第3回
『蒼駕?』
『つらいのなら、呼びなさい。わたしが隣の部屋にいるのは知っているだろう? そんなふうに1人で我慢したりしないで。
きみが我慢しなければいけないことなど、何もないんだからね』
そう告げる声からも痛みがはっきりと感じられる。そのことがとても不思議だった。
どうしてこのひとはこんなにも辛そうな目をして自分を見るのだろう。食べられるのは自分だけなのに。それともあの魔物にやられて、すでにどこかを食べられちゃったのか。
『でも、蒼駕、一緒だと、食べられちゃうわ』
『わたしはテディとならかまわないよ。テディはわたしとではいやかい?』
先と打って変わり、かすかな憂いも見つからない笑顔でにこやかにセオドアの答えを求める。
そんなこと、あるはずがなかった。どうしでこのひとと一緒にいることをきらわなくてはいけないのか。母のいなくなった今、世界中のだれよりも。自分自身より、大切なひとなのに。
懸命に首を振って、詫びるようにしがみついた。
あの黒い目をした魔物に食べられるのは絶対にいやだったし、早く隠れないと見つかって、このひとまで食べられてしまうとの考えがよぎったけれど、このままずっとこうしていてもらえるのなら、それでもいいと思った。
わたしなんかと一緒に食べられてもいいと言ってくれた、このひととなら、きっと食べられても怖くない。
彼のあたたかくて広い胸の中にあって、徐々にやすらいでゆく心でそう確信する。
『何もかも、1人で我慢しようとしなくていいんだよ。わたしはいつだってきみのそばにいるから。きみが望んでくれる限り、こうしてずっとそばにいるから。
たとえいつか離れることになっても、どこにいても、きみが健やかで、心が平穏であることを何より願っている。
分かるかい? ひとは、だれかを必要としたり、必要とされる気持ちがある限り、決して独りじゃないんだよ』
蒼駕……。
「おねえちゃん?」
突然、ぐっと後ろに引き戻そうとする力を腕に感じて足を止めた。引く力の重さにはっと現実にたち返ったセオドアはそちらを向く。
手の先で、歩くことをやめた少女が何か言いたそうな目をして自分を見ているのに気付き、急いでしゃがみこんだ。
「どうした」
「あの、あのね」
先までの強気な態度はどこへ消えたのか。言い辛そうに顎をひき、上目づかいにセオドアの顔色をうかがってくる。
「あのね、あたし、悪い子じゃないの。あのあと、捜したけど、いなかったからなの。ごめんなさいって、言いたかったの。ほんとは。だいきらいなんて言って、ごめんなさい」
部屋へ戻る道すがら、ぼつぼつ少女はあのときのことを弁解してきた。
セオドアにしてみればあの程度のことなど日常茶飯事で、もっとひどい言葉を投げつけられなれている。いちいち腹をたてたり深刻に落ち込んではいられない。
しかもその後に起きた出来事のほうがはるかに衝撃的だったこともあり、すっかり忘れきっていた身では、こんな小さな少女に謝られること自体にむずがゆさを感じてしまう。
あまり長引かせたくない内容だったが、先よりますます近付いたかみなりの音から少女の気をそらすには有効だと、黙ってその話題を受け入れることにした。
「あのね、昼間、町でおねえちゃんたちを見たの。かあさまが、今夜お祝いがあるからきれいにしましょうねって、一緒にお洋服買いに行って、それで。
あたし、嬉しくてお店の窓から一生懸命手を振ったんだけど、気付いてくれなくて……大急ぎで帰ったのに、どこにもいないと思ったら、あのお部屋から出てきたの見たの。ほら、おねえちゃんのお部屋。
くやしかったの。だっておねえちゃん、リュビとすっごく仲良さそうにしてたんだもの」
「リュビ?」
だれだ、それは? と小首を傾げたものの、すぐエセルのことだと見当がついた。
『この髪と目で、リュビ(紅玉)と呼ぶやつもいるな』
たしか、前にそんなことを言っていたのを聞いた覚えがあるぞと思い出していたセオドアに、
「いいでしょ。あたしがつけたの。だって、あんなに深くて透き通った、めずらしい色をしてるんだもの。
知ってた? おひさまの下で見るとますますきらきらして、宝石みたいなの。とってもきれい」
と、得意気に言う。
つまり、この少女はセオドアに妬いていたらしい。幼いから、嫉妬の意味は分かっていないだろうが。
あんなふうに楽しそうにはしゃぐリュビを見るのは初めてだった。
せっかく半年ぶりに会えたのに全然かまってくれなくて、特にここ最近はずっとむずかしい顔をして、いつもサリエルか父と一緒で、自分には分からないことばかり話してて。
寄って行っても「お話の邪魔をしてはいけません」と、母の手にすぐ追い払われる。そんな中、自分の全然知らない人といて楽しそうなリュビを見て、ますます不安になった。
宴席でエセルの友人との紹介を受け、さらに首飾りを付け直したりと2人が睦まじくしているのを見て。自分の知らない場でのリュビがあるのだと見せつけられた気がして、それで、くやしくてああ言ったらしい。
「そうか……」
エセルについての話は、今はしたくなかった。そのため返事も自然重くなる。
(仲が良く見えたって?)
