だれ、だっけ
#だれ、だっけ
鏡の中の私が、笑っている。
薄暗い洗面所。
寝る前の習慣みたいに、私は今日もやってしまった。
――鏡の中の自分に、「お前は誰だ」って、声をかける。
最初は冗談だった。SNSのネタ。
でも、二回、三回。繰り返しているうちに、ふと、胸の奥が冷たくなる。
「……お前は、誰?」
その瞬間、鏡の“私”が一瞬だけ遅れて口を動かした気がした。
ぞっとした。
でも目は、逸らせなかった。
息が浅くなる。喉が渇く。
わかってる、これは“私”だ。でも“私”なのに、“私じゃない”気がする。
「ねえ……誰?」
指先が震えた。
“私”が笑った。
口角がほんの少しだけ、わたしの意思とずれて動いた。
――わたしが、笑ってないのに。
「……あんた、誰?」
声が低く、耳の奥で響いた。
反響なんてないのに。
誰もいないのに。
音が、返ってきた。
「――あんたが、“私”じゃないでしょ?」
鏡の中の私は、目を細めてにやけた。
――そう、“私”がにやけた。
でも、指先は震えて、声は裏返ってる。
冷や汗が背中を這うのに、“あの私”だけ、静かに、笑っている。
思い出そうとしても、さっきまでの私の顔が思い出せない。
どこまでが自分の顔だったっけ。
目尻のしわ? 口の角度? 肌の色?
「……ねえ、教えてよ」
“わたし”が、鏡を指差す。
“鏡のわたし”が、それに合わせて動く。ぴたりと同時に。
でも、ほんの一瞬、指が合わなかった気がした。
それだけで、私の中の“軸”がひとつ、音を立てて崩れる。
「――私って、誰だっけ」
私の声と、鏡の声が、同時に重なって、少しだけズレた。
鏡の中の「私」は、私よりも早く瞬きをやめた。
口元が少しだけ上がる。……でも、私は笑ってない。
……え?
肩が震える。笑ってるのは、あっちだ。
音はない。けれど、確かに笑っている。
それに――あの目。
まばたきもせず、こちらを睨むように、にじるように、見つめている。
「……お前、は……だれ……?」
私が言ったのか、あれが言ったのか、もう分からない。
音の出ない口が、ぱくぱくと動き続けてる。
鏡の奥と、こっちとで。
手を伸ばす。
ぴたりと、冷たいガラスに当たった。
でも――あっちの「私」も、同じタイミングで手を伸ばしてくる。
……あ、違う。
指先が、こっちに、はみ出してきた。
ひゅ、と喉が鳴る。
後ずさろうとした脚が、動かない。
震えてる?違う、引っ張られてる?――いや、そうじゃない。
私の意志じゃないところで、前に進んでる。
鏡の表面に、指先が触れて、沈んだ。
ぬるり、と液体のように、冷たくもなく熱くもなく、何もないのに確かにある“あれ”に沈んでいく。
「……や、め、て……」
喉を使ってるのに、声が出ない。
耳の奥で水の中みたいな音がして、感覚がぼやける。
あっちの「私」が、口を開いた。
「――お前は、誰?」
音はない。でも、確かに聞こえた。
私の口が、勝手に動く。
「私は……」
言葉が出ない。
違う。思い出せない。
名前って、なんだっけ。
昨日の服、さっきのごはん、スマホのパスコード、母の声――
……なにも、思い出せない。
あっちの「私」は、満足そうに微笑んだ。
そして、口を開いて、こう言った。
「私は、“私”。」
その瞬間、目の前の鏡が、ぱりんと音を立てて割れた。
けれど、そこに映っていた「私」は、割れずに、こちら側に立っていた。
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「……おはよ」
そう言って笑った“私”に、母は何も気づかず、
いつものようにコーヒーを差し出した。
「寝癖ついてるよ、なおしなさい」
「はーい」
そう返して、私――だった何かは、洗面所に向かう。
さっきまでいた場所。
割れた鏡は、直っていた。
でも、そこに映る“私”の目は、
まばたきを、しない。
昨日と同じ制服。
昨日と同じごはん。
昨日と同じ時間に家を出て、昨日と同じルートで学校へ。
……違和感は、なかった。
でも――
「お前、なんか雰囲気違わね?」
廊下で擦れ違ったクラスメイトが、
冗談みたいに言う。
笑ってごまかすと、何もなかったみたいに通り過ぎた。
そう。
誰も気づかない。
たった“目”が違うだけでは、人間は他人を見抜けない。
次の授業の黒板。
教師の声が、くぐもって聞こえる。
筆記用具を手に取るけれど、漢字が……少し、思い出せない。
昨日までの記憶が、溶けていく。
夜。
母が「おかえり」と言う。
でも私は、“ただいま”の意味が、分からない。
“私”は、どこまでが本物だったっけ?
あのとき、誰がこちらに来て、
誰があちらに消えたのか。
鏡の中の私は、
確かにこう言った。
「私は、“私”。」
じゃあ今のこれは?
これは、“だれ”?
深夜。
また鏡の前に立つ。
今度は、まばたきをしてみる。
……できなかった。
まばたきの仕方を、忘れた。
でも、そんな些細な違いには、
誰も気づかない。
だからこの世界は、壊れない。
壊れないまま、
少しずつ、入れ替わっていく。
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廊下を歩く。
誰もが笑っている。
でも、声だけが妙に遠い。
まるで水の中。
教室に入ると、
席に座った“私”がこっちを見ている。
「おい、席間違えてるぞー」
誰かが笑って言った。
けれど“私”は笑わない。
ただ、じっと、鏡みたいに私を見つめる。
先生が来る。
授業が始まる。
黒板の文字が、読めない。
隣の子のノートを覗く。
でも、文字がぐにゃりと歪んでいる。
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昼休み。
お弁当を開けると、中身が全部“目玉”になっていた。
――そんなわけない。
もう一度見たら、普通の卵焼きだった。
でも、一瞬“それ”が“現実”に見えたなら、
もうそれは幻覚じゃない。
放課後。
“私”がもう一人、昇降口で靴を履いている。
「バイバイ」
そう言ってこっちを振り返り、笑った。
私の声で、私の顔で。
そして“私”の家に、帰っていった。
私はまだ、昇降口にいる。
誰にも呼ばれない。
誰にも気づかれない。
――あれ?
じゃあ、私って。
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夜。
部屋の窓に映る自分の姿が、瞬きをしなかった。
その“映像”が、にやりと笑った。
「交代、完了」
その言葉を聞いた瞬間、
記憶が反転した。
家族の顔が、ぐちゃぐちゃに滲んでいく。
友達の声が、異音にしか聞こえない。
自分の手が、自分のものである証拠を失った。
逃げ出すように外へ出る。
街灯が全部、こっちを見ている気がする。
どこも、行き先がわからない。
この世界に“私の居場所”はもう――
「……ないんだ」
でも。
それでもひとつだけ、まだ覚えていた。
鏡の中で私に言った、“あの言葉”。
「私は、“私”。」
あのとき、私が負けたのか。
勝ったのか。
それはもう、わからない。
でも今、“この目”に映るものが、
きっとすべての答えだ。
――君は、ちゃんと“まばたき”できてる?
じゃあさ、ひとつだけ試してみて。
鏡の中の“君”と、3秒間、目を合わせてみて。
もし、タイミングが少しでもズレたら――
その“君”は、もう。
さあ、
次は君の番。
――君は、本当に“自分”でいられてる?