第8回
先の2匹より巨体ではあるものの、さらに醜い、全身にただれの広がった魍鬼がセオドアを両手で掲げて誇らしげにのどを鳴らしていた。これだけの生気が自分のものになるのだと、喜々として。
なぶるようじわじわしめつけてくる力に、殺されるのだと感じる。
ここで? こんな死に方を?
こふっと肺の空気が塊となってのどを突き、飛び出した。肋骨が悲鳴めいたきしみ音をたて、命の危険を訴える。
あの誓血石の主も知らず、リィアにも着けずに自分はここで終わるのか?
腕は両方ともまきこまれ、抜くことはおろか満足に動かすこともできない。
なにが伝説の退魔師となるだろう、だ。魍鬼にすら隙をつかれ、逃れられないこんな自分の、一体どこにそれだけの才があるというのか。
こめかみを圧迫する痛みに痺れはじめた耳に、嘲笑の声が聞こえた気がした。
『ほらごらんなさい、あの子はひとの期待を裏切るのが好きなんだから。 したってばかを見るのはこっちのほうよ。
あのなさけない姿はどう? あれじゃあ感応したっていうのも本当かどうか怪しいものね。案外あまりのなさけなさに同情されて、1度だけ力を借りられたんじゃないかしら。
ああ、助けられた、というべきだったわね』
それを否定するだけのものは何ひとつ持たないが、しかしだからといって魎鬼に生きながら貪られるなんて死に方はごめんだ。
自分にだって自尊心はある。せめて相打ちくらいもちこまないと。
酸欠寸前の朦朧とした意識で手首をかえして剣を振る。
痺れた手のひらからすべり落ちた切っ先が額に突き刺さり、ぎゃっと声を上げて魎鬼はセオドアを投げ出した。
急速に肺へなだれこんできた酸素にげほげほと咳き込む。涙のにじんだ目で魎鬼の動向をうかがうと、意外にも、その胸部からは鋼の刃が生えていた。
そんなばかなと凝らした目でよくよく見れば、脇から横に切り込むようにして入った刃先がそこで止まっている。
そうか、あれのおかげでと納得する側で、どう、と地響きをたてて左に倒れる。魎鬼の影から現れた者は、カディスだった。
「大丈夫? 生きてる?」
爪を受けたのか、ほおに走った傷から血を垂らせたカディスが心配げな顔をして訊いてくる。
「平気、です。あの、もう1匹――」
「向こうに逃げていくのを見たよ。胸のど真ん中に穴が空いてたのに、しぶといやつだね。
ま、あの傷じゃあどうせすぐ死ぬよ」
セオドアの質問に返事を重ねながら、立つことを促す手が伸びてくる。
手を借りて身を起こすと、レンダーがやって来た。
剣が鞘に戻っているのを見る限り、危地は脱したようだ。
「……ひどいな」
惨状を見て、ふうと息をつく。
「ほんと。これじゃあ礼金は求められそうにないや。それどころかこっぴどく怒鳴られそうな気がするなぁ、俺」
ぽりぽり、こめかみのところをかいて同意を示す。
どうやらカディスは隊の資産に打撃を与えるこの状態よりも、それによってこうむる自分の損害のほうを気にしているようだ。とがめないところを見ると、レンダーもそうかもしれない。
隊は隊、自分は自分。これにより評価を失い、雇用金額を下げられたり、最悪解雇されるかもしれないことを思うと他人の心配などしていられないというところか。
そう割り切れなければ商隊の雇われ退魔師など、とてもやっていられないだろうが。
「しかたない。天幕が襲われなかったのが不幸中の幸いだ。
報告しておくから、先に行ってくれ」
「了解」
砕けた畜車の木屑の中から縄の束を取ってカディスに渡すと、見るからに気がすすまないといった後ろ姿でレンダーは商隊の天幕へ向かって歩いて行った。
「さて。じゃあ俺たちも行こっか」
よっこらしょ、と縄を肩に担いで先に立つ。その口から当然とばかりにすべり出た言葉に、いつの間にか彼の中からセオドアは『客』であるという意識が消えていることに気付いたが、かといってそれに別段不満もなく。
先にレンダーから手渡された鞘におさめた剣を剣帯に装着すると、セオドアは彼の背に従って歩き出した。
◆◆◆
砂虫か何かが蛇行したような、えぐれた2本の跡が、砂上に長く続いていた。
その先をさらに追うと、重いものを引きずって歩く音がする。
「セイキ......」
ひび割れた弱々しい声が、暗闇に漏れた。
月もない夜の真闇は重く、どこまでも静かで、果てなきように見える。
わななく口元から吐き出される、白い息は不規則だった。真夏時の犬を思わせる浅い呼吸音の中には、時折、こぼこぼと泡が水面で弾けるような音もまじっている。
「ク、イタ、イ…………セイ……」
ずり、ずり、ずり。
ぼたぼたぼた。
一歩踏み出すたび、腹部に空いた穴から内臓物がこぼれていく。魅魍特有の黒い、闇の血だ。しかし不純物が多いのか中級魎のようにすぐさま蒸発することはなく、完全に消滅しきるにはかなりの時間がかかりそうである。
力の宿り場である心臓を破壊され、力を大幅に失い、とどめきれずくずれきった顔面は肉がそげ落ちて頬骨が露出しており、眼球もまた輝きを失って闇となった眼窩に針で突いたような光がようやく点っているだけだ。
「セイキ……」
がちがちと歯を鳴らして手を伸ばす。 幻まで見えているようだ。
おそらくあと数歩歩いたなら、腕もちぎれて落ちるだろう。
セオドアと対峙していたころの面影はとうになく、驚異的な速度で腐敗しきった左腕が歩行にあわせてぶらぶら揺れている。
骨が、肉が、腐りおちて腐敗し、糜爛する。腐汁がにじみ、甘酸っぱいにおいを放ち、目にした者であればだれもが吐気をもよおす、ただの腐肉の塊と化す。
砂漠を棲み処とする小動物たちも避けてゆくような、役立たずのゴミに成り果てるのだ。やがては。
それが、命の時間を終えた魎鬼の末路であり、大部分の下級魅魎のたどる道である。
「………………ッ、セ、ェ……」
喘ぐ。
この魎鬼もまた数万分の1の例外となり得ず、みにくく腐ってゆくと思われた、その刹那。
突如前方に小さな灯がぼうっと浮かびあがった。
来い、と灯は誘っていた。
ここまで来い。おまえの望むものは、ここにある。
魍鬼は、自分を呼ぶ声を全身で感じていた。
そうだ、このニオイは、間違いない。セイキだ。極上の、セイキが、あんなに……!
ひくひく小鼻を動かして歓喜する。
セイキが呼んでいる。くうんだ。セイキ。くう。くって。セイキ……。
カディスたちは読み間違っていた。
この魍鬼は決してあのとき、セオドアに恐怖したからでも、近付くカディスに己の不利を悟ったから逃げたわけでもない。
セオドアなど比較にならないほどはるかに巨大な、この上質の生気の存在をあのさなかに嗅ぎつけ、一心に向かっているにすぎなかった。




