第5回
●シェスタ
セオドアがティナの部屋をそっと抜けて自室へ戻ったのとほぼ同時刻、同じ町のとある場所では、1人の女性が部屋の中央に据えた繻子張りの椅子に腰かけていた。
不便のないよう整えられた調度品は、化粧箱からあふれた髪を飾るピン1本に至るまで何もかも、思わずため息がもれるほどすばらしい。
特に、天蓋付きの寝台など、微細に渡り計算され尽くした優美な曲線を描く繊細な造りもさることながら、三重に垂れた金色の薄絹の幕にほどこされた蝶花の華やかな刺繍のみごとさは、もはや感嘆の域だ。
白金で縁どられた重厚な翡翠色をしたミニテーブル。一流の細工師の手による品と素人目にも明らかな、緻密な銀の装飾をほどこされた棚上のガラス細工の燈明は内壁による光の屈折変化でまろやかな光を部屋に満たし、また敷きつめられた長毛の白絨毯は足首まで埋もれさせ、歩けば足跡を残しそうなほどやわらかい。
外部であれ狂う雷雨の激しさもかすかにしか聞こえてこないほどよくできた防音、壁を飾る絵画たち。
どれひとつをとっても王族のそれに勝るとも劣らない、最上質の逸品ばかりだというのに、彼女はそのどれもに目をくれようともせず、人形のようにわずかも表情を変えようとしないで椅子にかけている。
横顔を照らす閃光にも、空間を引き裂くような音にも怖じる気配を見せない、その毅然とした様は気高く美しく、さながら白百合の化身のように清らかな気品にあふれている。
深く、どこまでも澄んだ青銀の瞳、両肩を埋めた絹糸のごとき銀の糸髪。刺繍針の先端で描いたような、細くなめらかな輪郭線やほっそりとした肢体は、ともすれば何かの拍子にこの瞬間にも崩れてしまいそうなほど、病的なまでに青白い。その下にあるはずの、あたたかな血液の流れすら存在を疑うほど『ぬくもり』というものを感じさせないそれは、瞳の発する光や引き結ばれた唇からうかがい知れる気丈さと相反してまるで夜明け間近の月光のようなはかなさで、その印象の違いが、なおさらに今にも破砕してしまいそうな、危うさを持つ氷像を想起させる。
けれども清麗な瞳の放つ光の強さに表れているとおり、彼女の心は決して氷のように朧くはなかった。
ここはどこなのか?
それは容易に想像がつくし、あまり重要ではない。
はたしてどれほどの時間が経過したのか?
それも、必ず訪れる朝と夜を数えてさえいればおのずと知ることができる。だからそんなことで気を弱くしたりはしない。
三度三度規則正しく運びこまれる食事は、これまで控えめで慎ましやかな生活を送ってきた彼女には、家族と連れだって食事に行ったときか、祝いの席でしか口にしたことがないような、豪勢な品ばかりが出てきた。
朝になれば身の周りの世話をする侍女が2~3人ほど現れて、何もかもそつなく配してくれるので、困ることもない。
清潔できらびやかな部屋と質のよいドレス。欲しいと言えば本でも刺繍用品でも、好きなだけ差し入れてくれる。
昔好んで読みふけった物語の中や伝え聞くうわさ話の中にしばしば登場した囚われ人に対する、想像するだけで肌が粟立つような手荒な仕打ちは一切なく、四肢に食い込む縄も、打ちすえる棒とも無縁の日々。
もしやあれは、警戒心の薄れがちな年若い女性に用心を促して、過ちを起こさないようにと屋内へ閉じこもらせるのが本当の目的だったのではと疑うほどに。
それでも彼女は、人が生きていく上でもっとも大切なものがここにはないことを知っていた。
自由――睡眠薬を混入された食事をとらないですむ権利と、侍女とは名ばかりの見張り役を寄せつけない権利。そして、この部屋から出る権利を、彼女は気が狂いそうなほど欲していた。
どんなに豪勢な食事も、絢爛とした見目麗しい調度品も、彼女の目には無価値なものとしか映らない。そんなものでごまかされ、自分の陥った境遇と不運さを慰めるほどには、彼女はまだ何もかもをあきらめきれてはいなかった。
決してあきらめない。
そのためにできることは、なるべくこの状況について考えないようにすることだ。まだ起こりもしないことに想像を巡らせ、必要以上に不安がったところで今の自分にできることなどありはしないのだから。
自身の身について思いやることをやめた脳裏に浮かんでくるのは、懐かしい者たちの面影である。
ティナ。小さな、かわいい妹。あの子は泣いてないかしら? 雷がきらいでこんな夜はいつも私の寝台にもぐりこんできて。真っ暗な部屋に1人で、震えて、もしかすると泣いてるかもしれないわ。あの子はとても意地っ張りだから。だれか、気付いてあげてくれていたらいいのだけれど。
それに、おかあさま。最近胸の調子がすぐれないと漏らしていらしたわ。今度のことで寝こまれたりしてないかしら?
