『屋上のヴィーナス』
「七種の写真は固いな。もっとメインの被写体を柔らかく撮ってやらんといかんぞぉ」
「はぁ…」
「写真ってのは哲学なんだぁ。有機と無機、形あるものと無いもの、被写体と景色とをアウフヘーベンしてだな…」
「はぁ…」
「まぁ、あれだ。お前も多田の奴を見習うといいぞ」
顧問がくいと促した方向を見れば、多田さんが取り巻きどもと話しているのが聞こえてきた。
「え!?愛菜また受賞したのぉ?」
「まぁね〜!これが才能ってやつ?」
「うわ否定しずら〜!事実だからタチ悪ぅ〜」
ぎゃあぎゃあと騒がしい声が私の鼓膜を劈いていく。
あれは周りに聞こえる様にわざとデカい声で喋っているのだ。
自分の功績を見せびらかす為に。そしてそれ未満の周囲をこき下ろす為に。
今の写真部にいる人間は主に二種類。
居た堪れないような雰囲気で遠巻きに彼女を見ている奴と、逆に彼女に気に入られようと擦り寄っていく奴。
ちなみに私はもちろん前者。
彼女のせいで部の雰囲気は最悪だ。
でもそれを咎める人は誰もいない。
誰も彼もが他人の顔色を伺っている。
皆が皆、他者の評価を気にしている。
コミュニティという水溜りの中で周りと一つになって、さざ波を立てないようにささやかに揺らいでいる。
そんな環境の中で際立てるのは、日和見している全てを巻き込んでうねりを上げる圧倒的な才能だけなんだろう。
ふと、多田さんがこちらを見た。
彼女のカラコンを入れた青い視線が凸レンズを抜けて私の瞳の奥へと到達____
することはなく、彼女は作り笑いを貼り付けながら私の眼鏡の端を通り抜けていった。
「あ、せんせぇ〜!次のコンテストに向けてアドバイスが欲しいんですけどぉ〜」
「おおぅ、いいぞぉ、なんでも聞いてこぉい」
猫撫で声を上げる多田さんと、満更でもなさそうな顧問を横目に私はその場から立ち去った。
文字通り、眼中にも無いってわけだ。
私は淀んだ空気の部室から退散する。
「抽象的な事しか言えない無能顧問め!私は哲学者じゃないっての!」
私は自前のカメラを首から下げて、次のコンテストに出す写真のネタを探して校内を徘徊する。
あの鼻持ちならない多田さんに勝てる様な、そんな写真を求めて。
さながら私は邪智暴虐の王を退ける為に奔走するメロスだ。
勇者は探している。魔王を滅ぼすための『剣』を、ずっと。
私には待っててくれるセリヌンティウスはいないけれど。
シャッターを切る。パッとしない。
見慣れた校内、見飽きた景色、見果てぬ理想…
変わり映えのしない光景に焦燥感が腹の底で渦巻く。
(…いつからだろうか?)
他人にウケるネタを探して、コンテストで評価されるような写真を撮る様になったのは。
昔はもっと写真を撮るのが好きだった気がする。
撮りたいものを、心の赴くままに撮っていたから。
世界の瞬間を切り取った私だけの長方形。
縦89ミリ横127ミリに詰め込まれた景色に一体何を『写し取れる』のか。
シャッターを切る度に、シャッターを切る前からワクワクしていたのに…
今じゃ無味乾燥に指を押し込むだけ。
確かに技術は昔と比べるべくもない。でもそれだけだ。
私の撮った写真は一枚一枚がかけがけの無いもので、ただ眺めるだけでも、見返すだけでも色々な感情が込み上がってきたものだ。
それはまさしく世界にたった一つだけの宝物で、開けば思い出が胸いっぱいに広がる自分だけの宝箱だったのに___
『なにこれ?』
『よくこんなのウキウキで見せれたよね〜』
『変なの』
嫌な記憶が呼び起こされて、カッと顔が熱くなる。
もう、あんなオモイはごめんだ。
私もコンテストで受賞したい。あいつらをギャフンと言わせたい。見返してやりたい。
でなきゃ私は……
何のために写真を撮っているのか、わからないから。
「…ん?」
ぽたりと私の頬に水滴が落ちてきた。
