第20回
●惨劇の始まり
一面、炎が燃え盛っていた。
店が燃えている、その光景にレマは入り口で立ち尽くす。
なぜこんなことになっているのか、彼女にはまるで見当もつかなかった。
ほうきを取ってくるため、ほんの少し、店から離れただけだったのに。
朝の開店準備が忙しくなってしまったのは、継娘のシーリンと言い合いをしたためだ。
年を追うごとに反発を強くする継娘に、レマはほとほと手を焼いていた。彼女が何をしてもケチをつけてくる。口の中に毒蛇でも飼っているんじゃないかと疑うくらい、何かにつけて不満を持ち、文句をつける場所を見つけてかみついてくるのだ。
今日もそうだった。年ごろだというのに一向に嫁ごうとする気配を見せず、流れ者の詐欺師が気まぐれに与えた首飾りを後生大事につけては「彼がきっと迎えに来てくれる」とかいう阿呆なたわごとばかり口にして、ハーネ(カフェ)へ行って相手を捜そうともしない彼女に業を煮やし、せっかくいい相手を見つけてきてやったというのに感謝もせず、わめき散らして家を飛び出していった。
おかげで、開店準備をレマ1人でやるはめになってしまった。
「まったく。だれのおかげで毎日ああやって腹いっぱい食べて、いい服着て、のらくら過ごせてると思ってるんだい。全部あたしが稼いで、食わしてやってるからじゃないか。この家も店も、借金だらけだと知ってるくせに。
あたしがいなきゃ無一文で放り出されて、身を売りながら路上で寝る生活をするとこだったんだよ。なのに、感謝のひとつも見せやしない。いつまでたっても恩知らずの小娘が」
腹立たしい。
その気になれば、子どものころから彼女に目をつけていたという年寄りにくれてやることもできた。過労死した嫁の代わりが必要だと、息子の嫁を捜している女と話をつけることも。あの女なら、若いシーリンはいい働き手になると喜んで、きっとたくさん結納金を弾んでくれただろう。
それをせず、シーリンのことが好きで大切にすると言った若者を選んでやったというのに。一体何が不満なのか。
「そりゃ、たしかに見た目は良くないかもしれないが、甲斐性はあの流れ者よりずっとずっと上等だよ。結納金を出し惜しみしなかったし、たっぷり感謝もしてくれて、太客を回すとか、うちの援助もすると言った。いい男じゃないか」
男は見た目じゃない、甲斐性だ。
最初の結婚、そして2度目の今回でつくづくそれを思い知ったレマは、今ではそう固く信じていた。
見た目がいくら良くたって、腹は膨れない。そんなのより、何不自由なく大切にされるほうがずっといい。
だから申し分のない嫁ぎ先を見つけて、何もかも彼女が差配してやったというのにそのことに感謝もせず、あの詐欺師を追って家出しようとしていたことを知って、頭に血が上った。
頭の中におがくずでも詰まってるんじゃないかと思えるほど、道理というものを理解していないばかな娘のため、細かく説明してやったというのにろくに聞きもせず、話の途中で飛び出していったシーリンのせいで気分が荒れて、イライラとして、しばらく何も手につかなかった。
だが時間は刻々と過ぎていく。早くしなくては開店時間に間に合わないと思い、準備を進めようとしたのだが、頭の中をぐるぐると回るシーリンとのやりとりにまたもや胸がむかむかし始め、さらには言い逃げされたことにもやもやが晴れず、うまく気分を切り替えられなくて。
とにかくいら立ちを鎮めようとカフヴェ(コーヒー)を入れようとしたのだが。
「ああもうっ!」
ちゃんとつかんでいたはずなのに、つるりと滑って瓶を床に落としてしまった。
分厚い瓶が割れなかったのはよかったが、転がった瓶の口から飛び散ったカフヴェの粉に、思わず床を踏みつける。
1つだめならすべてだめ。これまたうまくいかないことに腹を立て、もういっそ踏み散らかしてやりたかったが、片付けるのも自分だと考えるとそれもできず。チッと舌打ちが出る。
とにもかくにもお湯の入ったガラーヤ(やかん)をテーブルに下ろし、奥の部屋へほうきを取りに行って、戻ってきたとき。
レマは目の前に広がった惨状に声もなく、ただ目を瞠った。
店が燃えていた。
布地を扱う店なので、火が出るような物は置いていなかった。何かの拍子に火が付いて、それが燃え広がるなどあり得ない。まさかと思った熱いガラーヤも、置いた場所に鎮座している。開店前なので、ドアには鍵がかかったままで、窓の鎧戸も開いていない。火の粉が入る所はどこもないはずだった。
なのに棚じゅうからごうと炎が噴き上がっている。
「……どうして……」
茫然と目の前の光景に見入っていると。
「あつっ……!」
壁を伝ってちろりと舌を伸ばした炎にあぶられて、だらりと下ろしていた手を胸元へ引き寄せた。
肌を焼かれた痛みがレマを正気付かせる。
「と、とにかく消さないと……」
あせる心のまま、手にしたほうきで間近な炎をたたいた。
この店は彼女にとって重要な生命線だ。失うわけにはいかない。
消えろ、消えろとひたすら念じて、ちりちりと肌を焼く熱さに汗をかきながらがむしゃらに炎をたたく。
そのとき、彼女を嘲る声がした。
「むだよ」
自分以外の者がいることに驚いて面を上げると、いつの間に現れたのか、店の中央に女が立っていた。
女のまとった衣装と炎そのもののように宙に広がった豊かな赤髪、化粧に、最初レマは彼女がだれか分からなかった。
肉感的な体を見せつけるような露出の高い服装、自信に満ちあふれ傲慢とも思える表情、堂々とした立ち姿。どれも彼女の知るシーリンとは対極にあるものだったからだ。
だがそれはシーリンだった。
あの首飾りを下げている。
「そんなことをしたところで、あたしの炎は消えないわ」
「シーリン……あんたなのかい!? こんなことをしたのは!!」
相手がシーリンと分かった瞬間、レマの中から不審者への恐れは消えた。
どん、とほうきの柄頭を床にたたきつける。
「なんでこんなことを! この店がなくなったら、あんたもただじゃすまないんだよ!!
