第9回
何者を前にしてもひるむことのない、このみにくくただれた魎鬼の頭を統べるものは、食欲でも恐怖でもない。ひとえに『生気を得ること』のみ。
食欲……『喰う』という言葉は、魎鬼の行為に、結果的に喰われる人間側のつけた呼び名であって、彼らには『欲』と呼べるほどの邪気はない。
「クイ、タ、イ……」
まるで神の加護も届かぬ暗黒に包まれたこの世界において、何物をも照らし出すかのように強く輝きを放つ、灯。緋い焔。
それを手にした者の袂までようようの体で這い寄った魎鬼がきれぎれに口にしたのは、そんな言葉だった。
ゆらめく炎を用い、自分を招き寄せた相手がはたしてだれで、その胸に一体どんな思惑がひそんでいるかなどどうでもいい。この体にはまぎれもなく、鋼のごとき強く巨大な生気が漲っているのだから。
だが腕ずくでその身をえぐり、つかみ出そうにもあの丸太のようだった両の腕はつけ根から腐り落ちてとうになく、溶けただれて崩れた口元は残った牙をふるうだけの力ももはや残されていない。
「クイ、タイ······セイキ····」
かくんと首が垂れる。ぼと、と軽い音がして、右の眼球が落ちた。
自分の足元へ転がってきたそれを、灯の持ち主はいたずら心からころんと闇のほうへ蹴りこむ。
はたして何をどう思ってか、灯に照らされ辛うじて見えるその口元は、魍鬼が現れたときから皮肉気な嗤いにゆがんでいた。
「これがほしいか、おまえ」
もう片方の手のひらで、自分の胸もとを指す。
「…………セイ……ク、タ……」
「おまえの胸を貫き、かき集めた力を散らしたあの女退魔師の生気を、欲しくはないか?」
「オン……? タイ……?」
「そうだ」
すっ、と灯が魎鬼に向けて差し出される。その瞬間、あり得ないことが起きた。
何物であろうと恐れない、恐れる心など持ちあわせないこの化物が、その瞬間、たしかに身をわななかせてぱっと背後へ退いたのだ。
恐怖――そんなものが、この低俗なやからのちっぽけな脳に、存在したのか。
「やっと気付いたか」
この世において、ほかの何にもたとえようのないほど美しくはあるが、非情な声で、鉄をもやすやすと貫く銀刃のごとき嘲りを発する。
「そうだ、これこそおまえが真に欲するもの。
どうした、怖いのか? これを得るためにはるばる来たのだろうに……今までも喰らってきたはずだぞ?
まあ、おまえなどでも手中にできる地虫や、下賤な人間のものなどではたかが知れている。比較にもならぬか。 強すぎる光と同じで、おまえごときの命で捉えるにはまぶしすぎるだろう、焼かれても別段不思議ではない。
本来であればわが視界に存することも到底許されぬ、きざまごとき卑賎の身にはしょせんすぎた代物だ。醜悪な魎鬼ごときに恵んでやらねばならんとは、私としてもいささか、いや、かなり不満が出るが……しかたない。
そら、これをくれてやる。そしてあの女の生気も、おまえに今私と出会えたほどの強運があれば、もしかすると喰えるかもしれんぞ」
口にした直後、いくら期待を持たせるためとはいえ、よほどのことがない限りまず起こり得ないことだと胸の内で忍び笑う。
あの女豹のように敏捷で猛々しい女剣士は、この程度のやからなど足もとにも及ばない力の持ち主だ。身を包んだ碧翠色の輝きは、怒りに朱金の光までもからませて、さながら燃え盛る炎のごとくほとばしっていた。
人の身でありながら、なんと素晴らしい輝きか。あんな者を生み出すとは、神とやらもまた味な真似をする。もしいるとすれば、だが。
ほんの一瞬にしろ、まさかと息を飲むほど目を引きつけられた、その希有な力の輝きは、忘却の縁に去って久しいくすんだ記憶を刺激して、かつて相まみえた人間のことをよみがえらせた。
自分にあれほどの高揚感を感じさせた人間は、あとにも先にもいない。
感じさせられるのか? あの女に。
可能性は、ないこともない。
思い起こす、それだけで胸の食指がうずく。遠からず訪れるだろう瞬間――それは、この魎鬼よりはるかに高い確率なのは分かりきったこと――を思い描いたなら、殺戮への衝動に全身の細胞が沸き立って、ぞくぞくした。
力ある者を腕ずくでねじ伏せて完全に無力化した瞬間に初めて見せる、力及ばずの口惜しげな顔、にじんだ涙。非力な己への呪咀と、そして怨嗟の言葉を漏らす、あの瞬間。
そのただ中で勝者となる快楽を思えば、生気など、全くとるに足らないものでしかない。
その価値も理解できないたかが魎鬼ごときに、はたして何ができようものか。
見る者すべてをぞっとさせる、残虐さを極めた冷たい笑みが、その口元に浮かんでいることに気付いているのかいないのか……。
いっそ、即座にあの女剣士の目前へ転移してやろうか。さぞ驚き、目を瞠ることだろう。無粋な邪魔を仕掛ける者があれば隊ごと蒸発させてやる。
何が己の身に起きたか、それすら思い巡らせる間もおかず、すべて瞬時に焼き払ってやろうと、久方ぶりの遊戯に浮きたちはじめた胸でくつくつと笑う。
だが、身を包むようにして発光する白んだ光がふと目端に入り、現在自分のおかれている状況というものを思い出した火威は、その瞬間笑みを消すと渋い顔をして小さく舌打ちをもらした。
光は、まるでそのものが生命体であり、火威の心中を読みでもしたように、その行為を許可することはできないとの意を発している。
羽虫のはばたきのように耳障りなうなり音を上げて、急げとしきりに催促するこの波動は、目に見 えない拘束だ。許しを得なくてはなんら自由に振るまうことのできない、がんじがらめにからめとられた敗北のあかし。
たとえほんの一時とはいえ、主以外の者に膝を屈した、この屈辱を消すのは容易ではないだろう。
途端、気も冷めたとばかりに軽く髪をふるったあと、深々とため息をっく。
まったく。無駄と知りながら、こんな低劣極まりないやからになぜ、わざわざくれてやらなくてはいけないのか。
「やはり囚われたが不運、か……」
他の従者たちを出し抜き、いち速くわがきみの声を捉えてそのもとへ馳せ参じるためとはいえ、あんな浅い闇で眠るのではなかった。
どれほど強大な力を持ち、誇ろうとも、終わった時間をくつがえすことだけはできない。
今さらどうにもならないことを口にして、胸の傷を自らえぐることで自分に言いきかせると、おもむろに、手のひらの上に浮かべていた灯をにぎりつぶす。
「受けとれ」
現状を投げるようなぞんざいな口調で、火威は、自分の手の中から転送されてゆくそれを苦々しく見ていた。