雨でも降りだしたのかと曇り空を見上げて____私は屋上で蠢く人影を見る。
あんな所で何をやってるんだ?あそこの屋上は立ち入り禁止のはず……
頬を伝う雫を指で拭うと、私の指が薄いオレンジに色づいた。
それはまさに、砂漠に注がれた一筋の雨粒だったのかもしれない。
私の乾いた心はそれに吸い付いた。
好奇心のままにチェーンを乗り越えて、明らかに使われていない外付けの螺旋階段を登りだす。
できるだけ音を立てないように、ゆっくりと錆びた鉄を踏みつけてゆく。
立入封鎖の屋上でこそこそしている人間なんてそれこそうってつけのネタじゃんか。
正直、そんなゴシップみたいな写真を撮るなんてとも思ったけれど、内なる衝動には勝てない。
今の私はとにかく焦っていた。
遮二無二手探り暗中模索。
自分をまだ見ぬ新天地へ連れて行ってくれる何かを、ずっと探してる。
密談、逢引き、不良行為…はたまた青春の一ページか。
一段ずつ登るほどに私の中で想像は膨らんでいった。
ネタになるならなんでもいい。ネタに繋がる何かでもいい。
兎にも角にも霹靂が轟いてくれ。ただでさえ私の心はこの空みたいにどんよりと曇っているんだから____
そんな私のもやもやを吹き飛ばすかの様に、屋上へと一迅の風が舞い上がった。
屋上に足を踏み入れた私は、反乱した前髪に視界を奪われる。
「_____よし!いい感じっ」
髪を掻き分けたその先で、開けた視界に写ったのは一人の女の子だった。
制服の色を見るに同級生だろう。小柄でふわふわとしたボブカットの女の子。
そいつは何かを呟きながら一心不乱に屋上の床へと何かを描いていて、その傍らにはバケツやらパレットやらが散乱していた。
なんだ、美術部かなんかか。さしずめ屋上アートとかそんなところだろう。
私は少しガッカリしながらどんな絵を描いてるのか、こっそりと確認しようとして___
目に飛び込んできたのは、海を思わせる青い背景の中に浮かび上がった薄橙のシルエット。
弾けるような豊かで大きい胸。
その頂点に聳え立つ桃色の突起。
滑らかな曲線から描き出された尻の割れ目。
そこに描かれていたのは、顔の無い女性の『裸体』だった。
「学校でなんてもん描いてんのっ!?」
「えっ!?だ、誰?」
「あっ、いや……ちょっと通りすがりのものです?」
件の女は弾かれるように顔をあげる。その頬にはところどころ絵の具が飛び散っていた。
しまった……意味が分からな過ぎてつい声を上げてしまった。
「そのカメラ……もしかして取材っ!?」
私がしどろもどろになっていると、そいつは何を勘違いしたのか目をキラつかせて顔を綻ばせた。
いや、なんでそうなる?
「ちょ、ちょっとまってね!」
戸惑う私を他所にそいつはいそいそとバケツを小脇に抱えて、さっきまで地面を撫で付けていたデカめの筆を真っ直ぐに立ててきた。
そして、これ以上はないってくらいにっかりと笑った。
……いい笑顔だ。いい笑顔だけども。
「はい、どーぞ!」
「えーっと…急にどうした?」
「え?まずは写真から撮るのかなーって。…あ!もしかしてポーズの指定とかある感じ?」
「あー、うん。いや、そのままでいいよ。はいチーズ」
「いぇーい!…って早ぁ!もう終わり!?こういうのって何枚も撮るもんじゃないの?」
勢いに流されるがままとりあえず一枚撮っとく。
…まぁ、普通にいい写真だ。
多分、感情豊かなやつなんだろう。なかなかいきなりでこの表情は出せない。
ぼんやりと撮った写真を眺めながら、私の脳細胞が目の前の奴に対して一つの情報を引っ張り出してきた。
そういや聞いた事がある。
「……ねぇ、美術部の変人一年生ってあんたの事?」
「いかにも!未来の『天才』ヌード・アーティストこと一宮唐子とは私のことだよ!」
いや、『変人』の自覚はあるんかい。
というかヌードアーティスト?つまりは裸を描く奴ってことか?
