第12回
「言っとくけど、百蓮が言えっていったから、来たんだからな! 訓練でけがさせて、悪いと思うなら直接言えって! ……正論だと思う! だから、来たんだ!
……俺は、許してなんかないからな、セオドア! 勝負はちゃんと、気ぃ入れてやるもんだ!
いいか、半月で帰れ! シエルドーア王都へ行く前に、今度こそだれの異論もなしにおまえに勝ってやる!!」
曲がり角で立ち止まって、振り返るなりそう叫んで。直後、セシルは脱兎のごとくまた走り出した。返事を聞く気は毛頭ないと言いたげだった。あるいは、無言の拒絶はうんざりと思ってか……そのどちらであれ、セシルとしては1秒でも早くこの場から逃げ出したいのだろう。
やがて、ぽつんとその場に残されたセオドアは、いまだ自分の耳が捉えた言葉を信じられない気持ちで呆然と、セシルの消えた廊下を見つめていた。
耳だけじゃない、頭のほうもだ。とうとうおかしくなって、聞き取り間違ったのかもしれない。
まさか、あんな言葉が聞けるなんて。
『気をつけろって、言いたいんだ!』
本当に本当だろうか?
疑うセオドアの中に、セシルの口走った言葉がよみがえる。
百蓮に言われたから来た、と言っていた。それから、だれにも文句を言われないように勝ちたいからだ、とも。
あのあと、百蓮に言われたのだろう。有頂天になるかも、と彼女は考えていた。だから、たしなめられての言葉かもしれない。
今まで剣で負け続けていたから、出立前に勝っておきたいというだけなのかも……。
けれど、それでも。
それでもセオドアは、身も心も熱くなるくらい、嬉しかったのである。
絶対、絶対リィアには迷惑をかけないようにしよう。そしてちゃんと、戻ってこよう。
そう、固く決意した彼女の背に向かい、柔らかな声がかかったのは次の瞬間のことだった。
「これはぜひとも気をつけて、無事戻ってこないとね、セオドア」
祝福するような声。
「蒼駕」
振り返り、彼を見留めたセオドアは、彼の元へ駆け寄った。
蒼駕はまるで自分のことのようににこにこと嬉しそうに笑って、近付いてくる彼女を見ている。
彼にはちゃんと分かっているのだ。セオドアの心が今、どれほど喜びに浮き立っているのかを。
「ちゃんと手配できたかい?」
くしゃり。セオドアの前髪をかき上げるように梳いて、蒼駕が尋ねる。
「はい」と答えて、準備を終えたらすぐに出ると報告をした彼女に、蒼駕はもう片方の手に持っていた長剣と剣帯を差し出した。
「蒼駕? これは」
「破魔の剣だよ。持っていきなさい」
笑顔でまたとんでもないことを言う、とセオドアは内心ひそかに冷汗をたらした。
破魔の剣とは、封師たちによって力の通る《道》を内側に開かれた、特種な剣のことである。
魔断ほどではないが、ある程度内在する力を導き、刀身に満たすことができるので、下級退魔剣士や魔断が帯刀するものだ。
だからといって退魔剣師が佩くのを許されないというわけではない。セオドアも護身具として短刀型の物を持っていて、今度も持って行くつもりではいる。
ただし、これが長剣となれば話は別だ。
長剣は殺傷能力が高いとして、候補生や訓練生には所有を禁じられている。訓練で使用する、刃をつぶした長剣すら許可なく訓練場から持出禁止で、それが発覚すると有無を言わさず反省室送りになる。
大体、これは相当値の張るものだというのが一目で分かる品だ。
深緑の鞘に銀で装飾が施され、小粒だが濃紺のサフィールが柄の両側に2つずつ嵌めこまれている。
銀細工もこまやかで、刀身もよく磨きこまれていて。
こんな素晴らしい物を自分の腰に佩くなんて。
やはり受け取ることはできないと、剣から顔を上げたセオドアの考えを読み、苦笑しつつ手を取ると蒼駕はそれを彼女の手ににぎらせた。
「いいから持っていきなさい。ちゃんと宮母さまから許可はもらってあるから、だれも責めたりはしないよ。
こういった物は使わないにこしたことはないんだけれどね、ルビアでのこともあるし、砂漠の旅では何が起こるか分からない。
情けない話、わたしが心配で、おちつけないんだ。わたしを安心させるためで悪いけれど、帯刀してくれないかな。
それに、これはわたしのだから。費用のことなんて心配は無用だよ。
もっともそのせいで癖がついてて、ちょっと扱いづらいかもしれないけど……戻ってきたら、きみにぴったりの物を造ってもらうから、今回はこれで我慢してほしいんだ」
「我慢だなんて、そんな!
……嬉しい、です。ありがとうございます」
ぎゅっと胸に抱きこんで、セオドアは幸せをかみしめた。
嬉しかった。セシルのこと、蒼駕のこと。こんなに幸せを感じたことが、はたしてあっただろうか。
どんなに喜んでも、その背後には冷たいものが存在していると、どこかで疑っていた。
すぐ、恐怖が待っているんだよ、どうせ壊れるんだから、あまり期待するんじゃないよ、そのとき傷つくのは自分なんだから――冷たく突き放し、そうささやく声が心のどこかにあった。
現実はいつも耳に心地よいものばかりじゃない。特に自分のは、もしや運命そのものが許してくれていないのではと思うほどに、喜びというものからはほど遠い、残酷なものだった。
でも今だけは。このこぼれるほどにあふれた厚意は、信じるに値するものだ。
「必ず、つきとめてきます、蒼駕。あの誓血石の持ち主がだれか。そうしたら、蒼駕――……」
それ以上、言葉にする必要はなかった。言葉として形にしなくても、蒼駕は理解してくれている。いつにないほど穏やかな光を灯した瞳で見つめ、ほほ笑んでくれて。
見つめあう、それだけで、互いを大切に思う気持ちは自然、通じあうものだ。
「けがに気をつけて、無事帰っておいで」
頬にかかっていた髪を払った指が、そのまま顎にすべる。だんだんと近付く青藍の瞳。自分への慈しみに溢れたその瞳を、彼女に拒めるはずなどなかった。
時が止まってしまえばいい。
心の底から、セオドアはそう願った。もしくは今、自分の心臓は動きを止めてしまえ、と。
蒼駕の唇が額に触れた……その瞬間を思い出すだけで、胸が早鐘のように鳴る。
このときセオドアは、あるいは死んでしまったほうが良かったのかもしれない。触れて、離れた蒼駕の眼差しの奥深くにあった光の意味をつかみきれなかった時点で、彼女は、最後の糸を自ら断ってしまったのだから。
無知は、すべての場合において免罪符たることはない。ましてや目の前にありながら悟れない鈍さなど、手の届く域を抜けた時点でもはや愚かさの類いに属する。
「そうしたら、蒼駕。
わたしは、ずっと、あなたと一緒にいていいんですよね」
紡がれなかった約束。
伝えられなかった言葉。
それをセオドアが口にする日は、永遠に来なかったのである。




