第5回
ここ最近、と先にアルフレートは口にした。
最近自分は何をしただろう? 思い当たることといえば、幻聖宮中が混乱したあの騒ぎを引き起こしたことだけだ。
叱りを覚悟して訊き返したセオドアに、アルフレートはゆっくりと、そして彼女らしく単刀直入に、いきなり本題の口火を切った。
「ザーハで封師訓練生たちの教え長をしてみる気はありませんか?」
……は?
かろうじて、ギリギリのところで、そんな間の抜けた返答をすることをくい止める。だがほんの数瞬とはいえ、ぽっかりと開けた口が、彼女が何を言いたかったのかを如実に告げていた。
「いやね。そんな、驚いて。予想どおりだわ」
目を糸のように細め、くすくす笑う。意地悪く虚をつくように言って、そのとき見せる自分の反応を楽しもうとしていたのだと悟っても、こんな親しみのあふれた笑顔を見せられてはセオドアもとがめられない。
宮存続という、彼女の双肩に課せられた責任を思えばあり得るはずもないのだが、まるで幼い少女としか思えないような、悪意が微塵も感じられない屈託ない笑顔を浮かべている。
そんな彼女を前にして、この人は、つくづく得な半生を送ってきているに違いない、とセオドアはひそかにうらやんだ。
以前こうして会って言葉を交わしたときも思ったのだが、自分と同じくらいのときはかなり奔放であったのではと伺わせる物言いで相手の反応を楽しむきらいがあるらしい彼女の作る笑顔は、しかしそれらを補ってあまりあるほど好意的で、悪意の存在をかけらほどにも見せない。
実際、彼女にしてみればこれは実にたわいのない、親愛の情の表現であって、その眼差しにも言葉にも悪意はないのだろうけれど。
「引き受けてもらえるのであれば、先ほど言ったけれど、任地はエン国ザーハにある封師専門の養成所になります。
あそこは主に実地訓練を行う場だけれど、慢性的に人手不足だから剣技やその他も教えてもらうことになるでしょう」
笑い声は止めたものの、にこやかな笑顔でそう語るアルフレートの前、セオドアはもはや何も口にできなかった。
◆◆◆
ぼんやりと、自室へ続く回廊を進む。
頭の中は先のアルフレートの提案で埋めつくされており、ひきもきらずただそればかりがぐるぐる回って一時も離れてくれない。
教え長。
訓練生を預かり持ち、退魔に関してのあらゆる知識・技術を教え込む職務だ。だがそれは本来長命種で経験も豊富な魔断が受け持つ役割である。
もちろん中には人間もいる。数は少ないが。ただし、それは30年に及ぶ退魔師としての責務を立派に勤め上げ、退職した、いずれも経験豊富な手練ればかりだ。
その中に、こんな自分が含まれるはずがない!
……どうして……。
「セオドア」
突然前進を阻む何かが腹部へと回された。引き戻そうとする力による浮遊感を感じると同時に、耳元で自分を呼ぶ蒼駕の声がする。
そうして自分を抱き寄せたそれが彼の腕であると知ったセオドアは、一瞬でこれ以上ないほど赤面していた。
「あ、あの、蒼駕……?」
ぴったり密着しきった体に、一体何事かと、声がうわずってしまう。
「どこへ行くつもりだい?」
言われて初めてよくよく周りを見回して、はっとなる。
いつの間にか曲がり角にさしかかっていたのだ。それにも気付かず、あのままあと数歩踏み出していたなら足は踏む床をなくし、3段ほど下にある庭へ不様に転げ落ちていたことだろう。そこを、蒼駕がくい止めてくれたのだ。
「あ、ありがとうございます」
とにかく礼を言って、あたふた離れようとする。けれどセオドアの意に反して、蒼駕はそのまま彼女の体を放してくれようとはしなかった。
「これは?」
取られたのは、包帯を巻いた二の腕である。
服の下から透けて、包帯の形が見えている。
「こ、れはー……」
自分の不注意だと説明しようと急ぎ蒼駕を見上げたが、しかし彼の自分を見つめる憂慮の眼差しに、すでに何もかもお見通しなのだと悟って、黙って俯いた。
『あなたが傷つくことでだれが一番悲しむのか』
先に聞いた百蓮の言葉が針で突かれたような痛みとなって胸によみがえる。
考えるまでもなく、それは間違いなく蒼駕だ。
彼は死んだ母の魔断の化身であり、まだ幼かった自分をこの幻聖宮へと連れてきて、保護してくれた者である。だれよりも自分を知り、理解してくれる、それだけに心から気を許せる、最も大切な存在。
蒼駕を悲しませることが自分にとって一番避けなくてはならないこと。
『あれほど可愛気のない女は初めて見る。声にも顔にも人並の感情ってものが全然なくって。まだ人形のほうがマシってものだ。人形はそうして座っていても相手を不快にしないからな。
よく相手してられるよ、あんたら。それとも人と違ってデキた魔断は、物好きにもああいった手合いが好みなのかね!』
素行の注意を促した蒼駕に向かい、お返しとばかりに吐き出すように言って去って行った青年。憎々しげに告げられたその言葉を、蒼駕は知らないと思っている。
表情が乏しい、というだけで十分意思の疎通は難しいというのに、声にも感情がこもっていないというのは問題だった。
そんな彼女の押し出そうとしている意味を、間違うことなくくみ取り、なおかつ心中を察するにはかなりの忍耐と観察力を必要とする。
それができる人間は、ここでは海千山千の各国上位の狸どもとのかけあいに長けたアルフレートくらいのものだろう。数百年の間人と接し続けて経験を積んだ温厚な魔断たちでさえ、器用と呼ばれるのだ。
しかしそれでも時折読み違える白悧や百蓮たちを器用というのなら、一体この蒼駕はどう表すのだろう?
『言葉にするのが難しいと思うなら、無理にしなくていいんだよ。きみが何を考え、どう思っているか、ちゃんと伝わってくるから』
造作もないことだというようにそう言って、ほほ笑みかけてくれる。そして本当に、それは真実で、彼ほど自分を理解してくれる人はいなくて……。
こんな自分を見捨てず、親身になっていろいろ面倒をみてくれる蒼駕をこれ以上困らせてはいけないと、気をつけているはずなのに。愚かな自分は、結局迷惑をかけてしまうのだ、いつだって。
いつだって、彼を失望させ、悲しませてしまう。
「…………」
「気をつけなさい」
申しわけなさに目をあわせられずにいるセオドアの前髪を指で梳いて。およそ、これ以上のものはないと思えるほど優しく、蒼駕は注意を口にした。
その、泣きたくなるほどの優しさに揺さぶられ、脆くなった心から、不安が、必死にとどめようとするそばからぽろぽろこぼれてゆく。
「――ですか?」
かすれ、聞き取りづらい小さな声で、セオドアはつぶやいた。
「どうして、わたしに教え長ができると、思われたんですか?」




