第7回
●悪 夢
セオドアは、気付くと闇の中にいた。
呼吸をするのも意識しないといけないほどの見えない圧を周囲から感じる。
重苦しい。
どこを向いても暗い闇しかなく、一片の光もないせいで、俯いても自分の手はおろか体も見えない。
「サリエル……エセル……」
闇を警戒しながら名を呼ぶが、どこからも返答はない。というよりも、どこにも人のいる気配がない。
少なくとも、自分が感じられる範囲にはいない。
完全な闇に独り。
もしかして本当は闇なのではなく、自分の目のほうがおかしくなってしまっているのではないだろうか、と危ぶんだころ。
「ルスト」
頭上から奇妙な声が降ってきた。
それをはたして『声』といっていいものか……。
頭で考えたものでなく、口を通してでもなく。まるで自分の内側を通過して発せられたものが外部の何かを通じて耳に届いている、そんな途方もない、めまいを伴う感覚がして、セオドアは目を閉じてこめかみに指をあてる。
「ルスト、もうよくはないか」
「……それは、わたしに言っているのか?」
人のいる気配は変わらずない。振り仰いでも真っ黒な虚空が広がっているだけだ。
「今度こそ嫌気がさしただろう、ルストよ」
「わたしはルストではない。セオドアだ。あなたはひと間違いをしている。そしてあなたはだれだ?」
セオドアの返答に、『声』の主は考えるように少し間を開け、そしてやはり先ほどからと変わらない調子で再び言葉を発した。
「ルスト。ササン、ファイフア、アルシーザ、タガー、ルーイェン、ジンユウ、そしてセオドアか。
よく変わる。そんなものはどうでもいい。その肉体に付いただけのものでしかない。
おまえの魂はルストだ。何百年、何千年経ようとも」
「何を言っている! さっぱり分からない! もっと分かるように話せ!」
『声』は再び押し黙る。
「いいや、おまえは分かっている。我との約定は魂に刻まれ、焼きついている。こうして我の声が聞こえているのがその証拠。目をそらし、忘れたふりをしようとも、それは決して消えてなくなりはしない。
我が知りたいのは1つ。今か、それともまだか、だ。
待つことは苦ではないが、そろそろ飽いてきた。時間もない。おそらく、おまえで最後だろう。
そのおまえが約定を破棄し、務めを放棄するというのであれば、それもいい。共にその報いを得るだけだ。
さあ、答えよ。今か、まだか?」
『声』は変わらず高処にある。だが気配は、顔のすぐ前に生まれた。
獣なら鼻息がかかるほどの近くから、薄い朱色の双眸がじっと彼女を見つめているような気がする。
「……っ、まだだ!」
とっさにセオドアは叫んでいた。
相手が何を言っているのか、選択したなら何が起きるか見当もつかず、それだけに『今』を選択するのは悪手に思えて、猶予のある『まだ』を選んだわけだが、この選択がはたして正しいのかどうかも分からない。
朱色の双眸は、セオドアの返答に、変わらず無のままに闇の中からじっと見つめている気がする。
この返答が正しかったのか、それとも間違っていたのか。判断のつきようのない無反応に固唾を呑んでいると、長い沈黙の果てに「そうか」とつぶやき。朱色の双眸は少しずつ遠のいて、闇の中へ消えていった。
◆◆◆
セオドアは再び闇の中で独りとなったのだが、今度の闇は先までと違っていた。
何の重圧も感じられない、ただ暗いだけの闇だ。
そのことにほっとして、詰めていた息を吐き出すと、どこからかかすかに人の言い争う声が聞こえてきた。
何を言っているかまでは分からない。ただ、片方がとげとげしく声を荒げて一方的にまくしたて、もう片方がその合間に一言二言言葉を挟んでいるといった様子だ。
一体何をそんなに声高に言わなくてはいけないのか。
気になってそちらへ意識を集中すると、声量が一気に大きくなった。
