プロローグ
夕方の教室は、昼間とはまるで別の場所みたいに静かだった。
窓から差し込むオレンジ色の光が、机の列を長く照らしている。部活に行く生徒たちの声も、もうほとんど聞こえない。
俺は一人、ノートに向かっていた。
今日の課題は数学。難しいわけじゃない。ただ、家に帰ると妹の面倒を見たり夕飯を作ったりで、ゆっくり机に向かう時間があまりない。だからこうして、誰もいない教室で終わらせてしまうことが多かった。
シャーペンを走らせていると、教室の扉が静かに開く音がした。
顔を上げる。
入ってきたのは、クラスメイトの女子だった。
思わず少しだけ背筋が伸びる。
——雪城凪。
その美しさから氷姫とも呼ばれる。
同じクラスだけど、こうして二人きりになることなんてほとんどない。
窓の光を背にして立つ彼女は、相変わらず目立っていた。長い黒髪に、整った顔立ち。別に本人が何か特別なことをしているわけじゃないのに、自然と視線を引き寄せる。
クラスの男子がよく言っている。
「近寄りがたいけど、めちゃくちゃ美人」
俺もそう思う。
……少し前までは、遠くから見るだけだったけど。
凪は教室を見渡してから、俺の方に視線を向けた。
「まだいたんだ」
淡々とした声。
「課題、終わらせてただけ」
「そう」
短い返事。
それで終わるはずだった。
でも凪はそのまま教室の中に入り、まっすぐ俺の方へ歩いてくる。
その距離が、思っていたより近い。
少しだけ、心臓の音がうるさくなる。
凪は俺の前で立ち止まった。
数秒の沈黙。
何かを言おうとして、少しだけ迷っているように見える。
そして言った。
「朝日奈くん」
「……うん?」
「少し、頼みがあるんだけど」
頼み?
思わず首を傾げる。
凪は一瞬だけ視線を逸らした。
それから、少しだけ息を吸って――
「急なんだけど」
「うん」
「恋人のふりをしてほしい」
一瞬、意味が理解できなかった。
「……え?」
思わず聞き返す。
凪は表情を変えないまま、でもさっきより少しだけゆっくり言う。
「恋人のふり」
やっぱり聞き間違いじゃないらしい。
頭の中で言葉がうまく整理できない。
「どういう……」
「そのままの意味」
凪は少しだけ言葉を選びながら続ける。
「……あの人のこと」
元彼。
すぐに分かった。
「別れたんだけど」
「向こうが、納得してないみたいで」
「……」
「この前も、来てたし」
校門でのことを思い出す。
確かに、あれは少し面倒そうだった。
「彼氏がいるって分かれば、諦めると思う」
つまり。
「それで俺?」
「うん」
一度頷いてから、凪は少しだけ言葉を足す。
「……朝日奈くんがいい」
一瞬、間が止まる。
「真面目そうだから」とか、そういう続きが来ると思った。
でも、違った。
凪は少しだけ視線を逸らしてから言う。
「変に踏み込んでこないし」
「……」
「無理に助けようとしないし」
昨日のことだ。
あれは、そういう風に見えていたらしい。
「……安心するから」
最後の一言は、ほんの少しだけ小さかった。
俺は何も言えなかった。
凪は少しだけ間を空けてから、いつもの調子に戻る。
「もちろん、嫌なら断っていい」
「期間は長くても数ヶ月くらい」
「学校のある日だけでいい」
「迷惑は出来るだけかけない」
淡々と条件を並べる。
でもさっきの言葉が、頭から離れない。
「朝日奈くんがいい」
その理由。
「……」
断る理由はいくらでもある。
面倒そうだし、誤解もされる。
でも。
目の前にいるのは、雪城凪だ。
俺が、ずっと遠くから見ていた人。
少しだけ話せるようになって。
少しだけ近づけた気がして。
——それでもまだ、遠いと思っていた人。
「無理なら本当にいい」
凪が言う。
「……他を当たる」
その言葉を聞いた瞬間、胸が強く締め付けられた。
他を当たる。
つまり、俺じゃなくてもいい。
当たり前だ。
でも――
(嫌だ)
そう思ってしまった。
「……分かった」
気づけば、口に出していた。
凪が少しだけ目を見開く。
「いいの?」
「うん」
俺は少しだけ笑う。
「やるなら、ちゃんとやる」
偽物でも。
どうせやるなら、中途半端にはしたくない。
凪は数秒黙ってから、小さく頷いた。
「ありがとう」
それから、ほんの少しだけ柔らかい声で言う。
「よろしく、朝日奈くん」
夕方の光が、教室を静かに包んでいる。
その時の俺はまだ知らなかった。
この約束が。
偽物だったはずのこの関係が。
本物みたいに、心を揺らすことになるなんて。
――そして苦しい恋になるとは思わなかった。




