第2回
「……よくも、そんなこと、言えたわね」
これまでにあった数々の理不尽さを思い出すことでおびえを克服し、渦巻く憎炎を胸にかき上げて、少女は低く、ささやくような声から徐々に反論を始めた。
「あたしはアーミルと結婚するなんて一言も言っちゃいないわ! 全部、あたしの知らないところであなたが勝手に推し進めたことじゃない! それをはねつけたからって、どうしてあたしが責められなくちゃいけないの?
おかしいわ。そんなの絶対間違ってる! 結婚の申しこみを受けたのも、結納品を受けとったのも、みんなあなたで、あたしじゃない。なら、エマを嫁がせればいいんだわ!」
「……なんてこと言うんだ、気でも違ったのかい? あの子は1人じゃ満足に歩くこともできないんだよ?」
少女の反駁に、レマは突然顔面に水をかけられたような顔をした。
思いつきもしなかったことを返されて、驚きも冷めないといった面だ。
「第一、向こうはあんたをほしがってるんだ。歳の順からいってもあんたが先なのは分かりきってるし、それに、あの子には店の跡取りになるしっかりした男をもらわなくちゃならないんだ。
あの繊細でか弱いエマを何より大切にして、商才のある次男か三男坊。そんじょそこらのやつにはやれないよ」
「跡取り? よしてよ」
レマは本気で口にしたのだということを十二分に悟りながら、口元を歪めて返す。
聞いた一瞬に血が下がり、指先まで凍りついた思いで手をにぎりこんだ。
それこそ冗談じゃなかった。レマの連れ子で血のつながりがないとはいえ、自分を姉と慕う義妹をきらいではなかったが、それでも彼女のためにうとましい思いをしたことは幾度となくある。
エマは幼児期に足を悪くし、この女が猫かわいがりをしたため、すっかり怠惰と低脳を内気というアメで混ぜ合わせて作ったような惰弱な性格の持ち主となってしまっていた。
逆境に弱く、泣けば周囲のだれかがきっとどうにかしてくれると信じこんでおり、一切自分では動こうとしない。たぶん、自分がするべきだなどと、考えたことすらないのだろう。
根が怠慢な上、おまえはそこにそうしているだけでいいと、なんでもレマがとりはからってしまうので、歩けないということに特別の不自由も引け目も感じない。状況を改善する意志がないから歩く練習もしようとしない。
彼女をそうしてしまった境遇を不憫とは思うけれど、それでもこの女の血を引く者がこの家や店を相続すると思うと我慢ならなかった。
父や母、自分の存在を抹消し、最初から乗っ取るつもりだと思わずにいられない。
たとえそれだけの価値が実質的、この家系や家屋になかろうと、新たな借金を生むだけの店舗であろうとも、かつて自分のものであったものがこの女によってこの女のものに塗り替えられるのは想像するだけでおぞましく、到底堪えがたかった。
「あ、あたしは反対よ! 絶対譲らないわ、この家も、結婚のことも!!」
ただひとつの心のより所である首飾りに指をあて、悪寒にぶるぶる身を震わせながら少女は声を荒らげる。
「ああそうかい!! もういいよ! なんとでもお言い! なんとかにつける薬はこの世のどこを探したってないって言うからね! あんたみたいなわがまま娘に理解できるなんて思ったあたしのほうが、とんだ見込み違いをしてたってだけのことさ!!
