第10回
●苦 悩
夕方の斜光に照らされた階段を1段1段ゆっくり上がり、重い足どりで部屋へと向かう。
胸には、これと断言することのできない、様々なものが複雑にまじりあった結果の重苦しい感情が渦巻いていた。
怒りとか、むかつきとか。同情と……いまだ消せない恐れ。悲しみ。もどかしさ。それから、彼らの期待には添えそうにないという罪悪感。
確とした言葉で語られずともあの眼差しを受ければ明白だ。彼らは、魅魎の退魔とシェスタの奪還を自分に望んでいるのだ。どう考えても、自分には絶対できないことなのに。
期待を裏切られる苦しみはよく知っている。灼熱の炎帝を飲みこんだも同然だ。骨の芯から噴き上がる熱を消すのは決して容易とはいえない。
地底にある暗闇そのもののような未来と絶望。それ以外何も見えなくなる。行き場のない憎しみばかりがつのって、苦しくて、せつなくて。何かにすがりつき、ただひたすら慈悲を求めたくてたまらなくなるのだ。
分かっていながらそれをひとに与えてしまう、これだけでも十分すぎるというのに、さらにはまるで茨を押しこみでもしたようにちくちくする、息苦しい原因不明の胸の痛みまであって、ぐちゃぐちゃに入りまじった頭の中は、応接室を退出する前からずっと鈍痛を訴えている。
いっそのこと、もう泣いてしまいたいという、現状を投げ出すような滅茶苦茶な考えまで思いついてしまったのだが、あいにくそれを上手に表に出せるほどセオドアの顔は器用ではない。
自分の内側に巣食っている、どす黒く染まった靄が何であるか。それすらも、彼女には判断つきかねるのだ。
怒り、苛立ち。そういったものにとても酷似したそれは、きれいさっぱり晴らしたいと思う一方で、彼女にとって必要不可欠な歯止めに思えた。
どうにか封印できている、これを解放したなら次にくるのはそれをさらに上回る恐怖だと、本能が頭に忠告を刻みつけてくる。
心をこなごなに砕いてしまうに違いない、容赦ない恐怖。
自重しなくてはいけない。これが目覚めたなら最後だ。
そう、それはよく、分かっている……。
扉を引き開けて部屋に入る。夕食のお呼びがかかるまではまだ時間があるだろう、仮眠でもとろう。そうすれば、もしかすると目を覚ましたころにはこの感覚も少しは薄れて、楽になっているかもしれない。
ひたすらそれを請う思いで後ろ手に閉めた扉にもたれかかったとき。
「おつかれさん」
などという、実にお気楽な声をかける存在が、寝台の上にあった。
全然悪びれたふうもなくにこにこ笑って、そこで頰づえついて座っている。
(こいつは……)
「許可も得ず、勝手に部屋へ入るな」
そういうのを不法侵入というんだぞ、と腰に手をあてて非難する。
「あれ? 呼ばれる前にこちらから、と気を利かせたつもりなんだけどな。ほら、話が途中で壊れたから。疑問とか、あるんじゃないかってね」
一向に悪いことをしているという自覚を見せないことに、ずくずくとうずきの強まったこめかみへと指を添えた。
ああそうだ、こういうやつだ。
悪意を見せないのではなく、悪いことであると欠片も思っていないから、こうして平然とふるまえるんだ。
なんでも自分に都合がいいようにとる、そんな厚顔な輩のためにこれ以上神経をすり減らすのは真っ平だ。
寝台は取られている。窓近くの机から椅子を引き出して腰かけ、セオドアは首のスナップをはずした。
「わたしは疲れている。休みたいから出て行け」
さらさら歓迎してないのだから、声が険しくなるのは当然だろう。ましてやこの頭痛の原因は、大元を正せばこの町へ呼んだエセルにあるのだ。
大嘘八百吹きこんで、自分のような半端者を招くなんて真似して、何も知らないあの人たちに、期待ばかり持たせて……!
