第22回
直後、自分の口にしたことに気付いて硬直する。そっと肩越しに周囲を見渡したが、西に続いて東南でも火の手が上がったことに大多数の人々は騒然となっていて、ガザンのほうへ目を配っている者は少数しかいないようだった。
その者たちも、柵門にもたれた男の言葉に衝撃を受けていて、ガザンを気にしている様子はない。
ひとまず胸をなで下ろし、ガザンは顔に笑みを貼りつかせて振り返った。
「いや、うちの者がとんだことを口走って。申し訳ありません。この事態に、すっかり取り乱しておるようです」
「しかし、今、たしか、魎鬼、と……」
恐々と、一番近くにいた男が尋ねる。
ガザンは内心で舌打ちをしつつも表には一切出さず、はははと声を出して軽く笑った。
「私も聞きました。ですが、けがを負っていることから、ここへ来るまでに例の魎鬼どもと遭遇してしまったのかもしれません。
だれか、治療薬を持ってくるか、薬師を呼んできてもらえませぬか。治療をして落ち着けば、この男も正しいことを話してくれるでしょう」
「わ、分かった」
と2人が館のほうに走っていく。
ガザンは門番のムラトに柵門を開けてもらうように頼み、痛みと疲労のため、柵にもたれて荒い息をしている男に肩を貸して、中へ運び入れた。
ほかの者たちが用意してくれている場所へ連れて行く間、男にだけ聞こえる小声で「何があった」と訊く。
「それが……俺もよくは……。俺は、外の窓の下で見張りをしていたので……」
痛みに汗まみれの顔をゆがめながら、男がぽつりぽつり語ったのは、こういうことだった。
男はシェスタが部屋から逃げないよう、ベランダの下で見張りをしていた。退屈な役目だった。最初のうちは時々窓を開けたり、ベランダに出てきて夕涼みをしたりと、自分たちの目を楽しませてくれていたのに、最近は全く姿を見せなくなってしまった。きっと、彼らが冷やかしすぎたせいだろう。
そろそろ交代かと思って立ち上がったところで、館内の騒動に気付いた。やけにドタバタと騒々しく走り回る音がしているなと思ったら、ガチャンガチャンと陶器製の壺か何かが壊れる音や、壁から絵画が落ちる音などが聞こえてきた。使用人の女たちの悲鳴も混じっている。
最初に考えたのは侵入者だった。この様子だと1人ではない。複数人が、きっとシェスタ救出のため、館に襲撃をかけてきたのだと。
仲間の援護に入ろうと、壁にたてかけていた剣を手に表へ回ろうとしたところで、聞いたことのないうなり声が聞こえてきた。
西のほうで魎鬼が出たという話は聞いていた。ただし、それはただのうわさだと、前もって仮面の者から聞かされていた。
これまでのように「魎鬼が出た」といううわさを流すだけだ、相手にしなくていい、無視していいと。
だから、柵越しに血相を変えて町長の館へ走る者たちの姿を見ても「あーあ。ただのうわさなのに、すっかり踊られて」と冷笑していた。
だがこれは違う。こんなこと、聞いていない。
空気をビリビリと震わせる、大型の獣のような咆哮がいくつも響いてきて、駆け出そうとした足が止まった。
手をついた壁が振動で震えている。何かが壁を殴っている。どすん、とぶつかったあと、悲鳴が聞こえた。仲間の声だった。その悲鳴は驚きと絶望に色濃く染まっていた。すると、さっきまで聞き取れていなかった言葉の断片が分かるようになる。「やめろ」「来るな」「あっちへ行け」「だれか助けてくれ」。
物の破壊される音。悲鳴。悲鳴。悲鳴。
男はごくりと生唾を飲み、震える手で、手近にあった窓を開けて中へ入った。
わあわあと悲鳴を上げながら玄関へ殺到する使用人たちを避けて、彼らと逆方向へ進む。物が壊れる音と悲鳴は、居室とは反対側の、地下室のある西の棟が一番激しかった。
逃げろ、今すぐこの場を離れろ、と本能は告げていたが、何が起きているか知らないまま、ただ背を向けて逃げることはできないと考えていた。それはプロのすることじゃない。
手には武器がある。身につけた技にも自信はある。これでもそれなりに修羅場をくぐり抜けてきた。すぐにやられるなんてことはないだろう。とにかく様子を見て、どうにかなりそうなら仲間を助ける。だめなら即座に逃げればいい。
ぶつぶつと口内で繰り返し、慎重に歩を進めた。
だが、まさかあんなものを見るなんて。
地下へと続くロビーでは、見たことのない化け物たちが暴れていた。
ただれた表皮と腐った肉に覆われた、人の形をした化け物。手足が長く、巨体で、上背は男の倍はありそうだった。
ナイフのような歯の間から血に染まった唾液をだらだらと垂れ流し、1本1本が剣ほどもありそうなかぎ爪を振り回して人を襲っている。逃げる背中に爪を立て、なで切りし、捕まえてかじりついている。
生ごみの山に顔を埋めたような悪臭と、あたたかな血のにおいと。そして耳をつんざく悲鳴。
男は自分の目にしている光景を受け入れられなかった。まるで地獄絵図だ。
『魎鬼が出た!』
柵前を走っていった男の声が唐突によみがえった。
これが魎鬼か、と思った。
幸いにもこれまで遭遇したことはなかった。今も、目にしているのが信じられない化け物たちだ。
こんなやつらが本当に現実にいるのかと。
むしろ、自分は悪夢に迷い込んでしまったのだと信じるほうが簡単だと思えるほどに受け入れがたい。
めまいがして、壁に肩をぶつける。
そのわずかな音を聞き取ったか。1匹が振り返り、男を見た。
