第8回
「おまえは請わんのか? 両手をつき、「ガザンさま、どうかお願いします」と、その美しい声でさえずってみろ。そうしてただにらみつけておるよりは、まだわしがその気になる可能性があるぞ。さぞ耳に心地よい響きであろうからな」
「あなたに許してもらうことなど、何ひとつありません!」
のどに手がけられていることも忘れて、シェスタは反射的、声高に叫んだ。
さらに食い込んだ指は、まるでその気になりさえすればいつでも殺すことができるのだと言っているようだ。
痛みに、こほ、と咳が出る。
力を入れたり緩めたり。時間をかけて、さんざん嬲ったあと、遊ぶようにのどの骨を伝って顎に戻ると親指で唇をなぞる。
毒虫に這われたような、ぞっとする感触にシェスタが壁へ爪を立てたとき。ようやくガザンが一歩身を離した。
「わが身も守れぬ小娘の分際で、その気位の高さが愚かしいというのだ!」
刹那、シェスタは自分の身に何が起きたのか、把握することができなかった。
炎を浴びたような痛みが頬を襲ったと思うや身を崩して横の寝台に仰向けに倒れこむ。急ぎ身を起こした彼女が見たものは、先まで以上に苛立ちにまみれたガザンの目だった。
その手にいつしか握られていた物は、小さな剣。
果物ナイフとも違う、鋭利な銀刃がそり返っている。
危険……危険!
警鐘さながらにまたたく間に高まった鼓動が、いともたやすく呼気を乱す。
その刃先を向けられ、シェスタは絶望的に奥歯を噛みしめた。
この男は、たとえ神でもくつがえせない、過ぎ去った過去を妬んでいるのだと、思ったことがなかったとはいわないけれど、それでもこれほどに表に表したことはなかった。
この男は、憎んでいるのだ。いうなれば、自身のおかれた状況というものを。
ガザンがどういった半生を送ってきたかを知るシェスタは、なぜ自分たちをあんなにも目の敵にするか、おおよそ見当がついていた。
この男の手にした力が一体どれほどの努力のもとに生まれたものなのかというのも想像がつく。
それが決して誉められるような手段でなく、目的のためであれば、それがたとえどんな非人道的な方法であれ、講じたであろうということも。
そうして血にまみれた手で手に入れた地位は、世襲制度の強い貴族社会のこの国では異例の成り上がりだった。
ただ親の地位を受け継いだだけの者たちと比べれば、ある意味誇れるものであるというのに、その評価に満足できず、この男は野心をさらにたぎらせ、食欲に、目についた一切のものを貪った。それこそ、狂った野の獣のように。
力も金も、手に入れる方法はいくらでもある。おそらく、この男の力量であればたやすい。
だがそんな彼がどれほど望んでも決して手に入らない血統を持つ自分や父は、さぞ憎々しく、妬ましい存在なのだろう。
その、長年の間に積もりに積もった鬱憤を晴らすために、ガザンは自分を傷つけようとしている。もしくは、殺そうと。
どうすればこの場を逃れられるだろう?
そもそも逃れる方法があるのか? この状況下で。
あるとして、それが自分にできるだろうか?