美術方面にはあんまり詳しくは無いけど、そう言うジャンルがあるのはなんとなく知ってる。
知ってはいるけども……よもやそれを白昼堂々と天下の学舎でやるやつがいるとは思ってなかった。
「つまり、これは俗に言うポルノグラフィーってやつ?」
「違うよー!これはヌード!EROじゃなくてARTだよ!」
「…いや、何が違うだ?」
「ヌードってのは芸術的に裸体を描く事なの!裸体の持つ美しさを詳らかに、かつ美学的に描き出すことが目的!ポルノはえっちな気分にさせることが目的だからヌードとは根本的に違うものなの!」
「どっちにしろ裸なんだから一緒じゃん!変わんないだろ!」
「全然違うよぉ!シェフの手作りオムライスと冷凍オムレツぐらいちがうよ!」
その例えはさっぱりわからんけれど、一宮さんなりのこだわりがあるのは伝わってきた。
こりゃ変人扱いされるわけだ。模範的一般人には理解できん感性…ともすると、こういうやつが天才肌ってやつなんだろう。
そして、そういう奴がコミュニティから弾かれるのも世の常だ。
もしかして、こんなとこで描いてるのも部屋から追い出されたからじゃないのか?
私は雲から差し込んできた光に照らされる乳首部分を眺めながら、そう思った。
「悪いけど、取材とかじゃないからね。たまたま見かけたから何してるのか気になっただけ」
「なーんだ、そうなんだぁ。まぁそれはそれとしてゆっくり私の作品を見ていってよ!」
「いや、もういいや」
とりあえず写真も撮れたし…
今日の所はこれで満足しておくことにする。
私がそのまま踵を返そうとすると、一宮さんが慌てて縋り付いてくる。
「はやぁ!?ね、ね?もうちょっとだけ見てかない?!今ならこの作品がお得に見放題!写真も好きなだけ撮っていいからさぁ!」
「お前はテレビショッピングの司会か何かか?」
「そんでできれば四百文字ぐらいの感想もお願いします!」
「夏休みの宿題かよっ!」
図々しくも一宮さんは真剣味を帯びた真顔でそう言い放った。
ボケなんだか天然なんだかわからない。
「あなたが最初の鑑賞者なんだよ〜!ね?お願いお願いお願い〜〜!」
「ええい、うっとうしいな!わかったわかった!ちゃんと見てやるからちょっと離れろ!」
「え、ほんと!?やったぁ!」
「ったく…」
私は突撃セールスマンの押し売りに負けて、しぶしぶ目の前のヌードと相対する。
全く、自分の裸ですらこんなにまじまじと見た事ないぞ……
しっかりと絵を観察するために、私はカメラを覗き込む。
肉眼で見るよりも、私はこの方が世界を捉えられる。
「ちなみにこの絵のタイトルは『屋上のヴィーナス』だよ!」
背景は…多分海だろう。白波が繊細なタッチで細やかに描かれている。
屋上の床は当然、ザラザラとした粗いコンクリート性だ。よくもまぁ、こんな劣悪なキャンパスの上にここまで細かく描けるものだと少し感心する。
私は屋上に這いつくばった。
「…おぉ?」
角度は…うん、ここがいいな。
ちょい斜めの角度、カメラを地面から浮かして、二次元的な裸部分を浮き上がらせるように、こちらが下から見上げてるようにして___
「…あれ?撮らないの?」
「んー、んー…うーん。雨でも降ってればなぁ…」
「ふむ、なるほど?」
それは別に独り言だった。
ただぽろっと、思ってたことが口から溢れただけだ。
乾いた状態よりも、濡れていた方がそれっぽいと、ぼんやり思っただけだ。
「___それなら唐子さんにまかせなさい!」
だから、私は一宮さんのその言葉を聞き流した。
ふっとヌードの上に影が落ちる。
私はなんだなんだとカメラ越しにその影を見上げて___
私の正面、絵を挟んだ向こう側で、一宮唐子がバケツを構えて立っていた。
「いっくよー!」
おい待て、一体そのバケツをどうするつもりだ___
「そりゃあ!!」
私の思考よりも早く、一宮さんはバケツの中の水を自分の絵目掛けてひっくり返した。
絵の具が溶け込んでいるであろう色水が、うねりをあげてヌードの上へと襲いかかる。