そこにはウジ虫がこぼれ落ちる眼窩しかなかったが、目があったと思った。その瞬間、男は身を翻していた。自分が剣をにぎっていることなど頭から消えていた。今まさに襲われているのが仲間だというのも男の足を止める理由にはならなかった。
化け物たちは、壊れた地下のドアから出てきていた。ロビーにいたのは3匹だが、階段を上がってくる音がしていた。絶対に、まだ何匹かいる。
気付いたときには外を走っていた。
いつの間に肩にけがを負ったか分からない。肩がちぎれたように痛くて、それで正気に返った。
手ににぎっていたはずの剣も、いつの間にかなくなっていた。
ここがどこか分からず、あの化け物があとを追ってきていないか、その辺から飛び出してきたりしないかと、きょろきょろと周りを見渡しながら歩いていると、前方に明かりが見えてきて……「魎鬼が出たぞ! 町長の館に逃げろ」という言葉が頭にあって、それで無意識にこちらへ向かっていたのだと思った。
そうして、人の大勢いる気配に、助かった気持ちでここまで走ってきて、ガザンを見つけたというわけだった。
「……シェ――彼女はどうした」
「……分かりません……生きているのか、それとも食われたのか……」
「やつは?」
「さあ……知りません……」
疲れ切った様子で首を振る男の返答に、ガザンは小さくうなった。
最悪だった。
考え得る限り、最悪の出来事が起きていた。
あの館の地下に魎鬼がいたことを、ガザンは知らなかった。もし知っていたら、絶対に認めなかった。
一体いつの間に運び込まれていたのか……。
(あの、女……! 勝手ばかりしおって! 今この場にいたら、この手でくびり殺してやったのに!)
ぎりぎりと拳を固める。爪が指に食い込んでもその痛みに気付かないほど、ガザンは激怒していた。
今こそガザンは気付いた。
あれは、ただこちらの手助けをしに現れたわけではない、ということには気付いていた。だが一心同体だと思っていた。事が露見すれば、こちらの破滅は向こうにとっても破滅だと。だからばかなまねはするまい、と。
しかし本当にそうか?
破滅するのは、ガザンだけではないのか?
あの仮面の下にある顔がどんなものか、はたしてだれなのか。その正体を知る者はおらず、会ったことがある者もほんの数名だ。彼女はほとんどの場合、地下にいたし、いつも仮面をつけていたため声はくぐもっていた。
ひそかに館に魎鬼を運び込み、町に魎鬼を放った。そしてなんらかのミスが起きて、館の地下に隠しておいたほかの魎鬼が脱走して騒ぎになり、犯罪が露見した。
この町はサリエルの結界で護られている。そこへ運び込むには邪法師の存在なくしてはできないことだ、というのは分かってもらえるだろう。だがその正体を知らず、この騒ぎにまぎれて逃亡されては、見つけだすことは不可能だ。
何も知らない、ハメられたのだといくら言ったところで、館の地下から魎鬼が出てきた以上、信じてもらえないに違いない。
事件を起こした者がガザンだと知れ渡れば、ガザンの言うことを信じる者はいなくなる。
今のうちに逃げるべきか、ガザンは迷った。
おそらくそれが正しい。ここにいては身の破滅だ。
だがどうにも思い切れずにいた。
人死にが出ている。この騒ぎで、必ずあの男は責任を追及される。そして王の覚えめでたくないあの男は、今度こそ町から追放されるだろう。
この町を手に入れられる絶好の機会を前に、逃げるのか?
人目につかない隅へ移動して考える。
怒りは、今はさておき、どうすればこれが彼の仕業だと発覚しないですむだろう?
全てをなすりつけられる者が要る。
それにふさわしいのは……ダーンか?
(ふむ。
あれならうってつけかもしれんな)
シェスタの恋人だったダーンが、彼女の裏切りを知って怒りと絶望から事を起こした、というのは一考に値する。
だれも知らない秘密の恋人、彼女に都合よく隠されていた恋人、という立場も強い動機へつながる。剣士なら法師とつながりがあってもおかしくないし、魎鬼を生きたまま捕らえることもできるだろう。そうして捕まえた魎鬼を、ガザンの息子という立場を悪用して、館の者たちを使って運び込んだ。
こんなところか。
ガザンは何も知らなかった。監督不行き届き、自分の息子がしたことと責められるかもしれないが、極刑は免れる。こういったときのためにこれまで王都の有力者に金をにぎらせてきているのだから、役に立ってもらわねば。
館の者たちはどうにでもなる。みんな、後ろ暗い、すねに傷を持つ者たちだ。今回のように、はした金で口をつぐむだろう。でなくとも、今ごろほとんどの者が死んでいるに違いない。
とすれば、問題はシェスタだけ。
こうなったらシェスタには死んでもらうしかない。こっそり別の町へ移して囲い者にすることを考えていたが、今の状況ではリスクがあり過ぎる。
魎鬼に食い殺されてくれていればいいが、もし逃げていたらまずい。一刻も早く捕まえて、魎鬼の仕業に見えるよう殺しておかなくては。
控えていた男たちに手で合図を送り、始末を命じようとしたときだ。
またもや爆発音がして、地面が揺れた。
外門のある北西の方角だった。
「今度は何だ!!」
思わずガザンは頭を抱えてうなる。
彼は、このとき逃げていればよかったのだ。
サリエルが町民たちと一緒にいて大っぴらに動けない今、へたに欲を出さず身一つで逃げの一手を打っていれば、あるいは逃げおおせたかもしれなかったのに。
そうしてガザンは唯一の機を失い、このとき、彼の破滅を決定づける者たちが、ついに到着したのだった。