思考のほうに意識の大半を奪われて、必死に考えるあまり、行動がのろのろと緩慢でおろそかなものになる。
ガザンを刺激しないようゆっくりと、とにかく身を立たせようとした彼女が逃げ道を想定して視線を走らせた直後。軸としていた右手をとられ、またもや寝台の上に仰向けに倒れた。
「この類いまれな、非の打ち所のない指を、落とせとあの者は言った……」
先まで以上に低くしゃがれた声で、ガザンが苦しげに呻く。
『あの者』とはだれのことか――ちらりとよぎった疑問は、砂嵐のように押し寄せた恐怖にまたたく間に押しつぶされて消えた。
ガザンのもう片方の手にしっかりと握り込まれた刃物から身を守るすべを持たないシェスタは、固唾を呑んで見守るしかない。己の指を切り落とされるという、凄絶な瞬間を。
そんな彼女の心をさらに追いつめるように、何の前触れもなく、ガザンの唇が指に吸いついた。
「!」
嫌悪に、ぶわっと全身に鳥肌が立つ。
急ぎ引き抜こうとするが、ガザンのつかんだ手の力は強く、がんとして揺るがない。
ぬらぬらと、まるでナメクジのように指のつけ根まで舌を這わせ、存分に弄んだあげく、ガザンは彼女の指に目を落としたまま、独り言のようにつぶやいた。
「細いよなあ。白くすべすべとして張りのある……この指に勝るものがあろうか。
わしがおまえくらいのときに奉公しておった館の娘が、やはりこのような指をしておったが、それでもこの指には到底かなわぬな。
古今東西、己の指にかなう者はおらぬと思いこんでおったようだが……あれは、ぐずで役立たずと、よくわしを鞭で打った」
突然の話の飛躍にとまどうシェスタの前、ガザンはその者を思い起こしてか、ふてぶてしく鼻を鳴らす。
「なにが役に立たぬだ。さからえぬと思うて無理難題ばかりふっかけおって。わしだからこそ、あのわがままに添えるよう、我慢できていたというに。重箱の隅をつつくように、いつもどこかしらに不満を吐いては鞭を持ち出してきおって。
おおかたそれが目的であったのだろうよ。妻になっても、あれは直らなんだ。何かといえば血統をひけらかし、二言目には「私は不遇だ」なんだと己をあわれむ愚痴ばかり。
たかだか地方領主、それも農園主ふぜいで、何が血筋か。甘やかされきって、とりつくしまもなかったわ。よほどわしが夫となったことが気に入らなかったのだろうな。
ふん。わしとてはじめから金と土地が目当てよ。勝手についてきた付録なんぞに何の愛着が起きるものか」
くぐもった不気味な笑い声をのど奥から発すると、ガザンは這うような視線を腕に伝わらせ、いきなりシェスタの鼻先へ顔を突き出した。
「邪魔なあれの父親にはすみやかに神の宮へ隠居してもらい、館と、金と、力を名実ともにわしのものとしたとき、どうなったと思う?」
喜悦の目は、反応を望む問いに逆らって、雄弁に次のガザンの言葉を語っている。
ガザンはその女性の末路をシェスタ自身に重ねあわさせ、恐怖を味あわせることで、より多く己の優位さを楽しみたいのだ。そうと知りながらも、聞きたくないと耳をふさぎたい衝動がこみ上げた。
だがそうしようにも肝心の手は今もまだガザンにとらわれている。
こうなってしまってはもはや面をつくろうこともできない。
為すすべを何ひとつ見出せず、硬直したままでいるしかないシェスタが耳にした言葉は、彼女がこれまで想像したことよりもひどい、壮絶なものだった。
「その日のうちに愛人とともに放り出してやったわ。文字どおり、身ひとつでな。
レイティーク……あの地を知っておるか? 知るまいよな、おまえはここしか知らぬ。
あの地はこことは全く違う、同じ大陸でありながら北と南でこうも違うのかと思うほどひどい、極寒の地だ。冬ともなれば見渡す限り雪野原で、人食いの獣も数多くひそんでおる。夜な夜な遠吠えが届くほどにな。
獣に生きたまま食われるか、凍死するか。どんな屈強の男でも2日もったことはないというのがもっぱらのうわさだった。
あの日もやはり猛吹雪で、前に伸ばした己の指も見えなんだ。
どうぞやめてくれと泣いて懇願したぞ、あの女は。気位ばかり高くて、男は黙って自分の言うことをきくだけの存在というのが口癖の鼻つまみ女が、地に手をついて、わしの靴を何度もなめた。
鞭打ちたければどうぞしてくれと、自ら持ち出してきおって。面白いようにわしの言いなりだった」
そう告げた瞬間、面に浮かんでいた愉悦の色はかき消え、口元がいびつに歪む。
「……あの見せかけだけの売女が!
指も、面も、美しいのはほんの上っ面だけで、ひと皮向けば内には腐肉しかつまっておらんかった!
頭の中もおがくずときたら、もう何の価値もない。間男ともどもさんざんなぐさみものにして、蹴り出してやったわ」
「やめて!」
もう堪えられないと、ついにシェスタは悲鳴を上げた。