早く消しな!! 早く!!」
普段なら、これほどのレマの癇癪を前にするとシーリンは硬直して何も言えなくなった。心の中で何を思っていようと反駁できず、その剣幕に押される形で「わ、分かったわ……」と彼女に従うのが常だった。
だが今のシーリンは違った。
激怒したレマの内にある真意――あせりと痛みと理解できない事象への不安、恐怖、混乱を見抜いて、その心地よさにふっと笑みが浮かぶ。
「なぜあたしがそんなことをしなくちゃいけないの? あたしの炎なのに」
素っ気なく肩を竦める。その動きに合わせて、服についた小さな金の輪の飾りがシャラシャラと音を鳴らす。
「……あんた、何言ってんだい……。あんたの大切な店だろ……? あんたの親が残した店じゃないか……」
「燃えてしまえばいいのよ、こんなチンケな店。せいせいするわ」
シーリンの返答に、レマはごくりと固唾を呑む。
こんなシーリンは知らない。
彼女の知るシーリンは、両親の形見の店を大切にしていた。いくら不満を持っていても、彼女に反発心を抱いても、店のために家を出て行けないでいることに、レマは気付いていた。今朝、激しくやりあったときも、飛び出していったところで戻ってくる場所はここしかなく、結局はあきらめて彼女の言うとおりに相手の家へ行くのだと高をくくっていた。
この女は、だれだ?
燃え盛る炎の中心にありながら平然と立っている、この女は。
「あんた、シーリンじゃないね……?」
女への恐怖が戻ってきて、震える声で発したレマの問いに、シーリンは小首を傾げる。
そして口元に指を添え、鈴の音のような声でくすくすと笑った。
「何を言ってるの、レマ。あたしはシーリンよ。
ただ、そうね、ほんのちょっと、あなたの知らない何かに変わっちゃったかもしれないけど」
長いまつげに縁取られた、黒い、闇の目で、ねめつけるようにレマを見る。
赤い唇からのぞく、赤い舌先。
まるで毒蛇に格好の獲物として標的にされたような気分で思わず後退ったレマは、そのとき、階上にいるエマの小さなうめき声を聞いた気がしてはっとなった。
「エマ!?」
ばっと背後の階段を振り返る。
パチパチと炎のはぜる音とともに、母親のレマを呼ぶ泣き声がかすかに聞こえた。
炎は天井を舐めて、継ぎ目から上に入り込んでいる。
再度シーリンを見ると、シーリンは先までと変わらず部屋の中央に立って腕組みをし、レマを見ていた。
そしてレマが今何を考えているか、手に取るように分かるというように薄笑いを浮かべていた。
近づいてくる気配のないその姿に、レマは身を翻して階段へ走り寄り、駆け上がる。
何より大切な、自分の命同然の愛娘のもとへ。
「エマっ!!」
部屋へ飛び込んだ彼女の見たものを、シーリンは難なく思い浮かべることができた。
自分がそうしたのだから。
すぐに絶望の悲鳴へと変わったレマの声に、ついにシーリンは笑いを抑えることができなくなった。
とうとうやってやった。
あの女に、絶望を味あわせてやることができた。
義妹に恨みはなかったが、すやすやと眠る小さな体に剣を突き立てても、何も感じなかった。
目を見開き、激痛に身をよじって泣く姿を前に何とも思わず、ただ、なぜこんな簡単なことを今までしてこなかったのかと、不思議な気持ちだった。
もっと早くこうしていたら、あんないやな思いをしなくてすんだのに。そう、悔しく思っただけだった。
「ふふっ、ふふふふっ」
うれしさのあまり、スキップを踏みながら炎の中を歩き、階段の前を通り過ぎて裏口から外へ出る。
炎は店内だけで、外には一切漏れていない。どころか、煙も、布が燃える臭いすら感じられない。
炎のはぜる音もなく、熱もなく。家屋が崩れる兆候もない。そのため、外を歩く人――まだ朝の早い時間のため、そう多くはなかったが――が気付くこともない。
すべてが屋内で完結している異常な光景を、シーリンは路上から眺めていた。
2階に住居となる部屋が2つあるだけ。
なぜあんなにもこの小さな店に固執していたのか、謎だった。
自分でも分からない。
ただの小汚い、古くて小さな店なのに。
ぱちん、と指を鳴らす。それだけで炎は消える。
中で何かが動く気配はなく、店は再び静寂に包まれる。
「あはははははははははははっ」
シーリンは小気味よい高笑いを残して、開いた間隙へとその身をすべり込ませた。
ここまでご読了いただきまして、ありがとうございます。
実は数回前から、過去作でなく今のわたしが執筆をしています。
『人妖の罠』は1991年の作品で、35年前の自分が何を書こうとしていたかを思い出すことができず、このまま公開し続けて、そこから続きを書ける気がしなかったので、展開を変えているのです。
できるだけ毎日更新できるように、執筆を頑張りたいと思います。が、15時公開が無理なときがあるかもです。
夕方とか夜になったらすみません。
そうなりそうなときはXで現状をポストしますので、よかったらフォローしておいてください。




