第13回
はじめ、彼が何を言ったのかシェスタには理解できなかった。
思いもかけなかった言葉。その意味を理解する間もなく、胸が芯まで凍りついた気がしてよろめく。
「王都に行かなくちゃいけなくなった。父さんが、都の貴族のもとへ僕を養子に出したんだ」
「……うそ」
震える手でダーンの胸にすがりついた。真面目な彼がそういったたわむれを好まないことを知りながらも、うそをついたと、全部悪い冗談と、笑ってほしかった。
「先日先方に会ってきた。もう、学院への編入手続きも済ませた。
父さんは、僕に都の教育を受けさせたいんだ。自分ができなかったことを、僕にしてもらいたがってるんだよ」
そこまでを口にして、突然、彼の手が背中へ回された。
「もう、会えない……!」
きつくきつく抱き寄せられる至福の中で、苦しげな言葉を耳元でささややかれる。
いつ何時も冷静沈着な彼が激情を見せるのは、ごくまれにしかなかった。これほどのものは初めてかもしれない。
ふと、これまで自分のこぼす愚痴を慰めることはあっても、決して、ままならない現状への強い不満や弱音というものを見せたことがなかったことに気付く。
そんな彼が乱れるほど、こんなにも想われているのだと嬉しく思う一方で、これが今日を限りのものであることに愕然とした。
もうじきこの胸に触れられなくなる。こうして抱きしめてもらえなくなるのだ――そう思った瞬間背筋に冷たいものが走った。
ダーンの腕のなかにあって、ただの1度も考えたことのなかった不安。考えたくなかった、恐ろしい出来事。
彼と会えなくなるなんて、そんなばかなことがあっていいのか。この10日間、会えなかっただけでさみしくて涙が出たのに、それどころかもう町で偶然彼を見かけることすらできなくなる!
「……ダーンも、行きたいのでしょう?」
震えを殺して、ダーンの胸を押しのけた。
早くなった動悸に今の気持ちを悟られまいと、必死に腕から抜け出す。
「いっぱい、いっぱい、知りたいことがあるんだって、言ってたじゃない。もっと、たくさん、いろんなことを勉強したいって……王都に行けば、それができるんでしょう?」
「シェスタ」
「止めないわ。それがダーンのためになるなら……我慢する。止めたりして、ダーンを困らせたりしない。
でも私、待ってるから。
あなたしかいないの。ずっと、初めて会ったときからそう思ってきたの。ずっとよ?
こうして触れられるから好きになったんじゃないわ。声が聞こえるから、愛したわけじゃないの。ダーンだからよ。
だから大丈夫。どんなに長い時間、どれだけの距離に隔てられてても、きっと、この気持ちだけはこれからも変わらないわ。あなただけ、想ってる。
だから……だから私、ここで待ってる。ずうっと待ってるから、お願い、絶対帰ってきて。約束して。きっと、きっと帰ってくるって」
泣き出したい気持ちをこらえて告げた言葉に、ダーンは、言葉よりももっとたしかな約束を彼女の唇に残していった。
今度ばかりはいつものように走ったりせず、ゆっくり、ゆっくり、去って行く。だんだん遠ざかっていく後ろ姿から目をそむけた。
そんな姿など、焼きつけたくなかった。
もう泣いてもダーンに知られることはないと、思う間もなくとめどもない涙があふれて流れる。鳴咽と先を争い、むせかえった。
『あなたがいなくなるなんて堪えられない。私も行くわ。あなたのいないこの町になんていたくないの。お願いよ、一緒に連れて行って。離れたくないの』
ものわかりの良い女を演じた裏の、正反対の本音が暴れ、彼女を内側から砕いてしまおうとする。体のあちこちが痛くて、痛くて。
本当に、痛くて、シェスタは柵へすがるようにうずくまり、身を縮めた。
言って、それがかなうものならいくらでも口にしただろう。もうだれがどう言おうとかまわない、たとえ敬愛する父や母と決別することになっても、ついて行きたかった。何を捨ててもダーンのそばにいたかった。
けれど、そうしたところでダーンを困らせるだけだということも分かっていた。
王都について行ったとして、ただ彼といたいだけの自分は、学びたい彼の邪魔にしかならない。
今の自分は彼の負担でしかないと知りながら、気付かないふりをしてその立場に甘えられるほど、シェスタは愚かになれなかった。
かなうはずもないことを口にして、愚かな女とうとましがられるのも絶対いやだ。
世界という場では保護者の許しがなければ何ひとつできない、子どもの身であることをこれほど呪わしく思ったことはない。ついて行くことはおろか、会いに行くことすらかなわないなど。
ダーンのいない夜。明日になれば会えるという期待すら持てなくて、寝台に入る。しみ入る寒さに心がかじかみ、涙がこぼれた。泣き声を気付かれまいと、シーツを唇へ押しあて奥歯を噛みしめる。
胸の中のダーンは決して、背中など向けてはいないのに。優しくほほえんでくれているのに、悲しくて、ひたすら恋しくて。息もできないほど抱きしめられたぬくもりや唇に残る感触は当初彼女のした思惑通りに慰めとはなってくれず、それどころか思い出すたび独りという現実を彼女に思い知らせた。
早く大人になりたいと、心底から願った。大人になりさえすればなんだってできる。だれに許しをもらわずとも公然とダーンと会い、いつまでも一緒にいられるのだ。
大人になって、ダーンがこの町に帰ってきたとき。そのときこそもうどんなことが起きようと絶対離れないと、何度も、何度も決意をして。日々を過ごしてきた。
そうして半月前。
届いた花束に、埋もれるように入っていたダーンの手紙を読んだとき、涙があふれた。