「息子名義とはいえ、ここはわしの館だ! 好きに使えとは言ったが、きさまにやったわけではない! あんな者を連れ込みおって! ここにいると知れたら、それこそいらぬ疑いをかけられるではないか!」
荒げているほうの声が、重い頭をさらにズキズキと痛ませ、耳障りで、セオドアは思わず眉をしかめる。
とにかくうるさくて、こっちの頭が痛くなるからもうやめてほしい、と今度は声から意識を遠ざけた。
そうして思考しているうちに少しずつ集中力が戻ってきて、意識が浮上するような感覚を感じながら目を開く。
ぼんやりとしていたが、そうして見つめているうちに徐々に焦点が合ってきて、格子状になった薄汚れた灰色のゴムのような物が見えてきたとき。自分は俯いて、床を見つめているのだと気付いた。
目がどうにかなっていたわけではないことが分かって、ほっとする。
だがそうして見えるようになった目で周囲を見渡してみると、自分のおかれた状況が、全くほっとできるものでないことが分かった。
薄暗い室内に、腕を鎖でつながれていた。あまり大きくない部屋だ。よどんだ空気は湿気を含み、じめじめとしている。手首に触れる拘束具自体は革製だが、外側は鉄で、その先にも太い鉄の鎖が付いており、壁にねじ込まれたビスへとつながっていた。少し引っ張ってみたが、びくともしない。
そして室内に窓はなかった。天井に鉄格子のついた四角い穴がある。あれが空気穴として、床についた足や尻に冷気を感じることといい、ここは地下なのかもしれない、との見当をつけた。
拘束されてはいるが、殺されていないし、手足も動き、頭も働く。吊られた腕に鈍い疲労感はあるが、それ以外、特に痛みを感じるところもない。魅魎の前で気を失ったことを思えば、まあまあといったところか。
最後に見た光景――警吏署内の一室でサリエルと話していたところに魅魎が現れたことを思いだしていると。
「とにかく! わしが向こうの館へ戻っている間に、その人殺しをここからさっさと放り出すか始末しろ!
もしわしが帰ってきたときまだあいつがいたら、わしの手の者たちが片付けるぞ! いいな!」
さっきのうるさい声の主が、さらに声を荒げてそう叫ぶやいなやドアをたたきつけるようにばたんと閉じて部屋から出ていった。
その態度に彼と話していた者は、ふんと不満げに鼻を鳴らして「無能の豚が」といまいましげにつぶやいたあと、彼女のほうを振り返る。
「目が覚めたか。まあ、あれだけうるさくしていれば、竜でも目覚めるだろうよ」
その人物は白い仮面を付けていた。仮面の奥から発せられる声はくぐもっていて、男とも女とも分からない。
ぶかぶかの服の上から着た長上着も、体形を隠しているが、細身であるのは間違いない。身長はセオドアの鼻先ほどか。
まばたきもせず、仮面の者をじっと見つめていたセオドアは、やがて「サリエル?」と呼んだ。
確証があったわけではない。背格好と雰囲気から、なんとなく、そんな印象を受けたのだ。
その問いかけに仮面の者は苦笑の声を漏らし、仮面をはずした。
「あなたにはきっと気付かれると思っていたわ。退魔師は気を読むのが得意だから」
「ここはどこです? それに、さっきの人は……」
「ここはまだリィアよ、あなたが気にしているのがそういうことなら。リィアにある、ガザンの息子ダーンの館。
とはいっても、彼が王都へ行っている間に建てられた物だから、長年空き家状態だったのだけど。それを、今回私が使わせてもらっているというわけ」
ということは、さっきの人物はガザンということか。
もっとも、ここがどこか、室内ばかり注視していて会話のほうはほとんど気にしていなかったから、姿はおぼろげ、声しか覚えていなかったが。
「サリエル、なぜです。退魔師のあなたが、どうしてこんなことを」




