第3回
まるではやり病のようにあっという間に幻聖宮中に伝染してしまった『碧翠眼の退魔師』が現れたという話は、魔断たちからの感応申し込み殺到という事態を引き起こしてしまったのだ。
われこそは、という数十の魔断による立候補は幻聖宮そのものを完全に混乱させ、運営に支障をきたさせた。ついには政務で多忙な日々をおくる宮母・アルフレートが、事の沈静に自ら乗り出したのだ。
この、自分が渦中の人となった出来事にすっかり青冷め、とにかくこれ以上あおって執着の熱を上げさせないためにと、セオドアは直接交渉に訪れた者たちをことごとく、頑なに断り続け、まだだれとも感応しないとまで言いきった。それにより、ようやく最近になって鎮められたのだが……やはりそれも、最上の策とはなり得なかったようだった。
「いい気なものよね、周りを振り回すだけ振り回しておいて、結局知らんぷりをきめこむんだもの。
まったく、どうしていつもあんたみたいな子のために私たちがこんな理不尽な思いをしなくちゃならないのかしら?
面倒ばかり起こしては周囲の者を巻きこんでいいように弄ぶんだから。ほんと、とんだ厄介者よね。
町で魅妖に襲われたそうだけど、それでも自分1人無事だったなんて、魅魎よりタチが悪いかもよ。なんたって、その魅妖も手の出せないここで、こんなもめ事を起こすんだから」
それはセオドアをよく思わない者の口にした、容赦ない批判だった。
憎悪の感情とともに正面から叩きつけられたこの言葉には、今でも胸が痛む。体が竦み、凍えてしまいそうになる。
真実であるだけに、何の弁解もできなかった。
魔断が不在。それが結局、悩みの大本なのだ。
うなだれた前髪の隙間から覗くように、再び机上の魔導杖へと目を向ける。その柄頭のところに嵌まっている紅玉色した物は、誓血石と呼ばれる物だ。共鳴した魔断の物がああしてあそこに嵌めこまれる。
これが、手がかりといえば手がかりだろう。
もう5ヵ月も前になる。初めて退魔を行ったのは。
数々の状況証拠から察して、ルビアの町で魅妖と相対したとき、彼女の手には魔断の剣が握られており、それによって魅妖を断ったはずなのだが……昏睡状態を経て幻聖宮で目を覚ましたときには、あろうことかそのときの記憶だけがすっぽりと抜け落ちていたのだ。
「よほど怖い思いをしたんだね。大丈夫、無理をしなくても、いつかきっと戻ってくるよ。きみの記憶なんだから」
この幻聖宮において唯一の心の拠り所である蒼駕はそう言って慰めてくれたが、いいかげん戻ってもいいころだ。あれから5カ月も経つのだから。
不甲斐ない。
つくづくその一言に尽きる。
自分に魔断がいさえすれば避けられた騒動だ。きっと間違いなく、この幻聖宮のほとんどの者が不快な思いをしただろう。宮母さまは言うに及ばず、たくさんの人に迷惑をかけたのに、自分は何も返せていない。
幻聖宮の面子を回復するため、そしてまた起きるかもしれないという不安をなくすためにも、早く退魔師にならなくてはならないというのに……。
自分はこのまま、一生をここで終えることになるんだろうか?