当然、その先にいる私のところも。
しかも私は這いつくばってて、その上レンズの向こう側の景色に集中していた。
当然、そんな状態で襲いくるバケツの水を避けれるはずもなく…
時間がスローモーションになる。
目の前に現れたいくつかの限られた選択肢の中から、私はシャッターを切ることを選びとった。
水に濡らされたヌードじゃなくて、バケツをひっくり返した一宮さんが写るように。
カシャリ
と、写真がこの世に産声を上げる。
あー、これはこれで結構良い瞬間を切り取れたかもしれない____
「…あっ!?」
ばしゃり。
と、水の冷たさが私の上半身を包み込んだ。
一宮さんが自分のやらかしたことに気づいたのとほぼ同時に、色水は容赦なく私の制服を染め上げたのだった。
「ごっ、ごめーん!大丈夫?!」
「…」
私は眼鏡を取って無言で顔をぬぐう。
絵の具の独特の匂いが私の鼻をついた。
かろうじて瞼を開けば、白色だった私の制服が薄橙に染められている。
それは私の肌の色と同化して、遠目から見れば上裸に見えること請け合いだろう。
視線を下ろしてカメラの動作も確認する。…うん、大丈夫。問題なさそうだ。
さっきの『犯行』の瞬間もばっちり取れている。
よかったよかった。これで私がびしょびしょになった甲斐があるってもんだ___
「…ってなるかぁ!!」
「うわっ!?」
「バケツの水ぶっかけるなんて今時のイジメでもやんねーぞ!一体全体どういう了見なんだぁ!?あぁん!?」
「い、いやぁその〜、雨が降ってたらって言ってたのでバケツで濡らせば良いかな〜って思いまして…」
「確かにそれは全くもっていいアイディアだったとは思うよ?ぶっかける角度以外はな!!」
「いや、はい、あの、すみませんでした…」
一宮さんはしわしわの犬みたいにシュンとなって、全身で反省を表していた。
「……まぁ悪意があったわけでは無さそうだから別に良いけどさ。その代わりといっちゃなんだけど、さっき撮った写真を使わせてもらうかもしんないけど別にいいよね?」
「はい!私めに異論はありません!……あ、写真撮れたんだ!見せて見せて!」
「撮ったのはヌードじゃなくてお前の犯行現場だけどな。ほれ」
「あ、ほんとだぁ、バッチリ写っちゃってる…」
よし、言質は取ったし、収穫も充分だ。
ここに来た目的は十二分に果たされたと言えよう。
…私のブラウスが色物になっちゃったけども。差し引きで言えばプラス収支だ。うん。
私はそのまま足早に立ち去ろうとして、再び一宮さんに追い縋られた。
「あ!ちょっと待って!」
「ん?まだなんかあんの?」
「それ、アクリル絵の具だから乾くと落ちにくくなるよ!今から帰って普通に洗濯しても落ちないかも!」
「なにぃ…?そうなの?」
言われてよくよく見てみれば、一宮さんの制服はところどころ色が変わっていた。
多分、絵の具がついちゃって落ちてない跡だろう。
…なんちゅうもんぶっかけてきてんだ私に。
「うん。私の家なら絵の具落とす用のアレコレがあるし、それにめっちゃ近いよ!もちろん乾燥まで込みで洗濯もできます!」
「んーつまりどゆこと?」
「お詫びにもならないとは思うけれど、最低限そのぐらいはさせていただこうかなぁって…」
一宮さんは人差し指をむにむにと突き合わせながらそう言った。
正直、制服の色が変わろうが別に気にはならないんだけども…
生活指導の時に色々言われても面倒か。
と、そこまで考えて、私は一宮さんがほのかに上げた口角のにやけを見逃さなかった。
「あ!お前そのついでに私から絵の感想を聞き出したいだけだろ!」
「そ、それもある!それもあるけどっ!善意100%だからぁ!」
「本当かよ…」
こいつは私と今日会ったばっかで、人に向かってバケツの水をひっくり返すような馬鹿で、学校で恥ずかしげもなく女の裸を描いているような変な奴だ。
変な奴だけども…
悪い奴じゃないと、そう思った。
