第2回
ふと扉の向こうに人の気配を感じて、セオドアは身を起こした。
ひとしきり泣いたあと、鼓膜が破けるのではと、起こりもしないことまで思わず心配してしまうほど激しくなった雷雨に窓を閉め、もう二度と見たくないとエセルにもらった装身具と盛装衣一切をワードローブの奥にたたきこみ、とにもかくにも顔を洗ったものの、眠ることはとうに放棄していたため、ためらいはない。
もしこれがエセルなら、二度と顔も見たくないと言ってやる。
床にできた水溜まりを拭きとっていた布を脱衣室のかごへ放りこみ、意気ごんで大きく扉を押し開けた。
しかし、いくら常識というものを欠くあの男でも、真夜中に若い女性の部屋を訪れるほど酔狂ではないだろう。そうしてわざわざ寝こみを襲わずとも、望めば率先して女性のほうから招き入れられる。そんな男だ。
案の定、そこにいたのはエセルにあらず、小さな少女だった。
あの、宴席でセオドアのことをだいきらいだと宣言して消えた少女だ。たしか、名はティルフィナといったか。
薄桃色をした寝着の上に同色の上着をはおった彼女が、円柱に両腕を回してしがみつくという格好で、突然部屋から出てきたセオドアを見ている。
てっきりエセルだとばかり思っていたセオドアは、その意外すぎる存在を前にして、少々あっけにとられてしまった。
「なによ……なに、黙って見てるのよっ。失礼だわ、あなた」
無言で自分を見続けるセオドアに、少女はあっという間に額まで赤くなって円柱を抱く手を緩めると挑戦的な台詞を吐いた。
たしかに見ているだけというのは変かもしれない。
「そこで何をしているんだ?」
注意されたからとりあえず返した。セオドアにとってはただそれだけの問いかけだったのだが、やはり足りるものには遠かったらしい。
途端少女はますます憤慨して、両の頬をぷくっとふくらませてセオドアをにらみつけた。
「あなた、失礼よ。どうして出てくるの。こういうとき、見て見ぬふりをするのが気遣いってものじゃない? なのにのこのこ出てくるなんて……。
それに、だわ。少しはかがんだらどうなの? あたしと話すときは、みんなそうするわ。なるだけ目線が同じになるようにして話すのが礼儀っていうものよ。
あなた、ただでさえ大きいのに、あたしにこの柱に登れというの? 怠慢だわ、あなたがかがんだらすむくせに。ぜんっぜん気がきかないのねっ」
とても5つか6つの少女とは思えない、達者な語彙を駆使して頭ごなしに相手を叱りつけるその姿は、なにやら小型の愛玩犬を思わせた。
思わず抱きしめたくなるようなかわいい外見とは裏腹に、威勢よくて向こう意気が強く、勇ましい。
かろんじられまいと虚勢を張る、少女のそんな姿はとてもほほえましく思えて、ささくれていた心に笑気がやんわりと忍び入ってくる。
「失礼した」
セオドアは自分のいたらなさを詫びて、その場に片膝をついた。
それでもまだ少女の目はセオドアよりわずかに下にあったのだけれど、今度は少女もとがめようとはしなかった。
「で、どうしたんだ?」
再度問う。やはりこのあたりがセオドアの気配りの限界かもしれない。
あまりのぶしつけさに少女は再びいやそうに眉をひそめ、肩をいからせて円柱から身を離した。
「ちっとも分かってないのね! そういうことは問うもんじゃないって、あたし言ったわ。なにを聞――きゃあっっ」
聞いてたの。そう叱りつけようとした言葉は、横の窓からの強い稲光を浴びて悲鳴に変わった。遅れて届いたバリバリという、空間を引き裂くような巨大な音にびくりと身を強張らせ、セオドアの首にしがみついたままぶるぶる震えている。
(そうか、かみなりが怖いのか)
セオドアが納得すると同時に我に返った少女がぱっと飛びのいた。
「お、お手洗いに行きたいだけよっ、それだけっ」
差恥にうわずった声のまま、早口で言う。
おびえていることを気取られたのではないかとちらちら顔色をうかがってくる少女の顔は、先の行動を失悲と恥じ入ってますます赤らんでいる。
「……もう、分かったでしょ。さあ部屋に戻りなさいよっ」