退魔師になれず、どこにも所属できず、ずっと、厄介なお荷物と化したまま、ここで……。
その、身も心も萎縮してしまう想像を振り切るように強く首を振ると、セオドアはすっくと立ち上がった。
(やめよう。ひどく自虐的な考えだ、これは)
床に転がっている包帯へと、あらためて手を伸ばす。
まだそうと決まったわけじゃない。何かと物事を深刻に、しかも悪いほうへばかり考えてしまうのは自分の欠点だと、戒める思いで拾い上げる。
ただあせって、まだ見えてもいない先ばかり待たずに今できることをしっかりこなすこと。退魔師となってからではやり直しはきかないのだから。
それが5カ月前の死闘で彼女の得た教訓だった。
(一番悪いところは心の未熟さだ。感応式が近付くたびに集中力を欠くなんて、その証拠じゃないか。
自分で自分をうまく制御できない、こんな弱い自分が一体どうして一人前の退魔師になることができる? 魔導杖や魔断のせいばかりにはできない)
「もっと、強くならないと……」
言いきかせるつもりで口にした。直後。
「それ以上強くなりたいの?」
そんな、問い返すような声が背後で起きた。
まるで予想だにしていなかった返事に、反射的、セオドアはぎくりと身を固くして振り返ったのだが。
そこにいる者の姿を目にした途端、ほっとその緊張を解いた。
ドアに肩をもたせかけて胸の前で腕を組んでいるその者が、現実離れした美貌で有名な、白玲牙の化身、白悧だと分かったからである。
異常なほど美形揃いの魔断の中でも格段に整った顔立ち、あでやかな姿態。額には凍気系の魔断の印である金剛石色の誓血石を頂き、青とも銀ともつかない、もしや月光で造られたのではないかと思わせるほど豪奢な青銀の糸髪と、最高級の象牙に似ていながらそれをはるかに上回る豊かな色あいの肌をしている。
さながら銀の星を嵌めこんだような瞳には、ほんの少しだけラベンダーが色を落としており、凍てついた冬の星に降りた一筋の春のごとき麗しさで、存在していることそのものが奇跡の人と、女退魔師候補生たちの間では評判の魔断だ。
もともと蒼駕の親しい友人として、物心ついたときからの顔見知りだったのだが、やはり5ヵ月前の出来事で深く知り合い、懇意の仲――とまではいかないものの、気を許してつき合える、数少ない理解者の1人となっている。
「何かご用ですか?」
先までの苛立ちを静め、なんとかして平静さをまとうよう努めながら訊く。
もっとも、そうする必要もなく、彼女の面は振り返ったときから冷淡と呼ばれる仮面をいささかも崩してはいなかったのだが。
対し、白悧はそのことに何も答えず、この部屋の主である彼女の許しももらう前にずかずか中へ踏みこむと、自分から隠すように奥へ引いていたセオドアの右手をつかんで引っ張り出した。
「やっぱり」
傷を見て、それから引き攣った痛みに一瞬表情を変えたセオドアを見て、白悧はため息をつく。
「百蓮と会って、きみは医療室だと聞いたから行ってみれば姿がない。ま、そうじゃないかと思ってはいたけどね。
どうして医療室へ行かなかったの?」
責めるというよりも、それは呆れだった。
彼女の性格を考え、むやみに責めたてればますます萎縮してしまうだろうという配慮からだったのだが、しかし、それがさらにセオドアをあせらせる結果となってしまうとは気付かなかったようである。
「だっ……て、あの、いつも、自分でやってるし……その……」
怒られるよりも、呆れて愛想つかされることの方がずっと恐ろしい。
セオドアは、怯えて細くなった喉に言葉をつかえさせながら、しどろもどろでそう答えた。
「感染症とか、気にしたことはないわけ?」
「この程度なら、いつものことですから……」
「「いつも」か」
おそるおそる言ってきたセオドアの答えに、瞬間、白悧ははっ、と笑いを吐き出した。
怒鳴られる!
言葉を選び間違ったとひるんだ心で援悔し、さらに固く強ば張った頬に、しかし白悧はそっと指で触れてきた。
「そう、きみは、ほかの者なら医務室へ直行するような、こんなけがの治療も自分1人でできるようになってしまった。
だれかの手を、借りたいと思ったことはないの?」
その、慈しみのこもった言葉と真正面から覗きこんでくる瞳の危うい輝きに、どぎまぎする。
「でも、あの、ほかの誰かといっても、みんな、やることがあって、これは勝手なけがで、自分のせいなんだし……」
「セオドア」
「……すみません……」
まるで要領の得ていない返答をしてしまったことに恥じ入り、これ以上弁解するのは無理だと思ってうつむくと、申しわけなさそうに謝罪を口にする。その姿に、白悧はがりがりっと頭を掻いた。
「謝ることじゃないだろ?
まったくきみは、どうしてそんなに自分を出すことがへたなんだろうね」
それはどういう意味か。問いのようにも思えるその言葉に、はたしてどう返せばいいのか分からず、でも早く何か言わないといけないのではと軽い混乱をきたしているセオドアの手を引いて寝台の端へとかけさせた白悧は、無言のまま彼女の右手から包帯を取り上げるとおもむろにそれを傷口へと巻きつけはじめた。




