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2:雨の日は軒下を借りて

「クソッ」

 菊川政宗は、毒づいた。こんなに雨が酷くなるとは思いもしなかった。

 しかし、走り続けるしかこの雨から逃れる手はない。なぜあの時部屋に戻って傘を持って来なかったのか。後悔してもし切れない。

 必死に走っても、急な坂が急ぐ政宗を阻む。ブリーフケースを傘代わりにしているせいで、腕を振り切れない。そもそもスーツで、革靴だからと言うのもあるのだろう。

「はあっ、はあっ」

 自分の呼吸音と、バラバラと雨がブリーフケースを叩く音、革靴が濡れた地面を蹴る、バシャバシャと言う音がやたらと大きく聞こえる。

 やっとの思いで坂の頂上に差し掛かった時、菊川の胸で携帯の着信音が鳴った。

 こんな時にと舌打ちする。

 歩を緩め、濡れた手で胸ポケットに手を入れた政宗の目にメニューボードが留まった。

 坂の頂上、進行方向の左手である。どうやらカフェのようだが、こんなところにあっただろうか。

「とにかく助かった」

 菊川は急ぎ足でそこへと向かい、軒下を借りた。

「もしもし、菊川課長?」

 電話の相手は部下の筧だった。

「ああ、うん。ちょっと待って」

 言って、ハンカチで携帯を拭う。濡れた携帯が耳に当たって気持ち悪かった。

「ごめんごめん。どうした?」

「実は、今日の会議なんですけど、先方のご家族にコロナが出たらしくて。急遽ZOOMで頼めないかと」

「ああ、そうなんだ」

 一度は収束に向かったかと思われた感染症だったが、ここ最近またチラホラと感染者が出ている。

 家族に感染者が出たとあっては、彼方も取引先へ易々と向かう訳にも行かないだろう。

 それに──。

 菊川は自分のスーツを見た。ブリーフケースを傘代わりにしたところで、見事に濡れている。これは渡りに船かもしれない。

「それじゃあ、筧、ZOOM会議の段取りつけておいてもらえる? 俺はこのまま出先から参加するよ。アジェンダや資料だけ、悪いんだけどクラウドに上げてリンクを送っておいてくれるかな」

「了解しました」

 筧は有能な部下だ。直ぐに段取りをつけるだろう。

「あの……」

 鈴のような声に、菊川は振り返った。

 そこには小柄な女性が立っていた。

 緩いウエーブのかかったロングヘア。色白の丸顔に、小さな鼻と、対照的な大きな瞳。そしてそれを縁取る長いまつ毛はくるりと上を向いている。

「どうぞ、お店を開けますのでお入りになりませんか?」

「え……、あっ、でも……」

 短くメールの着信音が鳴った。筧からだ。もう段取りを付けたのだろう。これから自宅に戻っていては間に合わない。

「あの、僕濡れてて……」

「だからです。お風邪を召しますよ?」

 そう言うと、彼女は眉尻を下げ、少しだけ唇を窄めた。

 それを見て、菊川はぼんやりと、ああ、唇も小さくてかわいいな。などと考えていた。

「どうぞ」

「あ、はい」

 スーツの袖を引かれ、大人しく従う。

「うわ……」

 店内はコーヒーの香りで満ちていた。そして──

「飴色……」

 店内は飴色をしていた。

 昨今のコーヒーチェーン店のような洗練された店内とは違う、どこか昔の「喫茶店」の雰囲気を残したような、それでいてイギリスの古いカフェのような、独特の温かみと落ち着きがそこにはあった。

「今タオルをお持ちします。お好きな席にお座りになって」

「あ、いや、あの……」

「急がないと。会議なんでしょう?」

 そうだった。

 バタバタとブリーフケースからパソコンを出す。ケータイでデザリング出来るようにしてあるから、WI-Fiは不要だ。

 WEBに接続して資料を確認する。パソコンからメールにアクセス。

 筧から開始時間の連絡とZOOMのアドレスをチェック。

 そして時計を確認。開始まで30分あった。

 簡単にデモンストレーションをしておくべきかもしれない。相手に有無を言わさぬ勢いで契約を──

「どうぞ」

 目の前に温かいコーヒーと、柔らかそうなタオルがさしだされ、菊川は我に返った。

 芳しいコーヒーの香り。こんな芳醇な香りのコーヒーはこれまで出会ったことがなかったように思う。

 高ぶった神経が緩んでいくのが分かる。

「有難うございます」

 早速口をつける。

「ん! 美味い!」

「良かった。あ、それからこれ。亡くなった祖父のものなんですけど、濡れたスーツよりは……」

 そう言って彼女が持ってきたのは、仕立ての良い茶系のツイードの三揃いだった。

「いやしかし……」

「でも、ピンチですよね? とっても大事な会議なんでしょう?」

「えっ、何故それを?」

 菊川は驚いて彼女を見た。

 彼女はもじもじと視線を泳がせると、おずおずと口を開いた。

「その……、とっても怖い顔をなさってたから……」

 なるほど。それで顔がピクつき、肩が上がって痛かったのだ。何としてでも契約を取るという意気込みと緊張から、力み過ぎていた。

 菊川は、パンパンと頬を軽く叩くと、にっこりと笑った。

「どうかな? もう怖くない?」

「はい!」

「それじゃあ、お言葉に甘えて、お借りしようかな。あ……っと」

 ここにきて菊川は、親切な女性の名前をいまだ知らないことに気が付いた。

「名前を聞いても失礼にならないだろうか」

「希与です。希望の希に、与えると書きます」

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