振り返った記憶に、我知らず眉が引き攣った。
まったく、思い出すだけで腹立たしい、いやらしい行為だ。表は親しげで、楽しそうにして。その実裏では冷めた目で操っていたんだ。
それにまんまとだまされきっていたのかと思うとそれだけで胸のむかつく思いがする。
まるで太い杭を打ちこまれたようだ。はたして抜けるかどうか……容易であるとはとても思えない。
もしかするとささくれが残り、癒えないまま、一生この人間不信を引きずることになるかもしれない。あれがただの芝居だったというなら、見抜くのはまず不可能だ。しかも自分もまた、この少女と同じような気持ちを抱えていたなんて。
あんな、厚意を抱く値打ちすらない、卑劣な男に。
「わたしは、そう深い知りあいではない」
エセルへの許しがたい怒りはすっかり根を張っていたが、それをこの少女にあたるのは全くの筋違いだ。エセルならまだしも、この少女まで傷つけてどうなるというのか。エセルへの恨みはエセルだけが負えばいいのだ。
そうととられないよう注意しながら言うと「もう少しそばにいて」との約束に従って、少女の部屋の扉を引き開けた。
「この町のために呼ばれただけで、会うのはこれが2度目だ。魅魎が出たという無責任なうわさが広まって、ティルフィナの父上たちが困っているそうだ。
この町の者やティルフィナが大切で、守りたいから、そうしたのだろう」
どうしてあいつのしたことを誉めなくてはならないのか。やりきれない思いで、そっと吐息をつく。
もしかすると、そう思って、理解しようとしているのかもしれない。
ひとの気持ちを利用した、悪辣な手段は到底許されないものだけれど、それもすべてこの町の人たちを思う純粋な気持ちからきているのだと思えたなら、まだだまされていた自分のみじめさは慰められる。
「あたしのこと、ティナってみんな呼ぶわ。あなたもそう呼んでいいわ。
でも、魅魎?」
初めて聞く名称らしく、目を丸めてティナは訊き返してきた。
「そうだ。サリエルは法師で、わたしは彼女の仲間だ。
最近忙しそうなのだろう? それは魅魎というやつのせいだ。わたしは、彼女を手伝うために呼ばれたんだよ」
おそらく少女を怖がらせないようにとの配慮で隠していることを、はたして自分などが話していいものか……ためらったものの、無難なさわり程度で答える。
「ふうーん」
ティナが引っ張るようにして上着を脱こうとしていたので、それを手伝って寝台へ寝かせ、暗闇と土砂降りの雨音におびえる少女のためにとなりに身を添えた。
サイドテーブルの上に置いた小さな蝋燭の炎を肩越しにぼんやり見ていると、ティナはごそごそ仰向きに寝直して、お祈りをするように両方の指を胸の下のところで組みあわせる。
「じゃあおねえちゃんが手伝って、早く用事が終わったら、また前みたいに遊んでくれるようになるかしら?」
大きな期待に声を弾ませる。
「よほど好きなんだな」
セオドアのささやきに、少女は大きく頷いて肯定した。




