5.ほんの数秒間の回想
魔方陣制御塔の『鍵』には、正しく停止せずに破壊されると、魔方陣の制御がしばらく不可能になるという欠点があった。王都の魔術師全員の力を持ってしても、その制御を完全に取り戻すには数時間かかるというのが概算だった。
ブェッフェーレは、その混乱状態を引き起こすため、『鍵』を窓の外に投げ捨て、魔方陣制御塔の頂上から落とすことで破壊しようと考えた。
裏を返せば、そこまでしないと壊れないように頑丈に作られているのだ。
夕子は、そんなことは知らなかった。
それでも、ブェッフェーレが『鍵』を窓の外に投げた瞬間、それを追いかけて身体が動いていた。『鍵』を追いかけて、夕子は窓から飛び降りていた。
そして、『鍵』と一緒に夕子も落ちていった。
夕子が地面に衝突するまでの、ほんの数秒間。
夕子の視界は、青一色になった。空の青だ。
王都の空は、それを見た者が誰しも夏を連想せざるを得ない程に、澄み渡っていた。眼下には、街が広がっていた。夏の大きな太陽に照らされ、オレンジに輝いていた。
そんな刹那の光景に、一つの異物があった。
人工的で、空の青とはまた違った輝きを放つ青い炎があった。
『鍵』だ。
『鍵』は夕子のすぐ近くに浮かんでいた。実際には、『鍵』も夕子も塔の頂上から落ちている最中なのだけれど、共に落ちている夕子にはそれが浮いているように感じられた。夕子は、思いっきり腕を伸ばした。そうすると、手のひらまでが『鍵』に触れることが出来た。そこから、すくうようにして『鍵』を身体の方へ引き寄せた。
夕子は、空中で『鍵』をキャッチすることに成功した。まずは第一段階。
『鍵』はランタンのような作りをしており、ガラスの中に青い炎がともっていた。
次に、コリンに教えてもらった言葉を思い出して、慎重に口に出した。
「停止せよ」
すると、『鍵』の青い炎はすっと消えた。おそらくは、これで王都の魔方陣が働きを停止したのだろう。そして、ブェッフェーレの砂の兵隊たちも消えたはずだ。
さて、と夕子は思った。思えたのだ。
ほんの短い猶予に対して、思考はゆっくりと広がった。
夕子は、元の世界のことを思った。
夕子の居場所がなかった世界。そこから逃げ出すためには、自分自身を殺すことが必要だった世界。何もかもが自分のことを掴もうとせず、まるで風呂場の鏡に張り付いた蜘蛛を見たときのように目をそらし、しまいには孤独にすら気づかれることがなかった世界。
今もなお、あの世界に未練はない。死を選んだことに後悔はない。
本当はあのときに死んでいるはずだったのだ。しかし、いくらかの延長時間が生まれた。アンラという世界で。
夕子は、盗賊の洞窟のことを思った。
アルザーとエンヂに出会い、結果として助け出すことになった。
二人はとてもいい人だった。夕子は、二人のことが、少なからず好きだった。
それから、麓の街の優しさや、王都の城壁の大きさや、魔方陣の青いまぶしさや、宿屋のベットのふかふかさを思い出した。
そして、勇者の使命のことと、コリンのことも。
コリンもいい人だった。自分が勇者になることには強く反対していたが、夕子はその言い分にある程度納得していた。
アルザーは悲しむかもしれないけど、私以外に勇者は見つかるだろう。そして、きっと使命を果たしてくれる。
最後に、パフェのことを思い出した。
アルザーが買ってくれたパフェ。半分ほど残ってしまったパフェ。
あれは、とてもおいしかった。
…どうせなら、全部食べたかった。
それでも、いいや。と夕子は思った。
夕子のしたことで、アルザーや、エンヂや、コリンのことを助けられた。
三人の役に立てた。
そのことは、夕子の心を温かくしてくれた。
さあ、これから私は死ぬ。延長期間は終わりだ。
夕子は目を閉じた。そして、その時を待った。
ある種の衝撃や痛みを伴うのかは知らなかったが、それも関係ない。
全てが、彼女の知らないところで終わる。
その時を待った。
その時は、その猶予を越えて、訪れなかった。
夕子は、地面に衝突することはなかった。
夕子は目を開けて、驚愕した。
――夕子の身体が、宙に浮いていた。
そして、ゆっくりと夕子の身体は動き始めた。何かに引きつけられるように。
その何かは、やがて見えてきた。
コリンだ。宙に浮いたコリンだ。
夕子は、コリンのことがよく見える距離になってから、驚いた。
コリンの身体には、ひび割れのように青い閃光が走っていた。
顔中から汗がにじみ出て、目からは黒い涙が流れていた。
そこには、確かな痛々しさがあった。そして、その痛々しさを吹き飛ばすほどの神々しさを放つ青いオーラをコリンは纏っていた。
夕子は聞いた。
「大丈夫?」
「…こっちの台詞だっつうの。あは」
コリンは力無く笑った。その様子は、激しく消耗しているようだった。
「あんたねえ。あーんな高いところから人が飛び降りたらどうなると思う?もうぐちゃぐちゃよ。スクランブルエッグみたいに、跡形もなくなっちゃうのよ。なんであんなことしたの?というか、できちゃったの。あんなの、老練の戦士だってできない芸当よ」
「何でってのはよくわからないけど、できたんだよ。というか、前にもやったことがあるし。話したでしょ?私はあんな感じで自殺したんだよ」
