第6回
●事 件
全く話が見えないうえ、いきなり懇願された驚きに無表情のまま凍りついたセオドアは、苦笑するエセルからあてがわれた部屋で、しばらくの間ぼんやりと寝台に腰かけていた。
(……どういうことだ? これは)
ようやく解凍を始めた頭に手をやって、思い出して再び青冷める。
これが、不意な呼び出しの理由だったのか。
昨夜はこちらも罰が悪くてついごまかされるままにしてしまったが、エセルが何かしら要求を持っているというのは、たとえエセル本人に何を言われようと消せない疑い――いや、純然たる事実だった。
中にはもちろん言葉どおり、負った傷を気遣う気持ちもあったかもしれないが、本当にそれだけならとうに宮を訪れていたはずだ。候補生とはいついかなる理由をもってしても面会謝絶、という規則はないし、ここから宮まで片道3~5日の道程でしかない。
それに、知るだけならそれこそご機嫌うかがいの手紙でも済むことだ。なのにそれもせず、5カ月も経ての突然の呼び出しは、何かセオドアにさせたいことがあるからにほかならない。
それも、この地でなくてはならない何か。
(……『会いたかった』なんて。子どもだましだ。信じられるもんか。
あいつのことだから、どうせその言葉が与える感情も都合よく利用しようと考えているに違いないんだ……)
自分の出した結論に、ツキンと胸が、小さな痛みを感じた。
知らぬうち、片膝を引き寄せて抱く。
深く傷つくことを恐れてひるんだ気持ちを、目をそらすなと押さえ込んで、さらに続けた。
自分を利用しようとしている……当然のことだ。そうでなければこんな自分にわざわざ会いたいと思うはずがない。生死をともにした仲とはいえ、ルビアでのあれはもう、思い出すのもつらい、忘れられるものなら忘れてしまいたい出来事だ。
自分だって手紙をもらうまですっかりあいつのことは忘れていたじゃないか。ひとのことは言えない。
まして、巻きこまれただけのあいつが、どうして自分みたいな疫病神に、ただ会いたいなどと思うだろう。
肩に重傷まで負ったのに……。
耳に心地いいからと、言われるまま、全てを鵜呑みにしちゃいけない。自分は、無条件でひとに好かれるような人間じゃないことは、とっくに承知しているじゃないか。
客観的判断。
そうだ、あいつにはたしかに借りがある。
その返却を求められるのは当然のことだ。
それ以外で受けた、細々とした精神的いじめを思えば、借りなど、存在自体がまったく業腹なことではあるのだけれど。
だが、これはどういうことだ?
あのクレオだとかいう執事といい、思えば門番の2人まで、自分が来ることを知っていた。『ただの女友達』でなく『退魔師』である者が。
もっとも、エセルが話していたようだし、特に隠すことでもないと言われればそれで済むことだから、べつに気にしなくていいのかもしれないが……あのあと。
肩に置かれたエセルの手にはっとなり、「とり乱してすみませんでした」と謝罪したあとに「詳しくは町長さまから直接お聞きになってください」と言ったクレオの様子では、用事があるのはエセルではないみたいだし……。
町長か。
その名称に付随して思い出した厄介事に、途端、沈んだ気持ちで重いため息を吐き出す。
退魔師は、基本的に町の運営とは無縁の存在だ。ルビアや砂漠でのときのように、魅魎の脅威にさらされている間は専門家である退魔師が指揮権を持つが、それは本当に一時的なもので、平時の運営に口出しできる権限は一切ない。
当然ながら、町長とガザンの間に入って仲介をするなどといった権限もないわけだ。
それとも、この町の問題はガザンだけじゃないのか? 一体何をさせたがっている?
