1話_⑨
「これは、少佐の結界……!」
慌てて立ち上がり、足元を中心に周囲を見回す。
すると、冷が座り込んでいた場所からちょうど死角になるような位置に血まみれになった呪符が落ちていることに気が付いた。
そこに綴られた文字は判別が出来なくなってしまっているが、間違いなく漠夜の結界符だ。
かつて『化け物』と呼ばれ忌み嫌われた記憶の海に沈んでいた冷は、その結界符を見た途端に頭を強く殴られたような衝撃に体を震わせる。
(これじゃあ昔の僕と同じだ)
はっきりと開いた視界に映るのは、全身を血で染めながらも果敢に立ち上がる漠夜の後ろ姿。
彼がなぜ頑なに立ち上がり続けるのかわからなかったが、ここに結界符を残していった事に気が付いてようやくその真意に思い至る。
彼は、自分が倒れないうちは冷を護る術が発動し続ける事を知っていたのだ。
だから彼は自分の傷を治すのを後回しにしてまで、勝負を急いだのではないか。
(もっと早くに、気付かなければいけなかったのに…!)
冷静になった頭で彼から掛けられた言葉を一つ一つ飲み下して、ようやく気付く違和感。
冷に「興味がない」と言った時、彼は明確に言葉を選んでいた。
『これ以上は踏み込んでほしくない』という冷の心を尊重するための言葉を。
その上で自分よりも冷を護ることを優先したのだと、漠夜が残していった結界符が雄弁に語っている。
震える手でそれを握り締め、冷は息を深く吸い込んだ。
態度の悪さも口の悪さも折り紙付きで、配慮の欠片もない言葉を流暢に吐き出す彼の無言の言葉は、剥き出しだからこそどんな言葉よりもまっすぐ冷の心に響く。
生きることを願われたのは、初めてだった。
「僕は強くなるために、ここにいる……!」
結界符を懐にしまい、代わりに取り出したのは冷の仕様する媒体である魔鏡。
内側から流れ出た恐怖という感情を拭い捨てた冷は、はっきりと意思を取り戻した目で前を見据えて地を蹴った。
向かう先で奔る火花の嵐に、思考が体に追いつく前に割って入る。
手に持った魔鏡は末羽の牙を受け止めており、もう片方の手は漠夜を庇うように伸ばされていた。
火事場の馬鹿力とでも言うのだろうかと呑気に考える頭を軽く振りながら、冷は魔鏡を持つ手に力を込めた。
「僕は葉邑冷――白鷺一番隊の軍人です。忌童なんて名前じゃない!」
渾身の力を込めて結界を発動させ、末羽の身体を弾き飛ばす。
今までほとんど魔力を使っていなかったおかげで万全の状態で発動させられた結界は、少なくとも彼女の攻撃をわずかに防ぐほどの効果はあるだろう。
「少佐、すぐ治しますから!」
既に呼吸しているかどうかも怪しい漠夜の身体を支えながら、焦りでもたつく手で軍服を剥ぎ取る。
血でまみれていたためある程度の負傷は覚悟していたが、その予想を上回る負傷具合に冷の顔色は蒼白になる。
縦に走る裂傷に、あちこちに焼け焦げた跡や細かい刺し傷。左肩を貫通した傷跡は辛うじて筋肉の断裂だけが直されている状態だ。
「こんなに傷を負っていたなんて……」
全身のあらゆるところに傷がついている姿を目にし、冷は改めて漠夜の超人的な身体能力を痛感した。
これほどまでに傷を負っていながら、彼は冷を護りながら末羽と互角に渡り合っていた。
まじまじと体を観察し、ある程度の傷を把握できたところで魔鏡を彼へと向ける。
妖しげに光る鏡面に漠夜の体を映し、治癒魔術を発動させる為に魔力を込めていった。
(内臓までいってる傷もある……どれだけ治せるか……)
漠夜の傷に意識を集中させながら、深い傷から先に傷口を塞いでいく。
完治はしない程度に止血を優先させていかなければ、先に冷の魔力が尽きてしまうことは容易に想像がつく。
