第15回
●仮面の暗躍
窓はなく。灯明はおろか紙燭も立っていない、白銀色にぼんやり自然発光する岩石を壁や柱に用いてあるだけの、光源というものに絶対的に欠ける廊下を、彼は黙々と歩いていた。
壁の作る闇と空間が続くだけの濃い闇は辛うじて識別できるが、隙間なく埋める壁の模様も柱の文様も全く見えない。
腰から下げた長剣と剣帯の金具が歩調にあわせてかちあう小さな音と、靴の踵が床とすれあうときに出る硬質な音がする以外無音の、静かで、それだけに歯切れの悪い、じめじめとした重苦しい闇が広がっているだけだ。
いつ、どこから何が現れるか知れないそこを、彼は怖じる様子も見せず直進する。
どこに何があるか、すっかり把握しきっている、慣れた足どりである。一歩踏み出すごとに遠ざかる部屋への未練に遅くなることもなく、また後ろめたい思いから早まったりもしない。
あわてふためいて自分を捜していた侍女から知らせを受けて向かった、行きのときと同様に、平素変わりないその靴音と同じく、表情にもなんら変化を見せない。
むしろ感情そのものが欠如しているのではないかと思わせる面だ。
切れ長の、鷹の目を想起させる青い瞳といい、知性の輝きを感じさせる端正な顔立ちは整っていて、なかなかのものだが、今ひとつ歳相応の若者らしい鋭気というものを感じない。
破顔や失涙といった、大きな変化がはたして起こり得るのかどうかも定かでなく、想像もつかないせいか、最低でも3つ4つは年高に見える。
とりつくしまがない、というのが初対面者の大半が持つ印象だろう。
冗談を解しそうにない堅物、生真面目で融通のきかない頑固者。とても21とは思えない、そう言う者がいるのも間違いない。
おそらく遊び好きの同年代には閉口されるくちだ。ただし、深くつきあえば信頼のできる、決して裏切らない、頼りがいのある男だとの高い評価を得る手合いでもある。
はたしていつまばたきをしているのか……真実の闇そのものから切りとられたような黒髪の間から覗く瞳は常に前方を映し続けている。
完全におおいかくされたその心中を、軽く見通したかのような言葉が無造作に投げかけられたのは、彼が足を止めるのとほぼ同時だった。
「ご子息どの。根をあげるにはまだ少々早いように思うが?」
いち速くその気配に気付いていたダーンの視線は、言葉が終わる前にそちらへと向いている。
中ほどまで開いた扉と壁の境の闇に、ぼうっと浮かんだ白銀の仮面に相手を確認して、ダーンはゆっくりと真正面を向けた。
「どうした。自室へ戻る道も行かず、こんな所にいるところからみて、察するに私を捜していたのだろう?」
鼻で笑って、横の壁に肩をつく。ダーンと比較してかなり小柄な体は、闇の中、だぶついた白衣がにじむように浮き立っているせいか、それでもひとまわりほど大きく見えた。
両の腕を抱きこむようにして斜にかまえている今、それでも細くひ弱気な肩に、ダーンはためらいがちに剣に添えていた手の力を緩める。
「どこにいた」
率直で、無遠慮な問いだった。
抑揚というものに著しく欠け、無感動な声であろうと、用件がなければ一切口をききたくないとの嫌悪にまみれたものであるのは瞭然だ。
あけすけといえばこれほどあけすけなものはない、ぶっきらぼうな非難に、仮面の者はおやおやと肩をすくめた。
「これはまたずいぶん素っ気ない。
そんなに私が気に入らないかい? ぼうや」
「論外だ。きさまを雇い入れたのは私でなく、父だ」
挑発を、するりと繰わしての即応に、仮面の者の肩が小刻みに震える。
「なるほど、おまえの気の置き場など無関係というわけか。
たしかにな。契約に縛られていないおまえがどのようにふるまおうと、あの男と私の契約に傷をつけることはない。
では、先のも要らぬ手出しであったのではないか? あの女の身柄は契約内にあり、しかも捕えた私の管理下にある。
まして、私は先に断りもしただろう、契約の基本としてあの女の身の安全もふくまれているから気にするな、と」
「ではそのように万事ふるまったらどうだ。契約の枠外である私がわざわざ差し出ずともいいように」
今ここにいる身でどうやってあの狼藉を止められたのか。
自信満面でありながら犯した手落ちに対する嘲りというよりも、その言葉の持つ意味は失態への非難に近かった。
彼と話す場合、声や口調、表情などから裏を探ろうとするよりも、用いた言葉そのものから読みとろうとするべきなのかもしれない。
ガザンの紹介で対面したとき、早くもそれと見抜いていた仮面の者は、今度もまた、へたに裏を探ろうとして、そのせいで発言の意味をとりこぼしたりはしなかった。
それだけに、問いはしたたかな鞭となってダーンへと返される。
