第13回
サリエルは一瞬驚きに目を瞠ったあと、表情を読まれることを懸念してか、表情を消し、用心深くエセルを見返した。
後ろ手にドアを閉める。
「なぜ」
その質問にエセルは肩を竦めて見せた。
「そうだな。今朝、おまえは何も持っていなかったことに気付いたから、かな」
朝の時点で、サリエルはセオドアの剣を持っていなかった。
これは当然だ。もし持っていれば、そもそも下の部屋にいた2人に声をかけていなかったろう。
サリエルも退魔師で、帯剣する権利を有しているとはいえ、長剣を帯剣している姿を見たことは1度もなかった。
退魔師の基礎的な訓練として養成期間の間にひととおり剣操術を習ってはいても、魅魎と直接対決する剣士や剣師と違い、日々結界を張ることが仕事の法師はそういった武器を必要としないことから剣操術の訓練を続ける者はほとんどいない。
サリエルもその1人だ。
だから彼女が長剣を持ち歩けば人目につきすぎてしまう。
今朝、彼女が短剣を見せた折、そのほかに彼女が提げていたのは、こまごまとした物を持ち歩くための小さなポーチくらいだった。
「剣はともかく、これをあのとき持ち出そうとしたら俺たちに気付かれる可能性が高い。もしもを考えて、おまえはそれをしなかった。
実際、それで正解だったな。あのときおまえが持っていたら、俺は絶対気付いていた」
そして問いただされて、サリエルは窮地に陥っていたはずだ。
賢明にも彼女はそれをせず、長剣にも手を出さなかった。この館に内通者がいない限り、セオドアの部屋から長剣を持ち出したのは魅魎だ。
「魅魎は、ああいうのを嫌うだろ。あいつらには必要ないし。
だからきっと手つかずでこの部屋にあると思ったんだ。そしてそれをおまえが取りにくるとね」
「まあ、そうなの。相変わらず鋭いのね。
でも、どうして私があんな物を必要とすると思ったのかしら。私には使えないし、用のない物よ」
そう、エセルは鋭い。きっと視線を向けただけで気付かれてしまう、とサリエルは視界の隅に見える、寝台の足元に置かれたそれを意識しつつ、さりげなくじりじりと近づく。
まだ窓前に立っているエセルより自分のほうが近い。きっとできる。
「そうだな……。俺たちが明確に敵となって、これを手に入れたら厄介だと考えたんじゃないか? 俺ならまず考えるね。もし俺たちがセオドアを奪還しても、これがなければどうすることもできない、とね。
万難を排するために、おまえはこれを捨てるか、砕くかするつもりでここへ来た」
エセルが話している隙をついて、サリエルは飛びつくように動いた。
目的の物――セオドアの荷袋へ手を伸ばす。
だがエセルのほうが一瞬早かった。部屋に入ってからのサリエルから意識を逸らさず、彼女がエセルの気を逸らそうとした何気ない仕草、その一挙手一投足まで目を配り、突然の動きに素早く対処したエセルは、彼女の指先が荷袋へ触れた瞬間に手首をつかみ、もう片方の手で荷袋を取って彼女から引き離した。
一手先んじた。サリエルの思惑をつぶしたと思った、次の瞬間。
サリエルは思わぬ行動に出た。
エセルに体を押しつけるようにしがみつき、うなじに回した手で彼の頭を引き寄せ、強引にキスをしたのだ。
長くぴたりと重ねられていた唇が離れる刹那。
満足げなあたたかな吐息とともに、サリエルはささやいた。
「条件を飲むなら、彼女を返してあげるわ。あいつらもあなたたちに引き渡すから好きにすればいい。すべてをみんなに話して、彼女の名誉も回復させる」
「……条件?」
少し身を離し、鼻先が触れそうな距離で見つめ合う。
紅の炎のような深みのある、何物にもたとえようのない、魅了の力にあふれた力強いエセルの瞳を、こうしてのぞきこむのがサリエルは好きだった。
その瞳に自分だけが映っているのを感じることが。
「あなたが私と一緒に行くこと」
「サリエル、それは――」
「ねえ、思いだしてみて? 私たち、出会ってからずっと、楽しい時間を過ごしてきたと思わない?
私とあなた、すごく相性がいいのよ。私はあなたにうるさくなかったし、あなたは自由でいられたでしょう? あなたが仕事に精を出している間も、私は私で楽しく好きにやっていたし。一緒にいたときは、いつも楽しかった。そうでしょう?」
「……ああ、そうだな。楽しかった」
エセルの認める言葉に、サリエルは彼が今、2人で過ごしたときのことを思いだしているのだと確信した。
「私はあなたのすることに、彼女のようにいちいち文句を言ったりしないわ。ああしろこうしろなんて、うるさくしない。あなたを縛りつけようなんて思ってない。
あなたはあなたのままでいて、ただ、私の元へ戻ってきてくれさえすればいいの」
そしてこれまでみたいに、一緒に楽しみましょう。
エセルのうなじに手を回したまま、サリエルは後ろの寝台へ誘導しようとする。
シーツの上に腰を下ろした彼女に引き寄せられる形でエセルも前へ進む。右手につかんでいた荷袋を足元に落とし、自由になったその手をサリエルの胸元へ伸ばす。
そして彼女を軽く突き飛ばした。
サリエルは驚き、楽しそうにきゃあと声を上げ、寝台に倒れ込んだ。たわむれだと思ったのだ。きっとこのあと、彼は自分の上に覆いかぶさって、彼女の服を剥ぎ取りにかかると。
かつてそうしたときのように。
だがそうはならなかった。
「ああ、おまえの言うとおりだ。あいつは何かと口うるさいし、俺の言うことすることいちいち正そうとしてくる。
おまえは逆だったな。俺のすることに不平ひとつ口にしたことがなかったし、数カ月訪ねてこなくても、平然と俺を受け入れた。
俺は自由が好きで、いつも好きなことをしてきた。言いたいことがあれば言うし、そのことを後悔したこともなかった」
ひとのすることすべてに文句をつけてくるやつはうっとうしいし、きらいだ。
だけど。
「初めてなんだよ、そうされて楽しいと思うのは。だってあいつがそうするのは、本気でそれが俺のためだと考えてるからなんだから」
「そんなの、ただの気の迷いよ! 楽しいと思うのは今だけ! あなたはすぐに彼女が押しつけてくる不自由さに我慢できなくなるに決まってる!
それに、そうしてほしいなら、私だってできることよ! あなたがそうしてほしいとき、私がしてあげる! だから――」
「俺が、自由を失うことになってもそばにいたいと思うのは、セオドアだけだ」
おまえじゃない。
衝撃に、言葉を失って動けずにいるサリエルの前、エセルは再び荷袋をつかむと窓へ向かう。
そして振り返りもせずに、彼女を置き去りにしたのだった。
自尊心も、何もかもなげうって、すべてを賭け、すべてをさらし、そして完膚なきまでに粉々に打ち砕かれた。
開いたままの窓の向こう、エセルの消えた闇を見つめながら、サリエルは一言も発することなく。ただ、静かに涙を流していた。




