2.魔術師コリン・エレン
王都は揺れていた。
王都の大魔方陣を管理する中央魔道局の副局長、ブェッフェーレ・マイケリンのスキャンダルが原因だ。ブェッフェーレは白髪交じりのオールバックと深いしわが彫り込まれた顔から年以上の風格を備えていた。特に水道の分野に関して秀でた成果を上げ、公共福祉の権威となっていた。
しかし、ブェッフェーレは貴族の人妻と不倫関係にあった。
そして、「清潔」をモットーとする局長はこのスキャンダルに強烈な不快感を示し、ブェッフェーレを懲戒解雇してしまったというのだ。
そして、王都の二大勢力の一つ、魔術師たちは大きく動揺することになる。
ブェッフェーレ程の実力者でさえもたやすく首にされてしまったことで、自身らの立場の安寧を疑わずにはいられなかったのだ。誰しもが後ろめたいことの一つや二つは抱えていた。
そして、新たに空いた副局長というポストを巡って激しい政争が繰り広げられた。
このとき、王都の魔術師たちは、ウイスキーを水で半分以上薄めて飲むような者も、高級品をストレートでたしなむような者も、皆が心を慌てさせ、食事も喉を通らないほどであった。
「ちょっとぉ?アタシのパスタ、隣の客より少ないじゃない?ふざけてんの!?」
ここは場末の食堂。その真ん中に陣取る赤毛でローブ姿の女が大声を上げた。
「お客様、そんなことは…」
「いい?アタシゃね、こういうときのために魔術を研究してんの。今から見せたげるから、『パスタの重量を天秤に量る』魔法をさ」
「ああ!もう!分かりました。もうちょっとパスタを持ってきますから!!大声で騒がないでください!!」
「最初からそうしときゃいいのよ」
赤毛の女は勝ち誇った顔を浮かべ、満足そうにパスタを食べ始めた。
*
不思議だ、と夕子は思った。
アンラと呼ばれているこの世界では、なぜか日本語で話しても通用する。相手も、日本語を話してくる。読み文字は、まるでみたことがない不思議な形をしたものだったが、どういうわけか意味は分かる。つまり、読むことができる。
世界観は、まるで中世のヨーロッパのようで、馬車が通りを走り、人々はワインを楽しんでいる。そう、ワインがあるのだ。
パンもあるし、コーンスープもあるし、牛乳もあるし、チョコレートもあった。
当然スマートフォンは無い。しかし、その代わりにアンラには剣と魔法があった。
まるで小説の中の世界に入ってしまったみたいだ。もしもこれが小説で、作者がいるなら、おそらくは自分と同じ言語と常識を備えているはずだ。そんな作者が実在して、夕子を何かの力で小説の中に閉じ込めてしまった、と考えるのが一番自然なくらいだ。
不思議だ、と夕子は思った。
夕子たち三人は、二日をかけてフェリオ山から下った。必要品は全て盗賊たちの荷物から拝借した。時折、アルザーが頭を押さえてうずくまり、休憩せざるをえなくなった。
「傷口が深い。おそらくは縫わなきゃならない。それに、血も足りてないな」とアルザーは言った。
麓の街にたどり着くと、アルザーは二人を連れて役所を訪れた。そこでアルザーが騎士団隊長の証である懐中時計を見せると(盗賊たちに奪われていたのを取り戻した形だ)、街の役員はあわてふためいて、街で一番の宿屋を用意してくれた。夕子とエンヂはすぐに風呂に入って寝てしまったけど、その間にアルザーは頭の傷の治療を受けたらしい。
夕子は、学校の制服を着ていたが、すっかり汚れていた。エンヂは夕子を連れて古着屋へ行き、鞄と二、三着の着替えを用意してくれた。学校の制服は、その鞄の奥底に押し込んだ。元の世界とのつながりなどいらないと思っていたが、エンヂがどうしてもと取っておかせたのだ。
麓の街の役人たちは親切にも、馬車を馭者付きで一台使わせてくれた。
「このご恩は忘れません」とアルザーが言うと、街の長は満足げにうなずいた。
どうやらアルザーは本当にすごい人みたいだ、と夕子は思った。
良い街だった。
馬車の旅は三日間続いた。
*
馬車の中で、アルザーは説明した。