「では訊くが、そうやって駆けつけたおまえの見てきた女の身はどこかしら傷ついていたか? ほんのわずかでも血を流していたと?」
いるはずがない、との自信にあふれた言葉は、まるで事の一部始終をその場で見ていたようだ。
……おそらく、視ていたのだろう。それだけの力をこの者は手に入れているのだから。
視ていながら、あえて放置していたのだ。『傷つくわけではないから』と、それを理由に。
いやらしい真似をと、いまいましい思いでダーンは口中のにがいものを噛みつぶし、前髪を梳き上げる。
「指を落とせと命じたそうではないか。しきりとつぶやいていたぞ。おまえが命じたから従わねばと」
「はっ! 命じたとはまた大袈裟な」
言葉が終わりきるのも待てないといった様子で仮面の者は吹き出す。
「己の自制のなさで犯した醜態を、ひとのせいにしないでほしいものだ。ばかな自分が浅慮でしでかした不始末まで直視できないようでは、せっかくの前歴が泣くそ。老いぼれとな。
私は助言してやったのさ、幻聖宮の退魔剣師が町に着いたという報告を得て、早くも弱気になりかけたあの小男にね。
知識による忠告、これも契約のひとつだ。分かりきったことをいちいち口にするのは面倒だが、相手があんな阿呆ではしかたない。
こう言ってやったよ、『私の感知する限り、あいつはとびきりの内力を秘めた強力な退魔師だ。このままではおまえの野望は潰える可能性が高い』とね。
実際あの女を手にしてもう半月も経つ。何も進展がないのなら、打つ手を変えることを考慮するべきだ。これはむしろ遅すぎたくらいさ。
相手が煮えきらないのであれば期日をこちらから提示してやればいい。たとえば指でもどこでも彼女の一部を切りとって、氷積めにして送り届けるとかだ。次は命と書かれれば、即座に何かしらの反応を返してくるだろう。
さあこれのどこが命令だ? 私の助言に狂いがあるか?」
あるわけない。勝ち誇って言う仮面の者に、ダーンは初めて目を細めるという変化を見せた。
もっとも、この暗さの中、その程度の表情の変化など、人の目で分かるはずもないが。
だからおそらく仮面の者は、ダーンの思考経路を読んだのだろう。
正道を好む生真面目な男が、こういった小手先技を疎んじるのは分かりきっている。
「ああ、おまえの言いたいことは分かっているよ」
わずらわしげに言って、仮面の者は無言の非難の視線の矛先を流すように手を振った。
「先にした発言と矛盾していると言いたいんだろう。あの女の身の安全ね……。
証明してやったじゃないか。むしろ感謝こそしてほしいものだ。おまえがこだわっているように見えたから、わざわざしてやったんだ。
私の言葉が信じられなかったんだろう? あれはその場しのぎでしたはぐらかしだと。もしくは契約などたやすく破り、危害を加えるに違いない――そう訝しんでいたんだろうが。
たしかにおまえの案じていたとおり、私にとっていまやあの女は無価値な存在だ。どうなろうが知ったことじゃない。
だが、それももう不要の心配となったわけだ。私は無意味に契約を破る気はないし、あの男にもそれができない以上、あの女が傷つくことはない」
「試したというわけか」
肯定も否定もしない無言が、同意をはっきりと意味づける。
その卑劣さに、ぎり、と死角にあるこぶしの爪が肉に食い込んだ。
どこが無傷なのか。思いあまって、そう誹りを上げるのを期待しているようにも見えた。
叫ばないまでも、憤懣を表すことを。
白銀の仮面は少し傾いて、肩越しにダーンの様子をうかがっているのが分かる。あの下で、愉悦の笑みが作られているのは疑うべくもない。
シェスタが深く傷ついたのはあきらかだった。有無を言わせない、暴力による服従を強いられる屈辱。辱め。肉体の、目につく傷よりももっと厄介で複雑な、後遺症という毒のついた爪あとを心につけてしまった。
それがどれほどのものか重視せず、べつに死ぬわけではないのだからと、ただ放っておいたというのなら、それだけの者と蔑むだけだ。もはや剣を抜く価値もない。
だが仮面の者は愚かではなかった。むしろ奸智に富み、腹も座っている剛の者。
ダーンはそう評価している。
傷つけろとそそのかした張本人とはいえ、凌辱まで許したわけではないだろうに、その行為に出ることを予想していながらあえて止めなかったと暗に告げたのだ。
そこに、状況を楽しむ遊び心がなかったとは言わせない。
おそらく彼女がどんな扱いを受け、心を破壊されようと、体に傷を負わない限り、この者に止めに入る気は起きなかったろう。
正道をはずれ独自の規律に生きる者の中、良識に無知な輩はいくらもいる。良識を知りながら開き直った、こういう手合いが一番ふてぶてしくて始末におえない。