もともとの魔力はそこまで少なくないが、立て続けに起こった衝撃のせいでうまく集中できずに魔力を通常以上に消耗しているせいもあるだろう。
取り乱してはいけない、術の発動に集中しなければいけない。
そう言い聞かせながら魔鏡を持つ手に力を籠める。
「うっ……」
一番大きな裂傷が塞がり始めた頃、僅かな呻き声と共に漠夜が目を開く。
深い青の瞳が見えたことに安堵するものの、そのすぐ後に喀血してしまう姿を目の当たりにし、冷は魔鏡を取り落としそうになった。
「少佐!」
先ほどよりも血色の良くなった漠夜の瞳が焦点を取り戻し、冷の顔をまっすぐに見つめる。
「お前……」
「すみません、もう何を言われても僕は引けません」
何か言いたそうに険しい表情を浮かべる漠夜をまっすぐに見つめ返して、冷は静かに首を横に振った。
「悪意に負けない人間になるための道を、選んだから」
治癒の邪魔をするように、末羽の氷柱が矢のように飛んでくる。
それを結界で弾き飛ばしながら、わずかな術の切れ目を見計らって漠夜への治癒を施す。
治癒と防御を同時に使用できる技術があれば良かったのだが、今の冷では状況に応じて切り替えなければどちらも中途半端になってしまうのだ。
己の未熟さを歯がゆく感じながらも、絶対に負けたくないという意思がそれを凌駕する。
「お前も案外、負けず嫌いなんだな」
「かなり遠慮なく怒られてきたので、とっくに知ってると思いました」
「んなわけねえだろ」
わずかに余裕が出てきたのか、漠夜が呆れたように小さく笑う。
それを見て随分と遠慮のない物言いをしてしまったことに気付いたが、それを向けられた当の本人が気にしていないようだったので、まあいいかと思った。
気に入らなければハッキリと文句を言う人だと、冷はきちんと知っている。
「もう持ち直しちゃった。案外つまらないね」
忌々しげに表情を歪めた彼女は手を振りかざし、そこから生まれた炎が辺り一帯を取り囲んでいく。
地面を駆け巡る炎はあっと言う間に二人の周囲に燃え上がり、焼け付くような熱気が器官を蝕んだ。
熱を逃がすように深い息を吐いた隣で、血で重たくなった隊服を捨て数枚の呪符のみを携えた漠夜が同じように息を吐く。
「巻き込まれんなよ」
「はい。……大丈夫です、やれます」
冷の言葉に満足そうに瞳を細めた漠夜は、呪符の中から爆符を選び取って末羽の足元めがけて投げつける。
爆発音と共に粉塵を巻き上げ、ともに舞い上がった灰が彼女の着物をくすんだ色に変えた。
虚を突かれた末羽は一瞬気を逸らすが、すぐに気を取り直して炎を巻き上げる。
粉塵の中では相手の姿が全く見えなかったが、豪火によって発生した風が粉塵を巻き上げ、瞬く間に彼女の視界を晴らす。
「面白いことをしてくれるじゃないか」
「ふざけんのも大概にしとけ。お前は死ぬんだよ。今此処で、もう一度」
先ほどよりも離れた位置に立つ漠夜が言い放つ。
伸ばされた指は血にまみれ、お世辞にも綺麗とは言えない程血液を纏ったその姿。
「末羽さん……一つ教えて下さい、どうしてこんな事を?」
「理由なんて、今更そんなものは意味を成さないよ」
「そう……ですか」
無感動に返された言葉に目を伏せる。漠夜とは正反対に立つ冷の姿には視線を向けず、ただ末羽はそこに佇む。
もしかしたらまだ何かを企んでいるのかもしれない、と気を引き締めた冷だったが、最後に一言だけ呟いた。
「こうなる前に助けたかった……」
彼女に向けた、葉邑冷としての最期の言葉は空気中に溶けていく。
それが届いたのかどうかわからなかったが、末羽の着物の袖から一匹の蝶が生まれて空高く舞っていった。