寝着の端をぎゅうっとにぎりしめて強がる。
彼女はまだほんの子どもで、かみなりを怖がってもだれも笑ったりはしないから我慢せずともいいのに、と思うが、めいっぱい強がってそっぽを向いている彼女の姿を見ていると、それを言ってしまっては意地が悪くなりすぎるような気がして口に出せなかった。
また稲光がいつ起きるとも知れなくて怖いだろうに、そうやって自分に弱みを見せまいと必死なこの少女の誇り高さには愛しささえ感じられて、セオドアは手を伸ばした。
「な、なによっ」
反射的、少女は身構えて一歩後ずさる。
「わたしもだ。連れて行ってくれないか?」
セオドアからの突然の申し出に少女は虚をつかれたようで、奇妙な顔をしたものの、背後でゴロゴロと低い喰りを上げる空にびくっと全身で反応して、飛びつくように差し出された手をとった。
「場所、覚えてないの?」
両手で握りしめているわりには横柄な物言いである。
「かみなりが怖くてね」
「……しょうがないわね。連れて行ってあげるわ」
幾分安堵の響きをまじえて呆れを返すと、少女は手をつないだまま廊下を歩き出した。
身をすり寄せて窓側のセオドアを盾としながら、今にもあの恐ろしい白閃を吐き出しそうな不穏な黒雲の様子をちらちらうかがって進む。その姿に、ふと昔の記憶がだぶった。
おそらくまだ5つかそこらのことだ。やはりこの少女のように雷雲から吐き出される白光と耳を打つすさまじい音におびえて、あれは自分を食べにきた魔物だと妙に信じこんで、毛布ごと寝台の下にもぐりこんだ。
『大丈夫よ、大丈夫…』
奥の壁に背を押しつけ、毛布で全身をおおい隠すとつぶやく。
ここにいれば大丈夫。絶対に見つからない。
両膝を抱き寄せ、何度も何度もつぶやいた。そうすれば、体が透明になって、だれにも姿が見えなくなる、魔法の呪文のように。
痛いほど強く耳をふさいで何も聞こえないようにして、そのくせ目はぱっちりと開けて。怖くてがたがた震える膝に、鼻先をすりつけていた。
やがて扉の開くきしみ音がして、だれかの入ってくる気配がする。
とうとう来た!
と目深にかぶっていた毛布をぐっと引きおろす。
『テディ? どこだい?』
自分を呼ぶ。
それは、雷雨の激しさに泣いているのではと心配して様子を見にきてくれた蒼駕だった。
『テディ?』
部屋のどこにも自分の姿が見えないことを不審がる声に、ほっとする。
『ここよ、蒼駕』
いも虫のようにごそごそ足元近くから這い出した姿を目にして、蒼駕は目を丸くしていた。
それはそうだろう、寝台は寝るための物で、潜る物ではない。さぞかし驚いたに違いない。
『どうして来たの? わたしといると、食べられちゃうのに』
『食べられる?』
思いもよらなかった発言にさらに驚きながら、かがみこんで立たせると服のあちこちについた汚れを払ってくれる。
『そうよ。だってあれは魔物でしょう? 黒くて大きくて……光るときれいだけど、すごくきれいだけど、私、ばくんて、食べられちゃうの。
わたし、知ってるの。わたしのこと、きらいだって、言ったもの。わたしは、いらない子なんだって。だから……』
子どもであればこその想像力の逞しさは、セオドアであっても変わらない。何の根拠も論理もない、その強引な思いこみは、思い出すたびにセオドア自身、赤面してしまう。
あのときは真剣だったのだが……よくもまあ聞いた蒼駕も笑わなかったものだ。
そう。あのひとはなぜか、正反対の反応をした。
『だからそこに? ずっとそうしていたの?』
うん、と正直にうなずいたなら、蒼駕は何か心当たりでもあるような、いつになく悲しそうな、どこか痛むところでもあるような顔をして、彼女には聞きとれない何かを呻くように短くつぶやくと、小さな体を抱き寄せた。
ここまでご読了いただきまして、ありがとうございます。
黒い魔物については、また別のお話になります。
書けるといいなと思いますが……順番的にはかなり後半の内容なんですよね……。
とりあえず、蒼駕はこのとき気付いています、ということで。




