噂の彼女
4月も終わりに近いある日、祥吾は朝から腹の調子が微妙だった。そのため、昼休みのチャイムが鳴ると同時に決戦場へと向かい、自らの胃腸と戦う。詳細は省くが、比較的長い勝負は最終的に勝利で幕を閉じた。
こうして人知れず戦いを終えた祥吾は教室に戻る。黒板の横にかかっている丸いアナログ時計を見ると昼休みは半分以上過ぎていた。また、いくつかの集団に別れてそれぞれがおしゃべりに興じており、大半の生徒は食事を終えている。
友人の祐介は高校から仲良くし始めた男女4人と楽しく話をしていた。声が大きいので教室内ならよく聞こえる。一方、もう1人の友人良樹は教室にはいない。こちらは毎日映像研究会の部屋へと弁当を持って通っているのだ。
ということで、祥吾は1人で弁当を食べることにした。最初からならともかく、食事を終えた集団の中に弁当を持って入りにくいからだ。
弁当は母親謹製のもので量が非常に多い。おかずと白米の箱がひとつずつあり、蓋を開けるとぎっしりと中身が入っている。
いただきますと心の中でつぶやいた祥吾は箸を手に弁当を食べ始めた。唐揚げも佃煮も卵焼きもきんぴらごぼうもおひたしもいつも通りの味でおいしい。そうして白米を頬張るのだ。もちろん、おかずを囲むように敷いてあるレタスも残さず食べる。
昼休みの時間は限られていたが、その時間で祥吾は全部食べることができた。なので焦ることなく箸を動かす。
たまにお茶で口を潤しながら弁当を旨そうに食べる祥吾は自然と周囲の話を耳で拾っていた。いずれも興味のない話ばかりだったので無視をしていたが、その中で気になる単語が耳に引っかかったので意識をそちらへと向ける。
「ねぇみんな知ってる? 進学クラスにすっごい美人の外国人がいるの。確か、えーっと、クリス・ウィンザーって女子」
「あー、わたし知ってるー! すっごく頭もいいって話だよ」
睦美としゃべっていた香奈が祥吾の知っている人物とは微妙に違う名前を披露していた。その隣に座る睦美も香奈に追従する。日本人からすると微妙に発音しにくいことは祥吾も理解していた。なので、香奈の発音はよくある間違いだとも知っている。
「で、そのクリスって子なんだけど、まだ入学して1ヵ月もしないうちに、もう何人かの男子から告白されるって噂なのよね」
「何人から告白されたのかなー。10人くらい?」
「いくら何でも多すぎるでしょ。1学期の間にそれくらいいきそうな気はするけど」
「その話、オレも知ってる。でも、悪い評判は聞かないから性格は悪くないらしいぜ」
「マジかなぁ。なんか裏でむちゃくちゃ悪口言ってるかも?」
「そうかもしれないけど、そんなこと言ったらきりねーじゃん」
ほとんど空のペットボトルを片手で揺らしながら敦が香奈の話に入ってきた。あまり熱心な様子ではない。知っていることを話しているという感じだ。
逆に徳秋は目を輝かせていた。少し顔を前に出して口を開く。
「オレ、クリスちゃん見たことあるよ! マジですっげぇ美人だった。あんな人間いるのかっていうくらい」
「ちょっと徳秋、クリスちゃんってなに? あんた知り合いなの?」
「いや違うけど」
「それでいきなりちゃん付け? ちょっとそれキモいわよ」
「ねー」
「えぇ!?」
香奈と睦美から否定された徳秋が呆然としていた。どうやら意外な反応だったらしい。その隣では敦が呆れながらも笑っていた。
そこへ睦美が話題を追加する。
「でも、何度も告白されて断ってるってことは、もう誰か好きな人がいるんじゃない?」
「なるほど、付き合ってる男がいる可能性もありだね。なんだかアタシもそう思えてきたかな。でもだったら、誰と付き合ってんのって話よね」
「だよねー! すっごい美人と付き合える男なんだから、きっとすっごいイケメンだよ!」
「うっわ、ちょっと気になってきたじゃない、それ」
盛り上がる香奈と睦美の話を聞いていた祥吾は渋い表情をした。かつて中学校でクリュスの噂が広まったときの状況が再来しつつある。そうして噂を信じて勘違いした女子に失望され、男子に嫉妬されたのだ。付き合っていない祥吾としては踏んだり蹴ったりである。
早く他の話題に移ってくれと願いながら祥吾はちらりと話をしている集団へと目を向けた。いずれも楽しそうにしゃべっている。