魔鏡を空高く向け、冷は深く息を吸う。
逸る気持ちを抑えながら対極の位置にいる漠夜の姿を見れば、彼はただ冷の準備が整うのを彼女の行動に気を付けながらじっと待っていた。
彼の気持ちに応えるために極限まで集中を高め、別に取り出したもう一枚の鏡を末羽に向ける。魔鏡ほどの輝きはないが、磨きぬかれた鏡面がその姿を全て映したところで手を留めた。
「貴女は、今ここで破壊する」
光を浴びてその魔力の質を高めた魔鏡から次々と薄い板のような物が生み出され、末羽を取り囲むように連なって回る。
鏡のように目の前の光景を映し出すそれは、冷の魔力によって生み出された結界の応用術だ。
合わせ鏡のように際限なく彼女の姿を重ねていく鏡面を見据えながら、漠夜は手に持った呪符の魔力を開放した。
「炎符、陽符、連結合成」
炎を生み出す炎符と眩い光を発生させる陽符の魔力を掛け合わせ、漠夜が己の内の魔力を高めていく。
あらかじめ魔力を込めた幾つかの種類の符を好んで使う彼は、限られた種類の札を掛け合わせて魔術を発動させることが多い。
今回も複数の呪符を使って大掛かりな術を展開させるため、使用する札に合わせて冷も結界を張ることに神経を集中させる。
「蒸発して消し飛べ! 炎舞・雛菊!」
掛け合わせた二つの呪符から閃光が弾け飛び、一直線に幾筋もの赤い光が冷の結界に反射していく。
炎舞・雛菊は冷の術の特性に合わせて練り上げられた、漠夜自身もめったに使わないという術だ。
雛菊の実態は、反射効果を持ち光速で動く炎。
炎と光の特性を兼ね備えたこの術は、一直線にしか動けないという難点を抱える傍ら、ある程度の物ならば貫通して燃やし尽くしていくという威力を有する。
鏡面の所々で屈折率を変えた結界を反射していく炎は跳ね返るたびに分散し、一秒もかからないうちに光の束を作りだす。
「終わりだ、末羽」
「少しばかり手数が増えたくらいで何を──」
目の前に迫った炎の光線を弾きながら、末羽が漠夜を嘲るように笑う。
しかしその表情からはすぐに余裕が消えうせ、やがて彼女は憎らしそうに、しかしどこか楽しそうに炎を睨みつけた。
「フェニックスか……!」
彼女の視線の先、鏡の角度を操作しながら炎の光線が彼女に当たるよう仕向ける冷と、その後ろ。
張り巡らされたすべての結界をかいくぐるように細く鋭い炎の矢を放つフェニックスがそこにいる。
漠夜の派手な術も冷の結界も、全てはフェニックスの炎で確実に彼女を貫くための目くらまし。
冷どころか漠夜すらも侮っていた末羽は、包囲が完了してからようやくそのことに気が付いた。
おびただしい量の熱光線が彼女とその周囲を穿ち、焼け焦げる匂いが鼻腔を満たす。炎が空気を震わせる音がいつまでも鳴り止まない。
音が鳴り止むまで数分を要したが、これだけの時間熱線に晒されていれば跡形も残ってはいないだろう。
発火している様子は見られないが、恐る恐る鏡を下げた冷にはただの焼け落ちた燃え滓しか見受けられない。
「討伐できた……でしょうか」
「あれが本物なら、あるいは」
冷の疑問に曖昧な返事を返した漠夜は、深く息を吐いてその場に倒れ込む。
支える間もなく気を失ってしまった彼に慌てて手を伸ばせば、その全身がひどく冷えているのに気が付く。
やはり単純に傷口を塞いだ程度では気休めにしかならなかったのかと、自らの上着をかぶせて保温に努めながら考えを巡らせた。
慣れない手つきで総し尿の通信機を接続させ、任務の達成報告と重傷者がいる旨を伝えてトランスポートの使用許可を申請する。
すぐに開かれた転送陣になんとか漠夜の身体を乗せた冷の頭上を、一匹の蝶がひらりと飛んで行った。




