1話_⑦
精神的にも一歩引いた所からその戦況を見ていた冷が漠夜の制服を汚すものがただの水滴や泥の類ではないことに気付いたのは、それからすぐのことだった。
「少佐、血が!」
「いちいち騒ぐな、利き手じゃねえから支障はない」
漠夜の腕を滴る尋常ではない量の血液に取り乱す冷を、彼は末羽の氷柱を回避しながら爆音に負けない大きな声で叱咤する。
氷柱の嵐を回避しきれずについてしまったのだろうその傷を、漠夜は治癒しようとすらせずに目の前の末羽に向けて攻撃を続ける。
舞い上げた爆炎舞はとうに尽き、左腕を負傷した彼は剣で薙ぎ払うだけの単調な攻撃へと変わってしまっている。
さらにフェニックスは相性が最悪であるせいもあってか。蛟の相手をさせるのが精一杯で、氷柱を焼き払う余裕がない状態のようだ。
「少佐、傷の治療なら僕だってできます! 腕を……」
「いいから、お前は大人しく引っ込んでろ!」
追いすがる冷の腕を振り払いながら、漠夜は目の前の氷柱をなぎ払う。
軽い音を立てて砕けていった氷柱の中身は空洞で、氷柱の生成自体には魔力をあまり込めていないことが窺い知れた。
空洞であるからこそ、その軽さからもたらされる速度とそれを飛ばすために必要とする魔力量は本物の氷柱の比ではない。
速度が上がることで殺傷力もぐんと上がり、結果的に末羽は必要最低限の魔力で大量の凶器を生み出すに至っていた。
「キリがねえ……っ。爆炎舞!」
降り注ぐ氷柱の間を縫うように爆符を高く舞い上げた漠夜は、一旦体勢を整えるために一歩下がる。
狙いが分散している所を見ると、先程の爆炎舞とは違い今度の術は単なる目眩ましなのだろう。爆符に気が逸れる一瞬の隙をついて、左腕の治療をするつもりなのかもしれない。
「これは流石に面倒だね」
隙を窺う漠夜に気を取られていた冷は、末羽が零した小さな言葉に対して反応が一瞬遅れる。
彼女は面倒臭そうに呟くと、両腕の袖をひらりと翻し、血で染め上げたような真っ赤な蝶を無尽蔵に生み出していく。
着物から抜け出たように立体感の無い数多の蝶は一瞬にして空を覆い尽くし、ゲタゲタと不気味な笑い声にも似た羽音を響かせる。
「避けるよりもさ、全部消してしまう方が手っ取り早いよね」
鼓膜が引き裂かれたかのように一瞬にして周囲は音を無くし、目に映る世界は黒一色に塗り潰される。
次いで響く酷い耳鳴りに目の前が歪んでいき、冷は自分の存在すら分からなくなる程の、絶大な何かに囚われる感覚を覚えた。
煩く脳髄に響く胸騒ぎと鼓動に導かれて開いた視界に広がるのは、黒と赤に支配された空間。
――取り込まれたのだ。
冷がその事に気づくのに時間はかからず、気づいた瞬間に恐怖が思考を支配する。
末羽の魔力によって生み出された空間は、その場にいた人間を飲みこんで姿を変えたのだろう。
誰もいない空間の中で、遠くから子供の笑い声と大人の怒号が響いてくる。
(なんか嫌だな、妙に落ち着く)
悍しい空間である筈なのに、冷が感じるのは恐怖だけではない。
まるでゆりかごのような安堵の中で抱くのは、虚無という名の郷愁。
遠い子供達の笑い声が、自分に向けられたものであると、冷は知っていた。
(そういえば、あの人はどこに……)
かすむ思考の中でぼんやりと思い出した漠夜の姿に、自分の体の感覚が戻ってくるのを感じた。
有象無象の声が遠ざかり、かすかに震える足は漠夜を探すために歩みだす。重たい体を引き摺りながら漠夜の姿を探し始めた冷が、間違いに気付いたのはそのすぐ後。
目の前が揺らいだかと思うと、まるで陽炎のように目の前に小さな影が現れる。
赤い蝶を伴って姿を形作ったのは、先ほどまで漠夜と対峙していた小さな少女。単独で取り残されてしまった状態で、末羽に目を付けられてしまったのだと瞬時に理解し、緊張が背筋を突き抜ける。
