そうか」
短い返事。
納得していないのは、明らかだった。
少しだけ沈黙が落ちる。
廊下の向こうから、授業前のざわめきが聞こえる。
「……あいつ」
幼なじみが口を開く。
「どんなやつ?」
その質問。
凪は一瞬だけ、言葉に詰まる。
頭に浮かぶのは――
キッチンに立つ姿。
手際よく料理をする手。
「……ちゃんとしてる」
気づけば、そう答えていた。
幼なじみが少しだけ眉を上げる。
「それだけ?」
「……うん」
言いながら、少しだけ引っかかる。
“それだけじゃない”気もするのに。
うまく言葉にできない。
「……ふーん」
「ほんとに好きなのか?」
恒一は小さく息を吐く。
「まあいいけど」
そう言いながらも、視線は変わらない。
「でもさ」
一歩、距離を詰める。
「気をつけろよ」
「……何を」
「そういう関係」
少しだけ声を落とす。
「ちゃんと分かってないまま進むと」
「後で面倒になる」
その言い方。
どこか、経験があるみたいに。
何かを見透かしているように。
「……」
凪は何も言わない。
否定もしない。
ただ、静かに聞いている。
「お前、昔からそうだから」
幼なじみが言う。
「距離の取り方、ちょっと下手」
「……」
「だから俺が見てたんだけどな」
ぽつりと、自然に出た言葉。
その一言で。
凪の中で、何かが引っかかった。
「……もういい」
小さく言う。
「今は大丈夫」
はっきりと。
区切るように。
幼なじみは少しだけ目を細めた。
でも、それ以上は言わなかった。
「……そっか」
短く答える。
「じゃあ、戻るか」
そう言って、先に歩き出す。
凪も後を追う。
教室の扉が見えてくる。
(……)
さっきの会話が、頭に残る。
“凪らしくない”
“距離の取り方が下手”
“俺が見てた”
(……)
全部、間違ってはいない。
少なくとも、昔は。
でも。
(……じゃあ今は?)
扉の前で、少しだけ足が止まる。
その時。
ガラッと扉が開いた。
中から出てきたのは――陽真だった。
「……あ」
目が合う。
一瞬だけ、空気が止まる。
「……戻るとこだった」
陽真が言う。
自然な声。
特に何も探る様子もない。
「……うん」
凪も短く返す。
その横で、恒一が陽真を見る。
数秒。
何も言わずに、視線を向ける。
(……この人が)
そんな目だった。
陽真も、それを感じる。
でも、逸らさない。
「……どうも」
軽く、言う。
あえて普通に。
幼なじみは少しだけ間を置いて、
「……どうも」
と返した。
それだけ。
でも。
見えない何かが、確かにあった。
「戻るか」
陽真が言う。
凪に向けて。
「……うん」
凪は頷く。
そのまま、陽真の隣に並ぶ。
ほんの少しだけ。
さっきより、近い位置。
それを見て、幼なじみは何も言わない。
ただ、静かに見ているだけ。
教室に入る。
それぞれの席に戻る。
何もなかったように、時間が流れ始める。
でも――
(……)
凪は、ぼんやりと考えていた。
さっきの言葉。
幼なじみの声。
それと同時に。
昨日のこと。
キッチンの音。
「美味しい」と言った時の、陽真の反応。
(……)
比べているわけじゃない。
でも。
勝手に、浮かんでくる。
(……なんだろう)
うまく整理できない。
ただ、一つだけはっきりしているのは。
(……一緒にいると、楽)
それは、事実だった。
陽真といる時間は。
考えなくていい。
無理もしなくていい。
ただ、そのままでいられる。
(……)
その感覚が。
少しだけ、心に残った。
でも同時に。
幼なじみの言葉も、消えない。
「……」
静かな教室の中で。
凪は、ほんの少しだけ視線を落とした。
その小さな迷いは。
まだ誰にも気づかれないまま。
ゆっくりと、心の奥に残っていった。