少なくとも、私の世界を無作法に踏み荒らしてくる様な奴では無いと…
そんな雰囲気を、私は何となく感じ取った。
「…菓子折りの一つでも出せよな」
「あ…うんうん!任せといてよ!とびっきりのおやつ出すからさ!」
少しだけ、この一宮唐子という人間に興味が湧いていたのもある。
ヌードなんていう、人から後ろ指を刺されて笑われてもおかしくない道を歩もうとしている人間が、一体何を考えて生きているのかを。
どんな信念を抱えたまま、この世界で生きているのかを、私は知りたかった。
多分、それは私と違う世界なんだろうなと、そう思いながら。
「それじゃあ私んちにレッツラゴー!」
私はまるで引きつけられるように一宮さんの後ろについて行く。
空を仰げば、梅雨の曇り空の隙間からほのかに陽の光が差し込んできていた。
○ △ ○
学校裏の大通りを抜けて住宅街へと入り込んでいき、ひしめき合う家々を超えた私の目の前に、一つの家が現れた。
黒い石で作られた表札には達筆で『一宮』と彫り込まれている。
「ようこそ~!ここが私の家……いやさ!アトリエだよ!」
「急にアーティストぶんな。家って言え…というか本当に家近いじゃん。学校から五分もかかってないよ」
「へへ〜!高校はイエチカで選んだからね!厳選された自慢の立地だよ!」
「イエチカで高校を選ぶだなんていいご身分だな。頑張って合格した全員に謝れ!具体的にはこの私に!」
こいつこんな雰囲気で頭いいのかよ。うちの高校は偏差値けっこう高かったはずなんだが?
ギリギリだったんだぞ、こっちは…
「バカとなんとかは紙一重ってことか…」
「あれ?私いまバカ扱いされてる?めっちゃ心外!」
「賢い人間はヒトに向かってバケツの水をひっくり返したらどうなるか想像がつきそうなもんだけど?」
「う、それを言われると弱い…」
門をくぐって飛び石を渡り、花が華やぐプランターを超えて玄関の中へ。
庭も内装もいたってフツーの一軒家だ。植木は無くって、よく手入れされた芝生が敷き詰められている。
私が久方ぶりに他人の家を観察していると、靴を脱ぎながら一宮さんがしみじみと呟いた。
「お客人を家に招くなんて初めてだよー…あなたは我が家の栄えある一人目の来訪者だね!」
「そっか、私も初めてだよ。水ぶっかけられて家に連れ込まれるなんて経験はさ。…あんたまさか、そういう手口ってこと?」
「え?どゆこと?」
私の指摘に一宮さんはキョトンとした。
「そうやって家に誘い込んでは裸にひん剥いてヌードのモデルにするつもりなんでしょ!!」
「え、えぇぇ!?」
「最初っから私の裸が目当てだったのね!このケダモノッ!」
私が身を抱きしめながらそう罵ると、一宮さんはハッとした顔になった。
「その手があったか!」
「もしもしポリスメン?犯罪者予備軍が目の前にいるんですけど?」
「あははは!んもー冗談だよぉ。もちろんそんな気は無いから安心して!」
「ホントかよ…」
「ヌードと一緒だよ!私に下心は一切ありません!」
「___だから、ね?いい子だから脱ぎ脱ぎしよっか」
「完全にやってる側の言い方ぁ!…ま、脱ぐけどさ」
一宮さんとテキトーな応酬を繰り広げながら、私はリビングまで案内される。
テレビにソファ、ふかふか絨毯とローテーブル。
キッチンの前に置かれたダイニングテーブルの上には画用紙が乱雑に広げられていた。観葉植物もある。
「私、着替えとってくるねー!」
濡れた服を脱ぎだした私をよそに、一宮さんはパタパタどこかへ駆けていった。
勢いのままについてきたけど……本当に下心は無さそうだ。
私は人の家で服を脱ぐという何とも言えない感覚を覚えた。
湿った服をたたみながら、手持ち無沙汰に部屋を見渡して……私は壁に飾られた『それ』を見つける。
大事そうに額縁に入れられていたのは、長い茶髪をたなびかせた女性の絵だ。
もちろん裸。尻も乳首もバッチリと描かれてる。顔は描かれて無いけど。
…そういや、屋上の絵も顔は描かれてなかったな。なんでだ?