「あっ……」
「もう一度、私とお話しようか」
緊張と恐怖で声を出す事も出来ない冷に構わず、末羽は微笑みを浮かべながら静かに口を開く。
その声は先ほどまで漠夜に投げかけていた楽しげなものとは違い、ひどく冷徹で温度のない声だ。
ゆっくりと歩み寄っていた彼女は、一歩も動けないでいる冷のわずか数歩手前で立ち止まる。
「君は【忌童】だね?」
「え……」
末羽の言葉を理解した瞬間、冷は自分の血の気が引いていく音を聞いたような気がした。
突き抜ける悪寒は恐怖としか言いようがなく、【忌童】とはなんだと白を切ることすらもできない程動揺してしまう。
一歩後退し、力なく首を左右に振る。自分は違うのだとアピールしようとしたその仕草だったが、おそらく彼女には虚勢だと見抜かれているだろう。
「ばかな人。どうせ人間なんて信用できないのに、どうしてこんな所にいるの?」
彼女が言葉を紡ぐ。それから逃げるように耳を塞ぐ。
しかし、彼女の声は張り上げているわけでもないのに不思議とよく通り、耳を塞いでいてもまるで直接語り掛けられているような錯覚に陥る。
「傷つくのが怖くて人の世から逃げ出したくせに、どうしてまた人間の中で過ごしているのかな? 蔑ろにされて、裏切られて、虐げられて……なんて哀れで素晴らしい道化だろう!」
「っうるさい!」
彼女の周囲を埋め尽くす蝶がゲタゲタと笑い声に似た羽音を立てる。
それが過去に投げかけられた嘲笑を思い起こさせて、冷は思わず大きく声を張り上げて叫んでいた。
「そんなの知ってる……!」
嘲笑を止めたくて、近くを飛んでいた蝶を叩き落とす。
すると、蝶が消える瞬間に右手に強い違和感が走り、周囲に焼け焦げたような強い刺激臭が立ち込めた。不思議に思い見てみると、蝶に触れた部分を起点として徐々に皮膚が腐って爛れている。
(……このまま腐り落ちることができたら良いのに)
わずかに腐敗し、しかしすぐに治っていく様子をぼんやりと見つめる。
腐り果てることが叶わないと知っていても願ってしまうのは、冷が自分のことを嫌っているからに他ならない。
冷は、冷の体は、絶対に腐らないと知っているのに。
(もう嫌だ、いやだ!)
恐怖の権化のような彼女から逃げるように、冷は背を向けて走り出した。
黒い森の中は方向感覚を麻痺させてしまい、どこまで行っても同じ場所を走っているような気にさせる。
息を切らして森の中をひた走っていると、不意に耳元で声が聞こえた気がして、冷はその場で立ち止まった。ひどく取り乱したような女性の声だ。
『お願いだから母さんなんて呼ばないで!』
誰の言葉だろうか。
先ほどよりもひどく鮮明に聞こえたそれからも逃げるように、冷は再び足を動かしてその場から走り去る。
女性の声を皮切りに徐々に増えていく言葉たちは冷の頭の中を反響して、意識を遠い昔へと引きずり戻していく。
『化け物』と、その言葉が重なっていく。
(僕はなんでこんなに頑張っているんだろう……)
逃げるようにひた走っていた冷だったが、絶えず罵声が響いていたせいで走る気力はほとんど削がれてしまっていた。
このまま座り込んで、静かに一人で腐敗して死んでしまいたいとすら思い始めたその時だった。
見慣れた白い背中が視界に入り、黒い森の中でも輝きを失わない銀髪が目に飛び込んできた。
「少佐……」
ふらふらと彼に歩み寄り、助けを求めるように声をしぼりだす。
まだ距離があったと思っていたが、どうやらそうではなかったようだ。微かな声にも反応した漠夜が振り返り、澄んだ青色と目が合った。
「伏せろ!」
漠夜の眼が見開かれたと思ったと同時に、体に強い衝撃が走る。
地面に倒れ込んだ冷が慌てて体を起こしてみると、そこに広がっていたのは赤と白の洪水。細く長い氷柱に体を貫かれている漠夜の姿だった。