しかし、そんな中で1人祐介だけが黙っていた。相づちを打ったり短い返事をしたりはするものの、自分からは何も話さないのだ。その態度に祥吾は内心で感謝する。すべてを知っている祐介が黙っていてくれたら噂は噂だけで終わるのだ。
友情を目に見える形で確認することができた祥吾は安心した。これならば安心して話を聞いていられると確信する。余裕を持って食べ終えた空の弁当箱を片付け始めた。
そのときだ。香奈が祐介に話を振る。
「祐介、さっきから黙ってるけど、なんか言うことないの?」
「なんかって言われてもなぁ」
「そういえば、祐介ってあのクリス・ウィンザーと同じ中学出身だっけ?」
「クリュスな。確かに同じ中学校だけど」
「え、クリュ?」
「あいつの名前はクリュスってんだ。中学のときもよくクリスって間違われてたけど」
「へぇ、よく知ってんじゃん。やっぱモテてた?」
「そりゃもう。何十回も告白されてたぞ。1度その場面に出くわしたこともあったな」
「マジで!?」
突然の新情報に興味がなかった敦までもが振り向いた。他の3人は当然のように身を乗り出す。4人の視線が祐介に話の先を促した。
祥吾は一瞬ひやりとしたがすぐに体の緊張を解く。クリュスの告白玉砕伝説は中学校では有名だった。なのであの話自体は秘密でも何でもない。まだ大丈夫だと安心する。
しばらくはその伝説の話が続いた。祐介は懐かしいという様子でしゃべっている。それを他の4人が色々と口出ししながらも聞いていた。
そこへ睦美が何度目かの口を挟む。
「そんなに断ってるんだー。ということは、やっぱり好きな人がいるんじゃないかな?」
「アタシもそう思う。っていうか、もう付き合ってる男がいるんじゃない? でなきゃここまで断らないでしょ。そこんとこどうなのよ、祐介」
「断られた男でその質問をした奴がいるらしいが、いないって返事だったそうだ」
「えーうそだー!」
「怪しいなぁ。アタシも信じらんない」
中学校時代の話を披露する祐介に香奈と睦美の2人が猛然と反論した。もちろん祐介は困惑している。根拠もなく反対されたのだから当然だろう。
耳をそばだてていた祥吾もわずかに苦笑した。色々と虚実混ざっている噂話だが、クリュスに好きな男がいないというのは事実だろうと考える。異世界でのあの超然とした存在がそのまま転生したような少女なのだ。そもそも恋愛感情があるのかも怪しい。
ただ、そんなことを知らない周囲からすると信じられないという気持ちも祥吾には理解できる。なので、香奈と睦美の反応は当たり前とも思えた。
スポーツバッグに弁当箱を片付けた祥吾は椅子に座り直す。教室のアナログ時計に目をやると残り時間はそろそろ5分を切りそうだった。そのとき、ちょうど予鈴が鳴る。昼休みもそろそろ終わりだ。
そんな中、祐介たちのおしゃべりはまだ終わらない。そして、唐突に友情に罅が入る音を祥吾は耳にする。
「ただ、周りが公認の仲扱いしてた奴はいたぞ」
「やっぱり男がいたんじゃない!」
「いやただな、当人たちは別に付き合っていたわけじゃなかったんだ、これが」
「どういうことよ?」
「何て言うのかな、仲のいい友達って言われたらそうなんだけど、なんか距離が近いように見えるんだよな、周りからすると」
「付き合ってるってことじゃん」
「というより、幼馴染みみたいな距離なんだよな」
「あー、そっちかぁ」
「クリュスは中2の2学期に転校してきたんだけど、最初から当たり前のように距離が近かったんだよ」
「へぇ」
叫んでいた香奈が真剣に話を聞いているのを耳にしながら祥吾は再び緊張していた。まだぎりぎり名前は出ていない。もうここまできたらほとんど駄目なような気がするとしても、ここで話が終われば致命傷は避けられる。
何とかこらえてほしいと祥吾は祐介に願った。祥吾の平穏は今や友人の一言にかかっている。
「で、その男って一体誰なのー?」
「祥吾だよ。あそこに座ってるやつ」
罅の入った友情は脆くも崩れ去った。睦美の問いかけにあっさりと答えた祐介が祥吾を指差す。
まさかの裏切りに祥吾は愕然とした。だが、よく考えてみると、中学校時代の公認の仲の件は秘密でも何でもない。あの中学校出身の誰かに聞けばすぐわかることだ。更には特に口止めしたこともない。
しかし、それでも許せないものがある。祥吾は後で祐介を一発しばくことを心に決めた。




