第16回
「セ才ドア、待って」
声と同時に肘のところをとられて立ち止まる。
そこにいたのはエイラスで、かなり走ったのか、少し息が上がっているようだった。
「あの娘は?」
「今、目当ての品買って、代金払ってるとこ」
その答えに視線を飛ばしても、彼女の姿は視界内の店先からは見つからない。
そんなに離れてしまっていたのかと自分の失態に舌打ちをもらしたセオドアの手を引っ張って、エイラスが催促した。
「行こっ」
「え? だが......」
「大丈夫! ライラの目的はもう終わったし、ここへは何度も来てて、地理には明るいから1人でちゃんと帰れるよ。
それよりきみのほうがずっと心配さ、僕は。この町は初めてなんでしょ。1人だと絶対迷子になるよ、特にバザールが開かれてるこの辺は、迷路みたいに入り組んでるからさ」
そういう問題じゃないような気がするのだが、あまりに自信たっぷりに断言するものだから、口をはさむのも悪いような気がしてさからえない。
どこか店に入るというわけでもないのだから、このままこうして歩いていれば、おそらく彼女もすぐ追いついてくるだろう。
そう見当をつけて、セオドアも歩き始めた。
急がないと窓口が閉まって、許可書が受けとれない。
エイラスを隣に、人波に乗って広場へと入る。ぐるっと建物で囲まれた少々手狭な円形のそこでは、何の法則もなしに店が開かれていた。
大きいものでせいぜい大人の男が伸ばした手ほどしかない隙間を縫うようにして、器用に人が歩き、台と台の間にはこれまた別の商人が直接石畳に布を敷いて、さまざまな装飾類を所狭しとばかりに並べたてている。
もうじき店じまいだとあちこちから呼びこみの声が飛びかう騒々しさは耳をふさぎたくなるほどだ。
サキスの市場はもっと組合の統制が行き届いて、整然としている。店も華やかで、清潔感があった。広さも、ここの倍はある。
そう思った直後、サキスと比べるほうがおかしいのかもしれない、と思い直す。
サキスは幻聖宮の結界内にあるため魅魍の襲撃を受ける可能性はほぼないに等しく、日々の警邏も宮の魔断たちが行っている。そのため、町の運営に年度予算の大半を割けていた。
そのサキスと比較しようとするのがそもそもの間違いだ。
組み立てられた棚から吊るされた銀色の鍋を面白半分に指で弾きながら、ここにいる全部が定置の商人だとエイラスが説明してきた。
「このイルはほんとに単なる中継地だからね。定住者もせいぜい派遣された役人とその家族くらいだし、あんまり商売地としては適さないんだ。だから、商隊は開かない。そんな暇があったらさっさと
出た方が利口さ」
といった、一人前の商人らしい口をきいて肩を竦めてみせる。おそらくこの国の物価を調べているのだろう、店頭に出ている品に目をやって、値と質を見定めながらのそれは、相も変わらず相手に同意も相槌も求めない話しぶりで、セオドアとしても気兼ねがいらず楽だ。
「それでね」「だから」「でもさ」「でしょ」売り手と買い手のかけあいで賑わうの雑踏とともにエイラスの言葉の片鱗がぼんやり耳に入ってくる中、セオドアは特に意識するわけでもなく、もうじき
会う者のことを思い出していた。
エセル。
手紙が届くまですっかり忘れきっていた名前だ。なのに、思い起こそうと努力する必要もなく、不思議とその姿は鮮明に浮かんだ。まるで、あの日からほんのわずかも経ていないように。
その不思議な記憶の一端は、まぎれもなくあの人並みはずれた外見にあるだろう。
一見黒と見間違うばかりの暗紅色の髪に、燃え盛る炎よりも激しい輝きと魅了の力を秘めた紅玉の双眸は、到底だれにでも持てるという代物じゃない。
並はずれて整った面も、すらりとした優美な肢体も、恵まれた声質も、あれだけのものを持つのならいっそ当然と思えるほどだ。そうでなければ許さない、などといったわがままを口にする者が存在して
も、一向におかしくないだろう。
人という種をはるかに超えたあの美貌と五分に張りあえるのはもはや、人外の存在である魔断か上・中級題しかいないに違いないのだから。
もっとも、きれいなもの、希有なものに価値を見出し、特に好んでほしがる魅魎などが存在する限り、それがはたしてエセル自身にとって幸運かどうかは疑問だが。
皮肉って思ったものの、しかし案外あいつに限っては幸運になるのかも知れないと、深い深いため息をそっとついて、セオドアはついでに導き出してしまった頭の痛くなるような記憶につい、こめかみ
へと指を添えた。
あれほど運に恵まれた者も、滅多にいるものじゃない。
ああそうだ、こんなに記憶に新しいのは、あのころころと移り変わりの激しいはた迷惑な性格にもあるんだと。
一体全体後先考えてしているのかと怒鳴りたくなるほど、エセルの用いる言葉は凶悪だった。超常能力を操る魅妖を前してその横っ面をひっぱたくような横柄な物言いをした、あれは今思い出しても血が凍る思いがする。
たとえどんな者が相手だろうと主義主張をまげない、それはそれで立派だとは思うが、出す場というものをもう少しわきまえるべきだ。できないわけではないのなら、なおさらに。
「セオドア?」
ひょい、と顔のすぐ前に手を出されて、はっと現実にたち返る。
唐突に足を止めたため、後ろの者がぶつかりそうになってたたらを踏んだ。そのまま動こうとしない彼女に、邪魔だと顔をしかめながら脇を通りすぎていく。
セオドアはあわててエイラスへ向き直った。
「なんだ?」




