第5回
魅魎出没は、レンダーも感じ取っていた。
エセルに一歩遅れをとったものの、すぐにレンダーも警吏署の石段を上ろうとする。
石段に足をかけたところでダーンを振り返った。
ダーンは王都から帰郷したばかり。正式な下級退魔剣士でない彼が実戦を経験しているとは考えにくい。しかも町の中へ突然現れるなど下級にできることではない。まず間違いなく中級魅魎だ。ダーンには荷が勝ちすぎる。
「おまえは来なくてもいい」
ダーンは初めて感じた感覚に、まだ少しとまどっているような表情を浮かべていた。背筋を這い上がった怖気にまごつき、強ばっている。
だがすぐに腹を決めたように、無意識に剣柄にあてていた手に力を込めた。
「……いいえ。ここは、わたしの町ですから」
目にはまだ払拭しきれない萎縮があった。しかしその表情には覚悟がある。
レンダーはついて来いというように視線で合図を送り、石段を上がって署内へ入った。
署内のあちこちで人が倒れていた。
もともと小さな署で常駐している者は10人に満たないが、その全員が机上に突っ伏していたり、部屋の入り口や廊下で倒れている。
外傷らしいものは見あたらず、血は流れていない。だが魅魎は、触れるだけでその体内から生気を抜くことができる。
息があるのか、それともすでに死んでいるのか。確かめるには触れて脈を取るか起こすしかないが、エセルはそんなことに興味はなかった。
今、彼の頭中はセオドアの安否だけで占められて、そのほかのすべてがどうでもいいこととして意識から消えている。階段で倒れている者も、上がるのに邪魔な障害物でしかない。
セオドアがどこにいるかは、彼女と感応した魔断として気配をたどれる。
「セオドア……何があった」
魅魎の気配を感じてから、胸の動悸がおさまらないでいた。
チリチリと肌を焼くような不安感。
体は熱いのに芯は凍えそうに冷えていて、背筋をいやな汗が伝っていくのを感じる。
それは、セオドアのいる場所と魅魎の気配のある場所が、同じだからだ。
「セオド――うっ」
この部屋だとドアの取っ手に手をかけ、引き開けた直後。
室内から噴き出した猛火がエセルを包んだ。
受けたのがただの人であるなら一瞬で火だるまになり、全身が焼ける苦痛に廊下を転がることになっただろう。
しかし彼は炎に親和性のある火炎系魔断だ。この程度の炎を操るなど造作もない。
炎を寄せつけず、視界を塞ぐ火を邪魔と、手のひと振りで払いのける。
開けた視界には、サリエルと、赤銅色の肌をした中級魅魎に抱き上げられたセオドアの姿があった。
セオドアは見るからに意識を失っており、弛緩した手足はだらりとして、魅魎の腕に身を預けている。
「セオドア!」
エセルにはセオドアしか見えていない。
彼女の元へ向かおうと踏み出した靴先で炎が噴き上がって、彼の動きを阻んだ。
「エセル、あなたの言ったとおりだったわ。この子、本当に頑固で、少しも私の言うことをきいてくれなくて。すっかり時間をとられてしまったわ。
本当なら、あなたが到着する前に消えているつもりだったのに」
だから、ほら。こうしなくてはいけなくなったわ。
そう言うように肩を竦めて、となりの魅魎――火威へ視線で合図をする。
火威は感情の消えた無表情のまま、炎を生み出した。炎はまたたく間に広がって数少ない家具――机、椅子、ドア、小さな窓を覆ったカーテンといった物を飲み込んでいく。火勢は衰えず、まるで炎自身に意志があるかのように不自然な動きで石の床や壁を焦がしながら天井へと這い上がり、室内を覆った。
空気はあっという間に熱せられて、閉じた室内は高温となる。
何が起きようとも炎で死ぬことはあり得ない魔断と魅魎はともかく、人であるサリエルがこの場に平然としていられるのは、彼女が結界を得意とする法師であることもあるが、やはり火威がそばにいるためだろう。
「サリエル。俺は言ったはずだ。俺はおまえの邪魔をしない、彼女にもさせないと。
傷ついた自尊心を癒やしたいならそうしろ。法師としての評価と尊敬を取り戻したいのならすればいい。そのためにこの町を混乱させようが、蹂躙しようが、俺は止めない。
だがそこにセオドアを巻き込むな」
「まあ都合のいいこと。
忘れたの? 彼女を呼んだのは、あなたなのよ」
「ああ。おまえは呼んでほしくなかったようだったな。口ではどう言おうと、俺を見る目が、呼ぶなと言っていた」
「でもあなたは無視した。
あなたが――……」
そこから先を、サリエルは言葉にすることができなかった。
自尊心が、のどをふさいだ。
エセルは気付いていた。彼女の真意に。
そのことにサリエルも気付いていた。
知っていた。
だからこそ、言葉にできないのだ。
それは、敗北を認めることにほかならない。
ぐっと手をにぎり締め、顔を上げ。火威に合図する。
火威は2人に何の興味も持てないという様子でいて、サリエルの指示にも不愉快そうに顔をしかめたものの、彼女に従い間隙を開く。
「サリエル! 彼女を返すんだ!!」
「だめよ。彼女にはまだしてもらわなくちゃいけないことがあるの」
エセルに背を向け、見えない影で、サリエルは下唇をかむ。
「さよなら、エセル」
そして間隙をくぐった。
「魅魎!」エセルは残った火威に向かって叫ぶ。「セオドアを放せ! おまえが人であるサリエルの言いなりになりたくないのは分かっている!」
中級魅魎は自尊心が高く、人間は彼らにとってエサでしかない。そんな者たちが人間の手先となって、言いなりに動くことを良しとするはずがない。
「おまえが彼女にどんな弱みを握られているかは分からないが、俺と組め! 俺がおまえを自由にしてやる!」
エセルの言葉に、火威はまさかそんなことを提案されるとはと驚いたように動きを止めた。
間隙に片足を突っ込んだまま、エセルを肩越しに振り返ってきたその面は、興味深そうな表情をしている。
一考している、応じる可能性があると思ったときだ。その顔は、皮肉げな笑みへと変わった。
「魔断のおまえが私に共闘を申し出るか。たしかに人よりは可能性がある。が、わがきみ御手ずから埋め込まれた緋珠を賭けるほどではないな。
それにこの女退魔師、なかなかの気をしている。ひとにやるのはいささかもったいない、極上の獲物だ」
「!! きさま!!」
激怒したエセルの周囲で、炎が瞬時に活性化する。
だが相手もまた炎の魅魎。それを見て気圧されるわけもなく、むしろ面白そうにクククとのどで笑った。
「追ってこい、魔断。そうすれば、抜け殻くらいは取り戻せるかもしれんぞ」
腕の中のセオドアを見せつけるようにして。
火威もまた、間隙へと姿を消したのだった。