私がぼんやりとその絵を眺めていると、着替えを持ってきた一宮さんが嬉しそうに声を上げた。
「あ、それ私が描いたんだよー!若い頃の作品だからだいぶ拙いけどね!」
「そうだろうね。…ちなみに題名が『ママ』なのは私の見間違いかな?」
「え?ううん。それはうちのママがモデルだけど?」
「んなもんリビングに飾んなよッ!」
「えぇ~?」
どう考えても気まずいだろ!家人の裸を見せられるこっちの身にもなれ!
親のヌードが平然と飾られてることに私は愕然とする。
いや、この場合アートを理解できていないのは私になるのか?エロじゃないらしいし…
「……本当にそうか?いや、そうか…いや本当にそうなのかっ!?」
「錯乱してる…『ナナシュ』さんには刺激が強すぎたかな?」
「ちなみに『ナナタネ』な、読みは。…ん?何で私の名前知ってる?」
「はい!胸ポケットに入ってたよ、学級手帳」
「あ、こりゃどーも…」
おっと危ない。一緒に洗濯されてくしゃくしゃになるところだった。
…もうすでに水に濡れてふやけてはいるけども。
私は手渡されたもこもこピンクのパジャマに袖を通す。
ヌードなんか描いてる割には可愛らしい良いセンスだ。
「乾燥まで含めて一時間くらいかな~?お茶でも入れるから座っててよ!」
「それじゃあ失礼して…」
私はおずおずとダイニングの椅子に腰かける。
流石に初手でソファに座るのは気が引けた。なんとなくだけど。
「ふんふんふーん…」
コポコポとお湯が沸かされる音に鼻歌がまじる。
よくもまあ、あんまり知らないやつと二人きりでご機嫌になれるものだと少し感心する。
私は何の気なしにテーブル上の画用紙をめくる。
そこにはヌードのデッサンだろう下書きが、所狭しと描かれていた。
画用紙の隅から隅まで使って、色んなポーズで。
それがめくればめくるほどに、何枚も何枚も描かれていた。
「一宮さんはさー、なんでヌード描いてんの?」
それを見てたら、ふとそんな言葉がこぼれた。
「おっ、取材!?」
「ちーがーう!…そうじゃなくても気になるでしょ。伊達や酔狂じゃないみたいだしさ」
「んーまぁある意味では伊達や酔狂みたいなもんだけどね〜」
私の目の前に紅茶とお茶請けが置かれる。
花模様のお洒落なカップからは、甘い良い香りが湯気と共に立ち昇っていた。
お盆の中にはカントリーマアムが山盛だ。
…なぜかチョコ味だけだけど。バニラはどこだ?バニラがないぞ?
「ふふふ…私にヌードとの出会いを語らせたら長くなるよ~?」
一宮さんはバニラ味の袋を開けながら意味深げに笑った。
…こいつめ。自分用に確保してやがったな。
仕方なく私はチョコ味をつまんだ。
「手短に頼むわ」
「ふぁれはむぁだふぁたしがふぁかいころ…」
「食ってから喋れ!」
「んぐ…あれはまだ私が若い頃の話…」
「さっきから思ってたけどその言い回しなんなん?実は人生二周目なの?」
「えへへ…いやー巨匠っぽいかなって!」
「…小学生の時にね、お母さんに美術館に連れて行ってもらったんだよ。その時は世界の絵画展をやってて、私はその展示の中でとある絵画を見た時にと〜〜っても衝撃を受けたんだ」
「あー、なるほど?まぁ確かに絵画って全裸の奴いっぱいあるもんな。ちなみになんて絵画?」
「『鏡のヴィーナス』ってやつ。知ってる?」
「もちろん知らない」
「見せてあげるよ!ちょっと待ってて!」
一宮さんは嬉しそうに冊子を引っ張り出してくると、私にそれを見せてきた。
そこには全裸の女性がベッドみたいなところで横たわっている絵が載っていた。
なんかちっちゃい天使が鏡を持ってて、そこに女性の顔が映り込んでいる。
一宮さんの作品群を見た後だと随分と健全な絵に見える。
乳首は出てないし……尻は丸出しだけども。
「へー、いいケツしてんね」