おとうさまも、すぐ何かと無理をなされて。だれかが止めるまでやめようとなされないから心配だわ。また夜更かしばかりなさって、この雨の冷気で腰や足の持病が悪化されたら……。
細釘を打ちこまれたように鋭い、あまりに鋭すぎる痛みを胸に感じて一瞬息をつめると、彼女はそれ以上彼らについて思いやることをやめた。
そっと胸にあてていた手を、今度は口元へ押しつける。
彼女が懸念したように、そこから悲鳴が漏れたりはしなかったが、代わりにじんわりと涙がにじんだ。
「だめよ、だめ……泣いちゃだめ」
どうにかして体の芯からくる震えを抑えようと、懸命に身を縮める。小さく、小さくなることでこの思いも小さくなって、消えてしまうのを願うように。
泣くわけにはいかなかった。
泣けば、あの目端のきく侍女たちに気付かれる。今もきっと隣室に控えているのだろう、彼女たち。数時間おきに何かと理由をつけては様子を見にやってくる。たとえさとられずにすんだとしても、朝が来て、陽のもとで顔をあわせれば、目許の腫れで泣いたことがばれてしまう。
それを彼女たちは、逐一報告せよと受けた命令に従って、こと細かに伝えるだろう。それを聞いて、あの男はしてやったりとほくそ笑むのだ。
自分が泣けばあの男は愉悦にひたり、苦しめばますます楽しむ。
ならば、それだけは絶対にするものか。あの男が望むことなど、何ひとつしてやらない。
そう思うたび、胸の中で、埋み火となっているはずの青く冷たい炎がじわじわ舌を這わせた。人としての感情を全く持たない、さながら氷から生まれた精霊のように、己の非も顧みない傲慢さで自分を陥れた者への憎悪に心が凍りつく。
我知らず、膝のところを強く握りこんでいた。
「だめよ、だめ……」
つぶやき、力をこめて、どうにか指を開かせる。
怒りも、見せてはいけない。男のする一切が無意味であると――自分に何も与えることはできないことを、示さなくてはいけない。
奥歯を噛みしめることで震えを押し殺し、そうして彼女はゆっくりと、再び感情を凍結させていった。
未来について、過去について。現在についてすら考えることを拒否した心の中は、自然と空白化してゆく。
徐々に自分の内側がからっぽになっていくのを感じながら、これでいいと彼女は思った。
波立った心を意識の奥底に沈めて、すべてについて思いやることをやめる。サリや、館のみんなによる助けも期待しない。何も望まない。すれば、封印が脆くなるから。
男を喜ばせたくないと思うなら、眠らなくてはいけなかった。
薬に体が慣れて、効果が弱いことを知られれば、明日からまた量が増やされる。数日前にされたばかりで、このことはもう実証済みだ。
それに、これで万一体に変調をきたさせたりしたら、感情をうまく殺せなくなるかもしれない。それがなにより肝心なのに。
でもこんな夜は、ティナのことが気にかかって……。
そっと半眼を閉じる。
彼女にとって、十二も離れた小さな妹のことを案ずる気持ちは自分を不利にするかもしれないことよりずっと大切なのかもしれなかった。感情のとばぐちを封じている今の彼女には、それがなぜなのか自覚はなかったけれど。
ほうっと息をついた、その折り。
「!」
雷に撃たれたように指先まで緊張を漲らせて、唐突に彼女は左手にある扉へと視線を飛ばした。




