第8回
「その者はすぐ、捕えられているのが娘のシェスタであると分かったそうです。急いで助けを呼ぼうとしたそうですわ。娘の意に添わず、連れ去ろうとしているのはあきらかでしたから。
魅魎に、人が何人集まろうとかなうはずはないと知っておりましても、その行為を愚かと笑うことはできません。まして、なぜ力ずくでもとめなかったかと責めるなど、己の愚をますますさらけ出すようなもの……。
その者は懸命に、他の者に知らせるべく声を張り上げようとしたのですが、それも結局はできませんでした。脇から現れた者に不意をつかれ、当て身をされたのだそうです」
「それも魅魎ですか?」
夫人は首を振った。
「分からなかったそうです。雲間に入った月明かりでは満足に顔もうかがえなかったそうですが、気を失うまいと必死にすがったその足は、成人男性のものだったということです」
不様に伸びていたのはどれくらいか。
噴水のそばの木にもたれかかった格好で目を覚ましたときにはもう自分以外その場にはおらず、どこからも異変は感じなかったので、最初男は先に飲屋であおった酒による幻覚だったのではと考えたらしい。
いくらなんでも魅魎を町中で見かけたなど、笑い話にもならない悪夢だ。絶対にありえないと、怖がったそのときの自分の不甲斐なさを単純に嘲る。
目覚めた今、その酔いもとうに冷めていた。このまま一晩こんな場所に寝ていたなら朝には凍死体だ。帰宅しようと起きた直後、当て身をされた腹部に痛みが走った。
服をめくって見ると、青あざになっている。どこかでぶつけた可能性もあったが、シェスタのこともあり、妙に気になって、念のためと町長の館に報告にきて――そのときにはもう、シェスタの姿がどこにもないということで、館内は騒然となっていた――事が知れたというわけだった。
その正体不明の共犯者のほうはともかく、先の、炎に全身を包んだ銀髪・鉛肌の男は、魅妖か、その配下の魘魅である可能性が高い、とセオドアは思った。
目で見て確認していない以上、確定はできないけれど、人型をとれている以上は中級以上だろう。
しかし、そうだと決定づけるには、まだ最大の疑問があった。
「この町の法師の方は、どういった意見をお持ちですか?」
魅魎の侵入を防ぐ防御の結界を常に町中に張り巡らせる者である退魔法師が侵入に気付かないはずはない。
砂漠から町を目にしたときも思ったが、半円を描きこの町を覆うように張られた結界の出来は、感嘆の息がもれるほど素晴らしいものだ。
発する白光は清浄さをたたえてうっすらと青みを帯び、銀の横糸のように十重二十重と織りこまれた念の強さも強固なもので、たとえ相手が魅妖であれ、あれを破るにはかなりの力を必要とするに違いない。
これだけの結界を力ずくで破ったとすれば、相当凄まじい衝撃波が大気や地表を揺るがしたはず。巡らせた当人である法師は言うに及ばず、町の大半の者が気付いておかしくない。だが夫人のロ振りでは、そういった異変の前兆もなさそうだった。
実際、今の結界からも、負の存在である魅魎が触れた痕跡は読みとれない。
では、一体どうして魅魎が町中に平然と出没できたのか?
やはりこれは、魅魎の仕業と見せかけた、人間による作為とみる方がいいのでは……そう、セオドアが考えたときである。
「おそらく『流れ』の仕業でしょう」
慎重に出した質疑の裏にある、セオドアの疑問を鋭く読みとったかのように、突然ドア付近から女の声がした。
申しあわせたようにこの場にいた全員の視線がそちらへと集中する。
はたしていつからいたものか……室内の灯に照り映える、漆黒の髪と真夏の木々を思わせる深緑の
瞳をした妙齢の女性がそこにいた。
こうして気付いたというのに、その存在を知らせる気配は各段に微少である。隙どころか、そういった探りすら近寄らせようとしない、知的な眼光の持ち主。
特に際立ったところはないが、おそらくどういった身分の者であれ、前にしたなら気圧され自然と頭を垂れてしまうような、鋼のごとき強さと神秘さ、気高さを備えた、玲瓏たる女性だ。
ただ者ではないと、一目でそれを悟らせた美女は、肩に巡らせていた外套をとって腕にかけると、まっすぐエセルへ近寄り、そのうなじに両手を回して親しげに抱き寄せた。
「おかえりなさい、エセル」
頬に触れる唇に身をかがめて応じ、笑顔でサリエルとの名を呼ぶエセルの姿は、一瞬セオドアの胸に不可解な波をたてた。
サリエル。
幾度となく耳にしたその名は、この町の法師のものだったのか。
「『流れ』の仕業、とは?」
発言の続きを求めるセオドアに、サリエルはエセルの胸に手を添えたまま向き直ると、凛とした声で答えた。
「これはあくまで私個人の推測ですが、魅魎召喚をしたのでしょう。町の結界を中和する陣を結界力の弱まる地下に描き、その中に魅魎を呼びこんだのです。
もちろんそれだけでは魅魎の動きは陣内に限られてしまいます。陣から一歩でも出たなら、即座に町中に巡らせた私の結界に捕えられるでしょうから――」
淡々と語る、その声からは退魔師らしい強固な意思により、一切の感情が消し去られている。
決して己の感情に乱されず、常に事実を有りのままに告げ、相手の判断を妨げることを避けなくてはいけない。
それは正しい方法だが、セオドアにはこのときのサリエルの声がとげとげしく、セオドアを見つめる瞳まで冷淡であるように感じられて、不思議だった。
鏡に向かい、じっくり腰を据えて自分の造作を見たことはないが、いくらなんでも出会った瞬間に嫌悪されるほど不快なつくりはしていないはずだが、と内心で首をひねる。
けれども今はそんなことより話のほうに集中するべきだと自らをいさめ、早々に余計な考えは散らしてしまった。
セオドアは退魔剣師なので、剣操術のほかに封師としての教育も受けているが、法術に関しては完全に専門外だ。
そもそも退魔という行為自体、経験があるといっても1度きりの微々たるもので、その上記憶もないとあってはなんとも頼りない代物である。
所々につけ加えられたサリエルの知識と経験に基づく推測はありがたかったが、しかしその後に語られた言葉が、今までに聞いた何よりもセオドアを激しく戦標させた。
「――ですが、法師の私に気付かせることなく町を俳徊できたというのであれば、おそらくその魅魎そのものをさらなる守護結界で包み、保護しているものと思われます」
この女性は、はたして自ら口にしたことの重大さを本当に理解しているのだろうか?
理解できていないはずがないと思いながらも、わずかも乱れないその平淡な物言いと表情に、疑惑の念が沸き起こる。
彼女は、これは正規の退魔師の為した事であると言い切ったのだ。疑惑で終わらせることなく。