とにかくあんたは夕方、あたしと一緒に向こうの家に行くんだ。ちゃんと両親にごあいさつして、詳しい日どりやなんやらを決める! 分かったね!!」
いつものように有無を言わせない、一方的な命令でレマは強引に口論への終止符を打とうとする。
その、今までの一切が無意味であったとの結論に少女は奥歯を噛みしめると身をひるがえし、外の闇へ飛び出した。
「どこへ行くんだいシーリン!! 店の支度を手伝わないんなら朝飯は抜きだよ!! 開店までに戻らなけりゃ、夕飯だってやらないからね!!」
入り口で腹立たしげに喚く女の声を背に、もう聞きたくないと耳をふさいで路地に入る。息とともに心臓がのどから飛び出しそうになり、これ以上走れないと膝が震えるまで、めちゃくちゃに走り続けた。
ひどい、ひどいとそればかりをつぶやく。
こんなに苦しいのに。
あの女のせいで自分はこんなにも乱れて、ぐちゃぐちゃになって、傷ついて……なのにあの女はあんな、平然と。
そう思うたび、敗北したようなみじめさが浮かんでますます胸の傷口は広がり涙までにじむ。
このまま、当初の予定通り町を出てしまおうか。雷雨にまぎれて商隊の荷馬車にもぐりこむという手はもう使えそうにないけど、事情を話せば連れて行ってくれるかもしれない。
人の気配というものがまるでない、無人の居住区を行くあてもなく歩き続けているうちに、そんな考えも浮かんだ。
自分が消えてしまえば婚儀など無理だ。結納の品を受けとっておきながらなんたる不始末と、せいぜい恥をかけばいい。
すみませんでしたと相手側の親族にぺこぺこ頭を下げるレマを想像すると小気味よくて、多少なり、胸がおさまった。けれど次の瞬間にはもう、それが夢でしかないことに気が沈む。
自分が出て行けば、家と店を奪われる。そこまで考えていなかった。
いい思い出なんてろくすっぽないけど、でも失うのはいやだ。あの女に取られるなんて、絶対にいや。
結局あの女の思いどおりにならなくてはいけないのか……。
そう思って、あまりの悔しさに熱くなった目許をこする。
ラキが自分のそばからいなくなったのも、きっとあの女の差し金だ、そう直感した。
あのひとはこの首飾りに表れているように、素朴で誠実な人。どんなことが起きようと必ず妻にしてくれるって、何度も誓ってくれた。
あんなにも自分を大切に想ってくれたひとはいなかった。実の父でさえ、思ってくれなかった。
かわいそうって言って、抱き締めてくれたのに。だましたりするはずがない。なのにあんなふうに彼のこと、言うなんて。許せない。彼が姿を消したのだって、絶対あの女がどうにかしたんだ。そうに決まってる。
何か、自分には考えつかない卑劣な手段を用いて、あのひとをこの町から追い出したんだ。
ああ、なんて悪辣な女なんだろう。せっかくひとが幸せになろうとしていたのに、それがそんなにも気にくわないのか。
なんとかしなくちゃ。あのひとを諦めるなんてできない。迎えに来てくれたとき、もう他人の妻になっていたなんて、そんな裏切りできるはずないわ。
あの家も、店だって、エマにあげたりしない。あれはあたしのものなんだから。
2人ともいつか必ず追い出してみせる。そのためにも、なんとかしないと……。
考えあぐね、路地から路地へとうろついたものの、一向にこれはとの良案が浮かんでこない。ふと周りを見回して、いつの間にか無人地区に入りこんでいることにようやく気付いた。
泣いている姿を見られなくないと、人の通りがないほうへ、ないほうへと、無意識に選んで進んできたせいだろう。だがその人気のなさが、我に返った今では心細い。
こんな時刻では起きている者もほとんどいないだろう。仕出し屋でさえようやく目を覚ますような頃合いだ。
友人たちはみんな親兄弟と住んでいて、とてもこんな早朝に転がりこめるような宅はない。
行くあてがない以上、家に帰らなくてはならないだろう。あのレマのいる家に。
あんなふうに飛び出してきたから、きっとまた何かぐちぐち言われるだろう。店のこともあるし、手伝わなかったらその分厭味や小言が増えるのも分かりきったこと。
戻りたくないけれど、だからといってこのままここにもいたくない。
ため息を吐き出しつつ、角を何気なく曲がったとき。
「!」
少女は思いもよらなかった存在を目にした、あまりの驚きに言葉を失い、四肢を強張らせた。




