第6回
添えた指の下で、唇が震えているのがセオドアにも分かった。
これはいけない、これではまるで非難しているようじゃないか。補佐長である蒼駕をますます困らせるだけだ、そう思っても、足元から這い上がり、染み入った凍るような冷たい不安は頭の奥を痺れさせ、離れてくれない。
あまりにひどい仕打ちだと、寒さに、涙がこぼれそうだった。
「わたしは……わたしには、実績がありません」
「魅妖を倒したよ、きみは。初めての退魔で、魅妖の町で」
「あれはわたしじゃありません!」
蒼駕の慰めにセオドアは首を振り、懸命に否定を返した。
「あれは、わたしじゃありません。『わたし』じゃないんです。
断った記憶もないし……魔断だって……」
その、今にも消え入りそうな弱々しい声から、自分自身への恐れを感じ取って、蒼駕はそっと肩を引き寄せた。
包みこむように抱きしめられた、優しい抱擁に、セオドアは一瞬息をつめる。
「そ、蒼駕?」
「きみが可愛いんだよ、彼女も。ここで無為に時間を失ってゆくきみを、見ていられないんだ。
それはもしかすると、わたしたちがここに引きとめているせいでなのかもしれない」
「そんなっ」
己を責める響きのある蒼駕の告白に、あわてて顔を上げる。
こんな自分のていたらくが蒼駕のせいであるなどと、絶対にあるはずがないのに。
悪い冗談だと……自分を慰めるために口にしただけの言葉だと思いたかったけれど、蒼駕の浮かべた表情は憂いを帯びており、彼の本心としか見えなかった。
「事実、2年もの間きみをここに縛りつけてしまった。きみの魔導杖は、ルビアにあったのに」
「でも、ここにいて、手にしました。今はもう、あるんです。だから、あの……」
必死に言おうとするセオドアに、蒼駕は頷いて、歩くことを促した。
「きみは立派に魔導杖を感応させることができた。きみは退魔師だよ。何も卑下することはないんだ。きみはここでも素晴らしい成績を持つ、優秀な生徒で、そんなきみが退魔師となるのは当然のことなんだから。
ただね。きみは封魔能力にも定評があるだろう? 無理に剣師にこだわることはないんじゃないかという見解が出たんだ」
少し残念そうな含みを残して、蒼駕はそこで言葉を切った。
どうやらそのことに蒼駕は不満があるようだ。
以前、ここの内部事情を聞かされたことのあるセオドアも、うすうすながらそうなった経緯が読める。
たとえ魔導杖を得られても、魔断がいなければ意味はない。自分は、たとえどれだけいい成績の持主であっても、才能があるらしいのは分かっても、2年半もの間魔断を得られないでいる愚か者なのだ。
いつまでもそんな存在をここに置いていては、養育費用を少しでも値切ろうとする他国につけ入られる隙を作るだけだ。かといって、前と違って魔導杖と感応してしまっている以上、才がないとは言えないし、魔導杖を取り上げて追い出して終わり、というわけにもいかない。ならば、そう、どこか封師なり法師なりの養成所へでも放りこんでしまえばいい。
実際、ここ数十年赤字続きで崖縁に立っているも同然の切羽詰まった財政を抱え、養育費の値上げ交渉を望んでいる幻聖宮側としては、不利となるものは遠ざけておくのが賢明だ。
それを彼女が思いついたとはとても考えづらいが、突き放すだけの力もなかったのだろう。宮母は、この宮を存続させるために一番となる決定を、まず第一としていなければいけないのだから。
政治と現実はいつの場合も感情で動かせるほど甘い存在ではない。
だが、それなら自分の意思というものはどうなるのだろう?
ふと、そんな思いがセオドアの中をよぎった。
「よく考えてみて」と彼女は退室間際に言ってくれたが、そもそも選択権というものが自分にあるのか。
あるとすれば、それは1つしかない。申し出通りザーハの封師専門養成所へ赴き、そこで名ばかりの教え長となるか、もしくは無一文でここを出て行くか。
人並にも言葉を操れない自分なんかに、教え長という職務が務められるはずもない。
第一ここを出て、一体どこへ行けというのか。
15年、ここで過ごしてきた。ここ以外の場所など自分は知らない。
「セオドア、またそんな目をして」
身も心も竦む考えにとらわれ、黙して歩く隣のセオドアに、途端蒼駕が困ったような顔をした。
「見捨てるとか、そういうんじゃないんだよ。そんな考えは捨てなさい。また忘れているね。魔導杖を手にした以上、きみは剣師なんだ。同じ退魔師といっても最高位である剣師がどれだけ重んじられるか、知ってるだろう? そう卑下することはないと言ったのに……。
何度くり返したら、きみは信じてくれるんだろうね。強情なのは遺伝だからしかたないとしても、ちょっとせつないな」
さすが生まれた時から彼女を見てきた者らしく、その心の内を見抜ききってしまっているらしい。責める響きも悲しがる響きもない、だが嘘だと言うも同然の軽さもない、あくまで静かな物言いに、セオドアの目が見開かれた。
「そんな、そんなこと――」
「うん、そんなことないね」
にこやかに応じて自分の言葉を訂正して。蒼駕は行き当たった彼女の部屋のドアを開いた。
「ほら。だからもうそんな、泣きそうな顔をするのはやめなさい。きみが考えたようなことではないよ。今、事情を話してあげるから」
誘導して椅子にかけさせると、自らはその横に立つ。
いたわるように肩に触れ、蒼駕がしてくれたのは、つまり、こういうことだった。
最近たて続けに起きているあわただしい出来事。その中にはたしかに魔断の集団立候補というのもあった。熱にうかれたような騒ぎにすっかり運営は滞って、事態の収拾に力を入れることを余儀なくされた。それは事実。
「でもそれはきみのせいじゃないからね」
セオドアを把握しきっている彼は、余計なことに煩わされないようにと釘をさすのを忘れない。
「それに、この騒ぎ自体、悪作用ばかりじゃなかったんだから」
一番厄介な問題。それは、実のところ5ヵ月も前から始まっていたのだった。