舌打ちをして、セオドアは足元に投げていた荷袋を膝の上に引き上げた。
今、あれやこれやと考えたところでしかたのないことだ。具体的に、こうしてくれと言われたわけじゃない。まだ何も呈示されていないのにあれこれと空想を巡らせて、思いつくことごとくの裏を疑って対処法を考えるのは、さすがに猜疑心が過ぎる。
とにかく、ひと通り説明を受けてから考えたほうが無難というものだろう。
無理強いはしないと、エセルからは言われている。
自分の力量は把握しているし、できないことならできないと断ればいい、それだけだ。
けれど、その『それだけ』が自分にとってかなり難しいことなのは否めない事実であるだけに、吐き出す息は自然と重くなる。
(これがエセルだけなら、これほど思いわずらうことはないのに……)
やはり来たのは間違っていたようだ。本当に今さらだけれど。
いつまでも過ぎたことを悔やんではいられない。とにかく荷をほどき、服を広げてしわを伸ばしていたセオドアは、風通しをよくするために開いたドアの向こうが湯浴み場であることに気付いて、気分転換もかねて湯を張ることにした。
思えばイル以来入っていない。砂や汗にまみれた姿でここの主に会うわけにもいかないだろう。
はたして湯浴みを終え、着替えて髪をたたき拭いていたとき。ここの侍女らしき女性が呼びにきた。
「長さまがお待ちです」という言葉に従って、後ろをついて行く。ここへ来たときに通った階段を下り、玄関の広間を渡った反対側の通路を進んだ先にある部屋の前まで案内すると、彼女はセオドアに一礼してその場から去って行った。
どう言えばいいのかためらったものの、とにかく扉をたたく。無言のまま、入室を許す言葉を待っていたら、いきなりドアが引き開けられた。
「待たせたな」
満面の笑顔で出迎えたエセルが彼女に中へ入ることを促して、席まで誘導してきた。
「こっちにもいろいろ調節しなきゃいけない時間っていうのがいってさ」などなど。どうでもいい説明は右から左へ聞き流しながら、セオドアは、やはり表と同じで派手さを好まない穏やかな色調に統一された調度品で整えられた室内にいる者を順に見た。
正面に座していた者が、中腰になって会釈をしてくる。これがおそらく町長だろう。環境が人をつくるというが、なるほど、造作のよさもさることながら、身にまとった雰囲気がなんとも甘やかで育ちの良さが出ている。
歳のころはおそらく40のはじめだ。物質的に恵まれない、どん底のような生活が世の中には存在するということを知らないことはないまでも、したことは一切なさそうな、白い優雅な指をした品の良いふくよかな女性が横についている。夫人に違いない。
長く心を寄り添わせた者同士によく見られる、似通った雰囲気を持つ2人とも、権力に慣れ親しんだ者に多い不遜な、欺哺めいた濁りは欠片もない、澄んだ瞳の持ち主で、むしろその静かな輝きは、無垢さまでも感じさせる。
なんらかの災難が降りかかったことによる悲しみを内に秘めているためか、血の気の失せた顔は固く強張っていたが、それでも生まれながらの高貴さは損なわれてはいなかった。
そして、その後ろの壁にぴったり背を平行させて、クレオが控えている。
勧められるままに腰を下ろしたセオドアの後ろにあるのは、まるで退魔剣師である彼女に付き従う魔断であるかのように控えたエセルの気配だけだ。
「退魔剣師どの。幻聖宮よりおいでいただかれたとか……旅の疲れもまだ満足にぬぐえてはおられぬでしょうに、到着早々このような場をかまえる非礼をお許しください」
深い溜息のようなその謝罪の言葉に加え、頭まで下げられたことにセオドアはひどく驚き、そして困惑した。
町長にここまで下手に出られる身ではない。数々の武勇を誇る手練れた退魔師ならばともかく、自分は単なる候補生だ。一般市民と同じで、なんら権威は持ちあわせていない。何かあるにせよ、これは持ち上げすぎだ。
厭味だとか皮肉だとかの響きがない、心底からかけられたいたわりだということが、さらにあせりを加速させる。
はたしてなんと返答するべきか、まごついている間に、町長は言を継いでしまった。
「私はシエルドーア王よりこのリィアの地の管理守護の役目を授かり、長を務めておりますリランドと申す者です。そしてこちらは妻のアメリアと申します」
夫人が軽く頭を下げる。
「わざわざこの地までご足労いただき、無関係な剣師さまのお手をわずらわせることは、我が身の無能さをさらすようではなはだ恐縮の至りですが、尊い、人の命にはかえられません。ましてやそれがかけがえのない、娘の命とあっては……」
半眼を伏せ、途切れた言葉の下の、隠しきれない心の乱れの表れのように、膝上で組んだ指先に力がこもったのが分かった。




