悪魔に紹介
「では、私はこれで……」
「ああ……」
とある夜、薄暗いバーの中。一人の男が席を立ち、店を出て行った。
残された男は空になったグラスをじっと見つめる。深く息を吸い込んでみるが、残り香は嗅ぎとれない。その背中には、まるで女に約束をすっぽかされた男のような侘しさが滲んでいた。吐息をつくたびに、その小さな背中はますます縮んでいくように見える。
「どうも、こんばんは」
その隣に、別の男が腰を下ろした。
「ああ、あんたか……」
「どうです? 悪魔に魂を売った気分は」
話は数週間前に遡る。彼はこのバーで、一人、沈んだ顔をして酒を飲んでいた。
『どうされましたか? 浮かない顔ですね』
『ん、いや、別に面白い話じゃないよ』
突然声をかけられ、彼は一瞬拒絶するそぶりを見せた。しかし、酒の前では、彼の脆い城壁も小さなプライドも儚く消え去った。
『なるほど、女性のことですか』
『そうだ……いや、実はそれが理由じゃないかもしれない。今、話していて気づいたよ。いや、認めたくなかっただけか……。失恋なんて関係ない。自分の人生そのものに失望しているってことに。おれは何の才能もないし、勉強も運動も平均以下。顔も悪い。でも、地頭はいいなんてこともない。実はやればできるなんてこともない。そして、やる気もない。頑張りたくないんだ! ああ、努力って文字を見るだけで吐き気がする! 凡人ですらない、かろうじて人間のラインに入っているのさ! 失恋だってただの片思いだよ。付き合っていたわけじゃない。告白して振られたんだ。まるで中高生さ。しかも、告白した相手の第一声が「えっ、知らない人……」だったよ』
『十分な関係性を築く前に、いきなり告白したんですね』
『確かにそうだ。でも、同じ会社の人間なんだぜ? 顔くらい知られているかと思ってたよ。惨めだよ。ははは、もう噂になってるかもな……いや、なってないかあ……おれなんて、この先もずっと誰にとっても「知らない人」なんだろうな……一角の人物になりてえな……』
『そのための覚悟はおありですか?』
『え?』
『悪魔に魂を売る覚悟はありますか?』
悪魔に魂を売る。話が進むと、それが単なる比喩ではないことがわかった。
男は、悪魔は実在すると語った。死後の魂を渡す代わりに、願いを叶えてくれるという。
彼はその話を信じ、男に悪魔との仲介を依頼した。そしてこの夜、会ったのだった。半信半疑だったが、その男が「どうぞ、よろしく」と微笑んだ瞬間、疑いは吹き飛んだ。
男の口元が目の縁まで裂け、鋭い牙が露わになったのだ。
怖気が走ったが、怯えなかった。むしろ喜んだ。魂を差し出せば、これからの人生を豊かに過ごせる、と。しかし……
「悪魔に魂を売った気分はどうかって? いや、売れなかったよ!」
「おや、契約が成立しなかったんですね」
「そうだよ! おかしいだろ! 魂を売れば願いが叶うんだろ? でも、あの悪魔は『あなたの魂ではこの願いは叶えられません』だとさ!」
「それはお気の毒に。ですが、願いにも限度というものがありましょう。『アメリカの大統領にしてくれ』や『世界一の金持ちにしてくれ』などは、さすがに」
「それくらいわかってる。だから、おれは、『この前おれを振った女と結婚したい』と願ったんだ」
「あきらめていなかったんですね」
「ああ、でも無理だとさ! だから、その女とエッチを十回したいとか、五回でもいいって、どんどん要求を下げていったんだ」
「見苦しいですね」
「うるさいな! それでも、魂と釣り合ってないとさ! なんなんだよ!」
「それで、最終的に何を叶えてもらったんですか?」
「何もだよ! 胸を三十分間揉むって願いすら却下されたよ!」
「ずいぶん妥協したんですね」
「クソッ、尻にしておけばよかったか……」
「そういう問題ではないかと……。でも、結果的にはよかったです」
「まあな、死後に魂を渡さずに済んだと思えばな。はあ、でも、なんで駄目だったんだ……」
「悪魔に魂を売るにも、才能が必要なんですよ」
「才能?」
「音楽家、画家、プロスポーツ選手など、すでに何かで成功している人間の魂は高く評価されます。売り渡せば相応の願いが叶えられましょう。その道でさらなる活躍を願えば、歴史に名を残すことも可能です。転じて、新事業の成功を願い、社長になった人もいるそうですよ。ですが、あなたのように何の特技もない人間の魂は、ほとんど価値がないのです」
「じゃあ、どうすればいいんだ。結局、努力して社長にでもなれって? 話はそれからですってか?」
彼はそう言いながら、グラスを小突いた。
「いいえ、その必要はありませんよ」
男は立ち上がり、彼のほうへ身を寄せた。影が顔にかかる。
「すでに契約は成立していますので」
「は? だから、駄目だったんだってば。価値がないって……」
「ええ、先に仲介料分を引き取らせていただきましたので。契約不成立の場合は、残りも……」
男が微笑んだ瞬間、彼は気づいた。
自分はすでに、その無価値な魂すら捧げてしまっていたのだと。