第1回
●策 動
背高い木々の先端を震わせる、風は、遠い夜明けを告げていた。
夜半過ぎ。雷雨はその気まぐれな襲来と同じく唐突に遠のいて、暗雲もまたいずこへともなく消え去っている。
はたしてあれだけのものがどこへ行ってしまったのだろうか。首を傾げたくなるほど不思議な、透き通った蒼い闇の静寂が町の中に溶けこんでいる。
陽は昇らない。
ちくちくと肌を刺す、茨のように冴えた空気が満ちているだけだ。
がしゃんと、その静けさに割って入る無粋な音が、南の区画の端にある家屋の1つから聞こえてきた。
からからから。金属製の盆か何かが石床を転がっていく音がする。
「とことん分からない娘だね!」
耳の奥にキンと来る、中年女の甲高い罵り声がそれに重なった。
「いいかげん、納得をおし。あのろくでなしが戻ってくるわけないだろう? 妻に迎えるだって? 流れ者が吐いたそんなたわ言信じるなんて、信じるほうがよっぽどの馬鹿だよ。
ここにいたときからしてそうだったじゃないか。口先ばかりのとんでもない大嘘つきだったよ、あの男は! 口を開けばやれ自分はお貴族さまの血を引いているだの、家督は継げなかったがこの町ほどの領地を西の地に譲り受けただの……そんなたいした者が、どうしておともの1人もつけずに身ひとつで旅なんかしてるってんだい。
口八丁手八丁、甘いエサをふり撒いて、それ目当てで寄ってくるあんたのようにおつむの軽いばか女を食い物にしている寄生虫さ、あれは!」
「ひどいわ、レマ。あんまりよ……あのひとは、そんな人じゃないわ……」
女のあまりの言いように、涙声で少女はそれだけを返した。胸元に下がった首飾りを握りしめた指は隠しようがないほど強く小刻みに震えている。
先の折、癇癪を起こした女が投げつけた盆は目測を誤り背後の壁にぶつかって事なきを得たが、十分にその役目を果たしているようだった。
自分の半分の歳にも満たず、まだまだ世間というものを知らないこんな小娘が、自分の言葉に逆らい、あまつさえ非難をするとは。
なんて生意気な娘なんだろう。
かちんときて、女は頭を掻きむしると足を踏み鳴らし、ますます猛り狂って言葉を吐き捨てる。
「なにがひどいって!? あたしが言ってるのは全部ほんとのことじゃないか! ひどいのはむしろあんたのほうだよ! ええ!? そうじゃないかい!?
うちはね、無駄飯食いのぐうたら娘にやっとこさもちあがった婚儀を蹴れるほど裕福じゃないんだよ。この店のもうけだって借金返したらほんのちょろっとしか残らないんだ。あんたとあたし、それにエマが食うだけで精いっぱいで、ちっともたまりゃしない。
あんたが嫁に行きゃ、その分が蓄えになるんだよ。仕送りだってしてほしいぐらいさ、あたしがわざわざこうして口にせずともね。
こういったことは自分のほうから切り出すもんだよ。それが『気がきく』ってことさ。
あんたの数ある欠点の1つは、他人への配慮ってもんが全然足りないことだね。その融通のきかない頑固さと同じくらい厄介な欠点だよ。
いいかい? よおく考えてごらん、そのおばかで足りない頭で。
もしあたしに何かあったとき、この家になんの蓄えもなかったら、エマが困るじゃないか。あんた、あの娘が路頭に迷ってもいいってのかい? 足を患ってるってーのに。
あんただってそのことを知ってるくせに、ああ、なんって恩知らずのわがまま娘だろ。ちやほやされて育ったぶん、始末が悪いよ。いつだって自分のことしか頭にないんだから!
だいたい何が不服だってんだい。水汲みや使い走りも満足にできないあんたでもいいなんて、考えようによっちゃ目なしのとんちき野郎だけど、それでもあんたを養うだけの稼ぎはちゃんとあるんだ。あのお調子野郎とは天と地の差じゃないか。
あんたを連れてく度胸もなくて、気ばかり持たせて姿くらましてさ。それを、今になって追いかけていくだって?
正気かい? 信じられないよ! この親不孝者が!!
ああほんと、どうせならあのとき一緒に出てってくれりゃよかったんだ。1年も頑固に言い張るぐらいなら、駆け落ちぐらいしてほしかったね。もらってくれる相手がいるうちが女ってもんなのに、それすらわからない阿呆なんて。婚期逃してご近所の恥さらし者になる前に消えてくれたほうがよっぽど親切ってものだ。それを、なんだい、今さら……。
あのひとが残したもんで役に立ってるのは、せいぜいこの家ぐらいのもんだよ。雨漏りだけはしやしないからね!
ったく。冗談じゃないよ、もう結納の品々までもらってるってーのに、このうえ夜逃げまでされちゃあうちの面目丸潰れじゃないか」
ぐちぐち、ぶつぶつ。もううんざりといったふうに手を顔の前で振る。
うんざりだと、いいかげんにしてと言いたいのは少女のほうだった。
少女の本当の母が死んですぐ、まるでイタチか何かのように我が物顔で他人の巣穴にもぐりこんできたこの女は、その日から少女を目の敵としてあたり散らかした。
生前から何かと影の薄かった父親は彼女とは対照的に日和見な性格で、はじめのうちこそ少女を庇ってくれても、女の矛先が自分のほうへ向くとあっさり手を引いてしまって、1度たりと役に立ったためしがない。
『そう険立てて何もかもに反対して……あんまりさからうんじゃないよ。なにもレマは悪気があって言ってるんじゃない。言い分が間違ってばかりじゃないことくらい、おまえにも分かるだろう?
いらいらするとちょっと手が早くなるけど、でも、それも彼女のせいじゃないんだから。
彼女もうちの家計を少しでもよくしようと、一生懸命なんだよ。うちの店がつぶれないでなんとか糊口をしのげてるのも、如才ない彼女のやりくりのおかげなんだからね』
寝台の中でシーツにくるまり、声を殺して泣いていると、そんな言葉が決まって降ってきた。ぽんぽんとなだめるように軽く背をたたかれる。
全部が全部、間違いじゃない。それくらいは幼い少女でもわかっていた。けれどもそれはレマにとって都合のいい視点で見た場合に初めて正当化されるものがほとんどだ。
自分本意で、粗野で、強欲で、口汚い。
なぜこんな女をこの家に入れたりしたんだろう。自分だって本心では閉口してるくせに、どうして早く追い出さないのか。
誤った選択だったと気付いても、それを正す勇気を持たない気弱な男を『父』として尊敬できるはずもなく。
もともと放浪癖のあった父親は、商いと称しては現実逃避にふらりと家を空けた。年々その回数が増え、だんだんと戻らない期間のほうが長くなり、ほんの些細な用件で一月二月と空けるのが当然となったころ。『流れ』の手を介し、赤黒いしみをつけたひとつかみのぼろ布になって戻ってきた。
体の方は、骨のかけらも残さず魎鬼がしゃぶりつくしたという。
甲斐性という言葉には無縁な人だったので、遺品となった私物の中からは遺言書ひとつ出てこず、趣味で収集していた骨董品も借金の返済がわりに差し押さえられ、少女の手元に残ったのは、よりにもよってあのレマと、足の不自由な義妹だけ。
当時まだ14にも満たなかった少女に義母義妹の2人を追い出せるわけもなく。また、1人で生きていけるだけの甲斐あるものを何ひとつ身につけていなかった身では、事あるごとにいがみあいながらも同居を続けるしかなかった。
この嫌悪しか抱くことのできない、大きらいな女と。