(それをつぶさせるんだ。わたしに)
あなたたちのご希望にはそえません、と言ったなら。あの2人が浮かべる絶望が、目に見える気がして、セオドアはぐっと手をにぎりこむ。
そうだ、何もかもこいつのせいだとにらみつけるセオドアに、しかしエセルはそんなものどこ吹く風といった調子で瓢々とした面のまま返した。
「そんな、1人で黙々と考えたってどん底に滅入るだけだよ。特に今のおまえってばすっかり悲観主義だし。第一さっき言ったとおり、あの話にはまだまだ続きがあって、今おまえの持ってる疑問はあらかた解けてるものなんだ。
疲れてるなら、なおさら無駄なことしたくないだろ?」
「おまえに聞かずとも、知りたいことができればあのサリエルという法師から聞かせてもらう。
これは退魔師の領分だ。一般市民のおまえがとやかく口を出すことじゃない」
ただ追い出したいがためにロにした憎まれ口。
本意のない言葉は、簡単に巻き返される。しかも、ずいぶんと気を逆撫でる物言いで。
「まーたまた心にもない虚を張っちゃって。ほんとセオドアってば、うそつくのがヘタだねえ。
いい? 分かりきってることは、よっぽど上手なうそじゃない限り、隠そうとしても無駄なんだよ。
まあ相手にもよるけどね。使い分けられるほどセオドアは器用じゃないんだから、まず正直になることから始めたほうがいいんじゃないかな」
口調自体は先までと変わらずおどけたもので、先のとげとげしい態度を責める響きは皆無だが、用いる言葉は辛辣そのものだ。
くつくつと含み笑っている、エセルの座右の銘は『目には目と歯を』なのかもしれない。
(こいつ、1度殺してやろうか)
ふさぎこみ、すさんで、冷静さが欠けているためか、気にしていることを面白半分でつつかれて、熱くなった頭がとんでもなくぶっそうなことを閃かせる。
理由などいくらでも作れるものだ。
この男が人でなく、その容姿に相応した魅魎であったなら、今すぐこの手で断ってやるのに……。
ちらり、壁に立てかけた長剣へと視線を流す。
その仕草から難なく彼女のした考えを読んだエセルは、途端いやそうに顔をしかめた。
「おまえはしないって言ってるんじゃないか。
そんな、相手の傷をさらにえぐりかねないまね、おまえにできるものか」
その言葉に、はっとなる。
「サリエルは、すばらしい術師だ。あれほどの力を持つ法師はそういるもんじゃない。『流れ』の商人をやってて、いろんな国を巡っている俺の目から見ても確かだし、同じ退魔師であるおまえにも分かるだろ。
それだけに自尊心も高いし、自分の持つ能力への自信もあった」
頰づえで隠したロ元で、完全にらしくないため息をひとつ、エセルはついた。
何を憂慮してか、逸らした視線は宙で止まっている。
その言葉は真実で、町に巡らされた結界はその自信にふさわしい出来のものであるのはセオドアも納得していた。
面にも声にも出していなかったが、それを邪法により無力化された彼女が深く傷ついているのはあきらかだ。
思い起こす。
話す間中向けられていた険しい視線や声も、まだ立ち直れずにいるためかもしれない。
彼女はこの町でただ1人の法師だ。次に何が起きるともしれないことにおびえるほかの者の手前、 専門とする彼女が個人的な感情や課せられた責任に動揺するわけにはいかない。
あれは、表に出すまいと気を張っているからなのかも、と思って、セオドアはそれと気付けず迂闊にも冷酷とさえ思ってしまった自分のいたらなさに唇を噛んだ。
エセルの言うとおりだ。そんな彼女に尋ねるのは、確かに難しいことかもしれない。
自分の稚拙な言葉では、傷ロをますますえぐって広げかねない。
納得し、押し黙ったセオドアに「ひとの厚意は素直に受けとるものだよ」と真面目ぶってエセルが至極もっともなことを言ってくる。
それはそうかもしれないが……どうもこいつの吐く言葉だと、素直に頷くには今ひとつふたつ引っかかるものがある。
それにしても、と思った直後。
「ん? 何?」
表情を読んだらしいエセルが、言葉に出せと促してきた。
こいつには鉄面皮も効果がないらしい。あるいは、すっかり思考を読まれきっているのか。
やりにくさを感じつつ、セオドアは声に出して言った。
「ここへ来る道中でも思ったんだが……おまえが手放しでひとを褒めるのはめずらしいと思ったんだ」
「そうか?」
「朱廻のときなど、一目できらっていただろう」
「ああ……。
魔断は、あまり好きじゃないんだ」
「そうなのか」
幼いころから身近で接してきたセオドアたち退魔師はもうすっかり慣れているが、人外の気をまとい、超常能力を操る魔断を警戒してきらう者は少なくない。
エセルもそうなのだろう、と納得したセオドアの前、エセルは少しの間、考え込むように黙って、それから言った。
「あいつ、どうしてる?」
「あいつ? ああ、朱廻か。彼なら今は教え長をしながら新しい操主を得るための感応式に出ているそうだ」
「それが操主の望んだことだから」と言っていた、というのをセオドアは蒼駕から聞いていた。
まだ感応は果たしていないが、彼なりにどうにか心の整理をつけて、前進しようともがいているのだろう、と。
「ああそう」
何を思ったか、エセルは皮肉げに口端をゆがめてつぶやくと、長居を決めこむように、ごろんと寝台に寝転がった。
「さて、と。どれからしようか」
もったいぶった言い方で、話の続きの口火を切ろうとする。
「不要だ」
セオドアは先をふさぐように即返し、前髪を梳き上げた。
「たしかに気になることではあるが、これ以上知ったところでわたしにはどうすることもできないことだ」
ここまで読了いただきまして、ありがとうございます。
『魔断の剣3』でも少し触れましたが、「はぐれ」のエセル(紅刺)には、魔断は宮に管理され、首輪をつけられ、人である操主に犬のように付き従い、規則に縛られて生きるのが正しい姿、というように見えていて、あまり好きではないのです。
実際、凍稀も朱廻も、この道しかないと宮に戻りましたから。
そのエセルが、セオドアと感応して、彼女の魔断となってしまった。
この『人妖の罠』は、そのことが主軸となっています。