「でしょぉ!美しいと思わない!?この脹脛から膝裏、太腿ときてお尻に至るまでのライン!そこから仙骨部を経て背骨の窪みから肩甲骨を越えて頸へと流れていくまでの道のり!それらを彩る白磁のような肌を描きながらも繊細な色使いでヴィーナスの健康的な血色の良さを損なっていないの!そして着目すべきはこの人体構造のバランス!肉感と曲線美を余す所なく表現していながらもキチンと生々しさと神秘性を両立させてるの!」
「あ、うん、そうだね…」
何を言ってるのか一ミリもわからん。
わからんけども…一宮さんの熱意が本気だということだけは理解できた。
彼女はまごうごとなき変人だ。ただし、一本筋の通った変人らしい。
それはこの部屋の至るところが物語っていた。
書類棚から溢れるほどの美術資料。
リビングに備え付けられた学習スペースに散らばった、夥しい数のデッサンと画用紙の束。
そこには女の子らしさのカケラもない。
絵の具の独特の匂いが微かに漂うこの家の一つ一つが、一宮唐子の努力を如実に表しているようだった。
「私はね!この絵を見て人体の……特に女体の!ヌードが持つ美しさに気が付いたの!だから自分もこの美しい絵を描きたいって、そう思ったんだぁ」
「…なるほどね」
言わんとすることは何となくはわかるけど、そこまでというか……
この絵画を見て、じゃあ『自分もヌードを描きたい!』とはならないと思うんだが……
と、そこまで考えて私は愕然とした。
一宮さんの語るヌードの魅力について、どこか冷ややかに見ている自分がいることに。
それを語る彼女自身を変な奴だと、どこか下に見ていたことに。
それはまさしく冷笑で、まごう事なき嘲笑だった。
『角度もダメ。配置もダメ。光加減もダメ』
『しかもちょっとブレてるし!』
『こんなので喜んでて恥ずかしくないのぉ?』
『『『アハハハハ!』』』
それは私が、私がされて一番嫌だったことなんじゃ無いのか?
無神経で無遠慮で無理解な誰かの口さがない言葉。
私の世界を否定してくる、他人の押し付けがましい思想と冷たい視線。
そうやって、大切に温めていた気持ちを嘲笑われることが一番辛いって、私は知っていたはずじゃなかったのか。
私は部屋に飾られた『ママ』を改めて見た。
流し見するでも、目をそらすのでもなく、真っ直ぐに直視した。
ヌードとキチンと相対するために___
一宮唐子という人間を、理解する為に。
「じゃあ顔が描かれて無いのはなんでなの?」
「お、いい着眼点だね!それはヌードの持つ雰囲気を際立たせるためだよ!人ってのは顔がついてるとそっちに意識がいきがちだからさ!」
「ふぅん。身体にしか興味がないスケベ心からじゃなかったんだね」
「違うよぉ!私にそんな下心はないってば〜」
「これはもっとこう……そう!満点の星空を眺めて見惚れる様な、そんな感覚だよ!」
「…ふは、詩的だね」
一宮さんは真面目くさった顔をしながらそう言った。
イケメン彼ピとまぐわう事しか考えてない雌猿たちよりも随分と高尚じゃんか。
やっぱ芸術をキメてる奴ってのは感性が独特らしい。
独特だけれど…その気持ちは良くわかった。
きっと、私が写真を撮りたくなったように、一宮さんはヌードを描きたくなったんだろう。
その根幹は同じだと、そう思った、
「ハッ!?つまりヌードは黒子と乳首で星座を紡ぎ出す天体観測だった……?」
「さも天啓を得た!みたいな顔してるけどまじで一ミリもエモくないからね、それ」
「えぇ〜!一ミリはあるでしょ〜!」
…やっぱりただ天然なだけかもしれない。
「でも…なんかいいね」
「えっ!?本当にっ?七種さんにもこの気持ち分かる!?」
「ヌードが、じゃないよ。…いやもちろんヌードを否定している訳じゃないけどさ」
「一宮さんのそういう…なんというか、スタンス?何かにかける情熱っていうのかな……そういうのは、私にもわかるから…なんて」
私はママのヌードアートを眺めながら、そう呟いた。
きっと、今まで有る事無い事色々と言われてきたに違いない。
