第7回
完全に不意打ちだった。
まさかそんなことを訊かれるとは思わず、セオドアは硬直してしまう。
(ティナの言葉に、興味がないように見えたから安心しきっていたのに……まさかこの瞬間を狙っていたとかか?)
そう考えると、先までの一連のすべてがここに通じる罠のように思えて、追い詰められた気分で冷や汗をかく。
エセルはそれ以上口を開かずにセオドアをじっと見つめていた。返答を待っているというより、セオドアがどんな反応を示すかを見定めようとしているようだ。
一切表に感情が出ることのない無表情も、もう何度も心中を見抜かれてきているエセル相手には防御壁として頼りなく。セオドアは視線を横に移して、壁の模様を見ながら必死に何と答えればエセルの気をそらすことができるかを考えていた。
蒼駕については絶対知られたくない。
彼はセオドアにとって最も大切な、一番心のやわらかな場所にいる人だから。
どうしよう?
どうすればいい?
パニックに陥りかけているセオドアの右ほおに、そのとき、突然エセルがキスをした。
ほおに触れたそれがエセルの唇だと分かった瞬間に頭が真っ白になる。
「……!」
「うわっ!」
軽く歯を立て、あたたかな舌先が舐めるように触れたのを感じた刹那。セオドアはほとんど無意識に、エセルの胸を全力で突き飛ばしていた。
突かれたエセルは床に尻もちをつく。
「な、ん……っ!!」
混乱しきった頭では言葉が文章として組み立てられず、陸に上がった魚のように、口だけパクパクしてしまう。
そんなセオドアが何を言わんとしているのか察したエセルは、床に座ったまま、平然と答えた。
「したくなったから」
「……はあっ!?」
「おまえの白桃みたいな肌を近くで見てたら、なんか、おいしそうだなって」
「……おまえは……っ!」
思い立ったら即実行か! される側のことを少しは考えろ!
そう咎めようとしたところで、そういえばこういうやつだった、と歯をかみしめる。
言いたいことがあればどんな状況でも、相手が魅魎でも、平気で口にして、行動する。我慢や自重に美徳を感じない男。
「わたっ、……わたし、は、桃じゃ……ないっ」
とにもかくにも何か言わなくてはと、あせる頭に浮かんだ言葉を声に出して叱りつける。が、それはセオドア自身、あとでこのときのことを思いだしたとき赤面してしまったほど、間の抜けた言葉だった。
聞いたエセルが口元に手をあて、苦笑を浮かべるのも当然だろう。
「うん。今は、桃というよりリンゴだな」
軽やかな動きで立ち上がり、再びセオドアの前へ歩を進める。けれどもセオドアのまだ混乱から抜け切れないでいる心の内を察してか、今度は適切な距離を保っていた。
今まで見せたことがない、魅了にあふれた目で見つめられて、セオドアは目をそらせなくなる。
その手が上がるのを感じた。また触れる気だと分かっても、なぜか体が動かなかった。
蒼駕に対する追及が止まったのはよかったが……これはだめだ。
エセルが何をしようとしているかを察して、またもやあの胸を熱くする拍動が戻ってくる。
――いまいましい。
「よせ……離れろ……」
どうにかして、それだけを言葉にする。だが声に力はない。
形だけの抵抗。見抜いたエセルはくすりと笑い。
「どうして?」
おまえも心の底では理解して、これを望んでいるんだろう? そう言いたげなその自信満々の口調と表情が、セオドアの頭を逆に正気付かせた。
「いいかげんにしろっ!! 離れろと言っているんだ、わたしは!!」
会話に適切な距離をとれ!!
