第1回
●慟 哭
たとえどれほどの傷を心に負ったとしても。外界へと通じる一切を遮断し、いつまでも己のなかに閉じこもっていられる者はごく一部に限られている。現実への執着が薄く、そして未来への執着が強い者。
セオドアにはそれほどの弱さも強さもなく。気付いたとき、彼女は自室で寝台に突っ伏していた。
どこをどう通って帰ってきたのか、今は一体いつなのか、まるで分からない。背に感じるのは、のしかかってくる重苦しい闇。
おそらく夜中だ。
まるで館の者全員が死に絶えてしまったかのように、人の動く気配が消えている。
それを確認した上で、さながら生まれて初めて巣穴から出る雛鳥のように、自分をとりまくものすべてにおびえながら、ゆっくりゆっくり時間をかけて、閉ざされていた心が周囲に向け、広がり始める。
そうして自分を傷つける存在が周りに存在しないことを確かめられてほっとしたのか、熱い痺れめいた感覚を伴いながらよみがえった耳が、砂が流れ降るのに似た雨音を拾った。
そちらに目を向けると、開け放したままの窓から強く吹きこむ雨粒が、床に水溜まりをつくっている。
庭に出ていたときには雨になる気配はなかった。無風に近く、月も出ていたのに。
雨期にありがちな天気だと、心のどこかで思った。
気まぐれな人の心と同じでころころ変わる。この雨も、おそらく明日の朝までもたない。
風雨が吹きすさぶ向こうでは白い稲光までして、まだまだ雨は強くなりそうな様相を呈していたが、窓を閉めに立つ気力も今は萎えたままだ。
風に運ばれてくる雨粒を頬に受けながら、ぽつりぽつりと戻り始めた記憶には、だれかの手があった。
あのあと。
ここにいてはいけない、いたくないとの一心でどうにか扉から離れることはできたものの、長く歩き続けることもできず、よろめいた手の先に触れた柱のもとにしゃがみ込んでいた自分を立たせて、手の主はこの部屋まで導いてくれた。
あれはエセルか、サリエルか。それともあの場に偶然通りかかった何者か。
詳しく思い出そうとすればするほど記憶は曖昧に揺れて、思い出せない。
エセル。
その名を浮かべた瞬間、言葉につくせない鋭い痛みが胸を貫く。
息ができず、熱く渇いた咳が喉をついた。
今もまだ視床に焼きついて離れない、あのときの姿、言葉。
『俺だってはじめから期待しちゃいない』
ただ居さえすればいい。そう言ったも同然のあの言葉は、セオドァを愕然とさせた。
何も求められていない。エセルが欲しているのは『退魔剣師』という肩書き――その言葉が与える威光だけで、セオドア自身にはなんら求めてはいなかったのだ。
『おまえは何もしなくていいよ』
ここへくる途中、エセルが口にした言葉。あれは、そういう意味だったのか。
「……うっ。う、ううー……っ」
両手で顔をおおい、セオドアは声を上げて泣いた。
残酷な言葉だった。これほどひどい言葉がはたしてあるのか。
さまざまな悪口、強烈な敵意、やっかみ、嘲り、嫌悪、そして不可視な闇の力と、精神的・肉体的に今まで負った傷のどれよりも深く切りつけられた気がした。
今こうして正気を保てていることが不思議なほど、あの言葉は自分をずたずたにしていった。
退魔師候補生である自分を利用し、都合よく退魔させようとしているのだとばかり思っていたのだ。
そう思われて当然だと納得して、しかたないと思った。こんな自分にできることは限られているけれど、最善をつくそうと決意までした。なのに。
何も求められていない。
こんなことがあっていいのか。
だがそれこそがあいつの隠していた、本当の狙い。人懐っこい笑顔と調子のいい軽口の裏にあった、冷酷な計算だ。
この町の者の不安をやわらげるために『退魔剣師』を招く。
たしかに有効な手だろう。ガザン一味への牽制にもなり、そのうえこの町の退魔師であるサリエルへ向きかねない不満や苛立ちをそらすことができる。すべて、エセルの読んだとおり。
(では、わたしは何だ!!)
胸が血の叫びを上げるたび、止めようもなく涙があふれた。同時に体中から一切の力が失せ、ぬぐうことはおろかまばたくこともできない。
わたし……わたしは、人間だ。物じゃない。心がある。人間の、セオドアとしての、心だ。
なのにあいつは、それすら意味はないと思っているのか。
友と思っていた者に、期待もできない無価値な存在だと思われていることに傷つく心など、どうでもいいと……。
そういう男だった。ときに残忍なほど平然とひとを傷つける。思い知らせる。おまえがどうなろうと、自分には一切関係ないと。
たとえわたしがどうなっても、きっとあいつは針で刺された程度の痛みすら感じないのだろう。この事件が片付けば、あのいつもの屈託ない笑顔で、おまえはもう用済みだと言わんばかりに形だけの『別れ言葉』を口にして、あっさり追い払うのだ。
またいつかとか、そんなつもりなどさらさらないくせに、口先だけの約束を吐いて。
くやしい。
くやしい、くやしい、くやしい!
あのイルで見せた優しさも、いたわりも、何もかもが偽り。実のない言葉だった。
なのに自分は心を動かして………滑稽にも厚意を持ってくれていると思いこみ、それに応えようとまで思っていたのだ。
「……ふ、……っ」
自分の愚かさが、あわれだった。
そんなにも人恋しい者に見えたか。ちょっと優しくすれば簡単に懐き、たやすく手玉にとれる、と。
来るのではなかった。誘われるままあの宮を離れ、のこのこやってきたことを、今度こそ、心底から後悔した。
あんな冷血漢からの手紙など無視し、捨ててしまっていればよかったのだ。そうしていたら、こんな傷など、負わずにすんだのに。
これからどうすればいい?
宮に戻るか。あのひとのいる場所へ。それとも素知らぬふりをしてここに居て、屈辱の時間をすごすか。
どちらも選べない。まだ何もしていない。何ひとつ、片付いてはいないのだ。
でも帰りたい。今すぐあのひとの元へ、帰りたい。慈愛にあふれた眼差しで見つめられ、包み込むように抱き締められて、あたたかな胸に顔を埋めたい。きっとあのひとは何も聞かずに、指でやさしく髪を梳いてくれるだろう。
だけど……!
「……教えてください、蒼駕。わたしは、どうすれば、いいんですか……」
壁にたてかけたままの長剣を見つめる。その柄に嵌めこまれた、蒼駕の瞳と同じ色をした青鋼玉を。
セオドアは、涙にぬれた目でじっと見続けていた……。