それでも、こうやって自分を曲げずに……他人に振り回されずに、一宮唐子はヌードを描いている。描き続けている。
屋上で独り、誰に見せるでもなく。
それはとても素晴らしい在り方だと、私はそう思った。
誰が何と言おうが、自分にとって素晴らしいものは最高なんだ。
だから私は……私も、そうなりたい。
そうやって___
他人を気にせず、宝物を大切にしながら生きていきたいんだよ。
「あーつまり、何が言いたいかっていうと…
そうやってひたむきに作品創ってんのが私はカッコいいなって思ったってこと!」
「七種さん…」
今日会ったばっかの奴に何をつらつらと語ってるんだ私は……なんか恥ずかしくなってきた。
火照ってきた頬をごまかすように、私はぬるくなった紅茶を無造作に啜る。
私の鼻孔を、バニラのフレーバーがほんのりとくすぐった。
「…えへへ、ありがとね」
だけど、そうやって嬉しそうに照れている一宮さんを見ると、やっぱり言ってよかったって、そう思った。
…随分と久しぶりに、人間らしいコミュニケーションをとった気がする。
お互いを理解し合うために言葉を交わすような…そんな交流を。
洗面所の方から洗濯乾燥機が己の仕事を全うした音が聞こえてきて、私たちのティータイムの終わりを告げた。
一宮さんが洗濯物を取り込みに行っている間に、私は最近撮った写真を見直してみる。
風景、オブジェ、動物に花……
ここ数ヶ月で色々と撮ってきたけれど、結局ここ最近で一番の写真は今日の一宮さんの写真だった。
(私は一体、何のために写真を撮ってたんだっけ?)
にっかりと楽しそうにバケツをぶち撒けようとする彼女を見ながら、私は自問自答する。
最初は、最初はただ____
楽しかった。
自分で、自分に満足できてた。撮った写真はどれも輝いて見えた。
それだけでよかったんだ。
いつからか、私は自分の価値を高めるために写真を撮っていた。
コンテストで受賞するために。それで、写真部の奴らを見返すために。煩わしい他人どもを黙らせるための、力を求めた。
それでどうするつもりだったんだろう?
それに一体なんの価値があるというのか。
それでプロのカメラマンにでもなるつもりだったのか?
____なりたかったのか?いや、違う。
私は、好きなように写真を撮って、それを見て満足する。
それだけで、よかったはずじゃなかったのか?
私は一宮さんを羨ましいと、そう思った。
嬉しそうに、楽しそうに、好きなように、絵を描いている、彼女の事が。
誰にも侵されないで、純粋に。
何にも冒されないで、純朴に。
自分に犯されないで、純然に____
ああ多分、きっとそれがヌードの魅力ってやつなんだろう。
私は何故だか、そう思った。
「じゃ、帰るわ。制服、洗濯してくれてありがとね」
「いやいやいや!汚しちゃったの私だし!…ちょっと残っちゃったけど」
「別に気にせんよ、このくらい」
薄くなったオレンジの跡を眺めながら私はそう言った。
派手にぶっかけられたお陰で、全体的に色付いているからむしろ違和感がない。
このぐらいなら許容範囲だろう。
「じゃあね一宮さん。一宮さんの話、結構おもしろかったよ」
「まぁだから……これからも、頑張ってよね」
乾きたてでまだ暖かいブラウスを撫でながら、私は一宮邸を後にした。
「七種さーーんっ!」
帰り際の私を、一宮さんが呼び止める。
「私、明日もあそこで描いてるから!____また見に来てねー!」
ぶんぶんと元気に手を振りながら、一宮さんはそう言った。
小学生の遊びの約束かよ___なんて思いながら、私も軽く手を振り返す。
あんなにも曇っていた空はすっかりと晴れ渡っていて、オレンジ色が赤紫で彩られていた。
それは目が覚めるような、綺麗な夕焼け空だった。
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