ぼかりと、今度は少々強めの鉄拳を顔にくらって、エセルは数歩よろめいた。
「……やっぱ、セオドアってば手が早いーーー!」
殴られた左ほおに手をやって、わざとらしく大げさに文句を言ってくる姿を見て、ほっとする。
サリエルのときとは態度が違うと思い、それだけの相手と思われているのだと滅入っていたのに。今は、こっちのエセルのほうがずっと対処しやすくて安全だと思う。
「みんなにはあんなに優しくふるまってるのに、俺にばっかり塩対応で! ずるい!」
「ずるいとかずるくないとか、そういう話じゃない。おまえがわたしの言うことを聞かないからだ」
われながら現金だと思いつつ、腰に手をあてて言い返していたときだ。
廊下と反対側の壁にある窓の向こうから、第三者の失笑が聞こえてきた。
「あら、ごめんなさい」
身をのり出して外を覗きこんだセオドアに気付いたサリエルが、笑いを止めて壁から離れ、謝罪を口にする。
「盗み聞くなんてつもりはなかったんだけれど、通りがかりに聞こえてきた会話が、あんまりおかしかったものだから、つい、ね。ここで足を止めてしまったの。
知らせるのにちょうどいい間もうまくつかめなくて。
気を悪くしたならごめんなさいね」
「あ、いえ……」
あの恥にしかならない会話を聞かれていたとは。
同じ退魔師とはいえ、エセルにばかり気をとられ、気配にまるで気付けなかった迂闊さに恐縮しつつ身を退いた。
こちらこそすみません、と謝罪しかけて唇をかむ。
そうだ、エセルはサリエルの恋人だった。
一体どこから聞かれていたのだろう? さっきのやりとりは、声だけだとどんなふうに取られてしまったのだろうか……。
セオドアとしては全然そんなことはなかったつもりだが、どうにもやましく思えてしまう。
サリエルは高くひと束ねに結い上げた髪の上から陽差しよけの白布をかぶり、同色の衣服を着用していた。上着もズボンもやはり白の無地で、飾り気のないこざっぱりとしたそれは、昨夜の彼女のいで立ちを思えばずいぶん質素なものだ。
「どちらへお出かけですか?」
それが退魔着であると悟ったセオドアの質問に、サリエルはにっこり笑って見回りだと告げた。
「私の場合、6種類・12の法具を相対位置で対となるようそれぞれ12の方位に配置して相乗させているんだけれど、このやり方だと日に数度力をそそいであげないとすぐ結界の保持力が弱まって、だめになるの。
わたしの力不足が問題なのね。おかげで毎日大忙しよ。特に昨日はあの嵐のせいで夜中の見回りができなかったから、心配なの。なんだか南の方が弱まってるみたいだし……」
そっと、様子をうかがうようにサリエルは振り返って南の空を映した。その不安気な視線の先を追ってみたが、セオドアは結界そのものを感知できても通常との微妙な『違い』までは読みとれない。
しかしサリエルはかすかな町の異変を身に感じているらしかった。嵐の名残りが今だ大気にまじり、乱れ、感知能力を妨げられているようだ。
「わたしもご一緒してよろしいでしょうか?」
「えーっっ!?」
セオドアの発言に、後ろにいたエセルが思いもよらなかったと言わんばかりの声をあげる。
「わたしも、門の所まで行こうと思っていたのですが、昨日1度通っただけの道なので……あの、途中まででもかまいませんから」
「でも……」
ちら、とサリエルが先に不満を表したエセルをうかがった。
「俺は反対」
「なぜだ」
との返しに、エセルは驚きの表情で目を丸めた。
「忘れた? 俺が町を案内するって昨日言っただろ。こっちが先約なの」
「それはおまえが勝手に決めたことだろう。同意した覚えはない」
さらりと言い返してセオドアは再びサリエルの了承を得るべく視線を戻す。途端、エセルが非難を叫んだ。
「ああっ、なんて冷たい物言い! やっぱり俺にだけ態度が違う!
贔屓だ! 俺にももっと優しくしろ!」
「……聞いてるこっちのほうが恥ずかしくなるようなことを言うな、ばかもの」
母親に向かって不平を言う子どものようなエセルをにらみつけた。
第三者の前だというのも構わずこんな態度をとる、いまだどうにもつかみづらいエセルの思考経路に頭が重くなる思いでこめかみに指をそえる。
「あっ、あの、えーと。
じゃあこういうのはどうかしら?」
無言でにらみ合い始めた2人の間に流れる不穏な空気を察して、あわて気味にサリエルが提案をした。
「これから3人で行くの」