「あんたは、死ぬとこだった。私が、たまたま気づいて、たまたま魔法が間に合ったから助かっただけなんだよ。なんで?なんで、そんなに平気でいられるの?こんなのって、ないよ。絶対にないんだよ」
そう言うと、コリンは夕子を抱きしめた。空中で、抱きしめた。
抱きしめる力は、弱々しかったけど、確かに温かさを伝えるものだった。
夕子は、コリンの腕の中で言った。
「…強いて、理由をあげるなら、コリンや、アルザーや、エンヂを助けるためってのはどう?」
「バカ。あんたって、ほんとバカ。アルザーなんかよりも、よっぽどバカよ」
コリンは、一息おいて続けた。
「ねえ。もしあんたがまたあんな無茶をしたら、あんな風に高いところから落ちていくようなことがあったら、もう一度、いや、何度でも、アタシが助ける。絶対にアタシが助ける。いい?」
「…うん。ありがとう」
夕子の鼻を、コリンの赤毛がくすぐった。花のにおいがした。
夕子は笑った。
*
「コリン、正直に吐け」
「…正直も何も、アタシゃ何にも悪いことはしていない」
「コリン、お前はブェッフェーレのクーデターの情報を、盗聴かなんかで得ていた。そうだな?お前はその時点で、通報の義務を負ったわけだ。だがしなかった。それはなぜだ?」
「…そもそも、なぜ反逆者のブェッフェーレが懲戒解雇と軟禁という軽い罰ですんでたのか。それは、魔術師のブェッフェーレ派を刺激しないためだ。もし早い段階で通報しても、やはりブェッフェーレを完全に追い詰めるには至らなかっただろう。でも、事が実際に起きれば話は別だ。ブェッフェーレ派のやつらも、何にも言えなくなる」
「…それは、理由としては十分じゃないな。例えば、局長。彼に秘密裏に相談することだって出来たはずだ。局長じゃなくてもいい。とにかく、その情報を一人で握りつぶしたせいで、事態の対応を遅らせ、被害を大きくしてしまったことは確かだ。はっきり言え。なぜ、通報をしなかった」
「…だって、手柄が増えるじゃなーい!あは。アルザー、あんただって随分得したでしょ?あはは!」
「はあ。どうせそんなこったろうと思った。やれ、ユウコ」
「了解」
それから、夕子は縄で縛られているコリンの足の裏をくすぐった。
「ぎゃははははは!!!やめて!!許して!!!ユウコさま!!アルザーさまぁ!!!」
ブェッフェーレは、アルザーに取り押さえられた。もう抵抗することはなかった。
ホンホトと呼ばれていた男は、自害していた。
こうして、今回の陰謀を辿る綱はもう一本がちぎれてしまった。
コリンは、夕子を連れて地面に降りると、『鍵』に向かって何かを言った。
そうすると、王都の地面を青い閃光が再び駆け巡り始めた。
最初は酷く消耗していたコリンだったが、魔方陣が再び機能しはじめると、すぐに回復した。
「魔力を使いすぎるとあんな感じになるんだよ。んで、今は補給できたってわけ」
それから、夕子はアルザーと再会した。
やはり、アルザーは夕子のことを抱きしめた。コリンとは対照的に、すごく力強かった。
アルザーは謝った。
「君にあんなことをさせないために俺はいるのに。すまなかった。…力は、十分に示せなかったな。いや、もしかしたら根本的に足りてないのかもしれない」
「そんなことないよ。すごい強かった。うん、すごかった」
「ユウコ~。そーんな甘やかすことないのよ?こいつはバカなんだから。あは」
「てめえが言うな!」
それから、アルザーはコリンを縄で縛って尋問し始めた。先の通りだ。
コリンは、それからしばらくして解放された後、恨めしそうに呟いた。
「アルザー。あんたに魔法をかけてやる。『水虫がうじゃうじゃ沸いてくる』魔法をさ」
「ふん。そんなものがあるのか?」
「今から作るんだよ!」
「魔法って、作れるの?」
ベッドに座ってバターロールを食べながら話を聞いていた夕子は、ふと聞いた。
ここは、夕子が泊まっている宿屋の一室だ。バターロールはエンヂの差し入れだ。
エンヂは家に帰った。家族と再会して、しばらく一緒にいる必要があったからだ。
代わりに、アルザーが隣の部屋を借りて、夕子のことを見守っていてくれた。
というわけで、少し修正。
ここは、夕子が泊まっている宿屋の、アルザーが泊まっている方の一室。
コリンは、夕子の質問に答えた。
「そりゃもちろん。魔法には、二つの派閥があってね。一つは、原始派。実は、今よりも昔の方がずっと魔法の数は多かったの。歴史と共に失われてしまったけどね。それを、文献などをあたって取り戻そうというのが原始派。もう一つは、新規派。新しく魔法を作ろうって言う派閥ね。魔法を作るための理屈は、まああんたたちじゃ難しいでしょうね。あは」
「コリンは、原始派と新規派、どっちなの?」
コリンは笑った。
「両方。だって、その方が楽しいじゃない」
「こいつは、こういう奴なんだ。だから、こう言われている。『変人』」
「他の奴らがバカなのよ。ってか、そんなことよりさ」
コリンは前のめりになって、聞いた。
「ユウコ、あんたドレスとか持ってる?持ってないよね?」
「ドレス?なんで急にそんなこと」
「そりゃあ必要になるからよ。王からの表彰の時にさ」
その瞬間、部屋の扉がノックされた。