「この世界には魔王と勇者、二つの立場がある。魔王は魔物たちを従え、人間を支配しようとしている。勇者は、そんな魔王や魔物を打ち倒す」
馬車は不規則に揺れる。
「魔王は、今から五年後に復活するといわれている。正確には、二人目の魔王が討伐されてから四百年後なんだけどね。そう、”二人目の”魔王が存在するんだ」
馬車がガコンと大きく縦にはねた。
「過去には二人の魔王がいて、二人の勇者がいた。二人の勇者はそれぞれ魔王を打ち倒した。彼らの伝説については、またの機会にしよう。
問題は三人目だ。彼の名前は、ストロウ・ザリンジャーといってね、俺の友人だった。彼は確かに、勇者の使命を背負っていた。そして、そんな使命なんかとは関係なしに、優しくて、気さくで、冗談が好きで、良い奴だった。俺たちは、ストロウのことが大好きだった。
しかし、彼は生まれながらに病弱だった。
そして、魔王を倒すという使命を果たすことなく、二ヶ月前に病気で死んだ。二十四歳だった。ちなみに、俺も二十四だ。俺たちは同い年で幼なじみだったんだ」
ガコン、と馬車が横に揺れる。縦ならまだしも、横に揺れるのはどうしてだろう、と夕子は思った。
「俺たちってことは、他にもストロウさんのお友達がいたの?」
「ああ、俺の他にあと二人ね。王都に向かっているが、二人ともそこにいる。そして、君を紹介しようと思う」
「どうして?」
確かに、夕子はアルザーたちを助けた。そして、アルザーはアンラという世界で身を寄せる場所のない夕子にとって唯一の身元引受人だった。だけど、そのような友人たちに紹介される、というのは少し気恥ずかしかった。
「もちろん、俺たちの命の恩人として、一人の友人として、紹介したいというのもある。だけど、本題はここからなんだ」
ガコン、と馬車が縦に揺れる。そう、馬車は縦に揺れるものなのだ。
「俺は、君を勇者の候補として、二人に紹介したい。そして、話が前後したけど、改めて。
俺は君に、勇者になって欲しいんだ。この勇者という空白が生まれてしまった世界を救うためのね」
*
最初は、点だった。それからマカロンぐらいの大きさになって、ホールケーキぐらいの大きさになって、やがて視界全てを石の城壁が埋めてしまった。
王都ティアレミロドの城壁だ。
三日目の日が沈み始めるころまで長く馬車に揺られて、腰が痛くてうんざりしていた夕子でも、その大きさには圧倒された。
城門の前には、長い馬車の列ができていた。アルザーは、ちょっと待っててくれと言って馬車を降り、城門の方へ向かった。
しばらくすると、一人の兵士を連れて戻ってきた。
「本当だ!!エンヂちゃんもいる!!みんな心配してたんだぜ~!!!」
夕子たちの馬車は、他の馬車に乗っている人たちから(そしておそらく馬車を引いていた馬たちからも)恨めしげな視線を向けられながら、城門の列を追い越していった。
どうやって閉じるのか分からないほどの城門をくぐってから初めて目に入ったのは、大きな広場だった。夕子の住んでいたアパートが何個も入ってしまうぐらいで、中央には巨大で勇猛な石像が二つと、キリンも見上げてしまうほどの噴水があった。
広場には、たくさんの人が鮮やかな服を身に纏い、ひしめき合っていた。まるで祭りでも開かれているかのようだった。
そして、
次の瞬間、地面の石畳を複数の青い閃光が走った。
閃光は、田園を分かつ用水路のように規則的に辺りに張り巡らされていた。
その青い光にうろたえながら、夕子は尋ねた。
「こ、この光は何??」
「ああ、そうか。ユウコは魔方陣のことも知らないんだったね」
そう笑って、アルザーは説明してくれた。
「アンラには、魔法というものがある。文字通り魔の法。魔物たちが使う力を人間が扱えるようにしたものだ。火を出したり、水を出したりね。中には、魔物が扱えないような、完全にオリジナルなものすらある。とても便利なものだから、魔術師たちの権威はとても高いものになっている」
アルザーは、一息おいて続けた。
「そして、魔法を扱う上で欠かせないのが、魔方陣なんだ。それは計算式のようなもので、魔法という答えを導き出すための解法と言い換えてもいい。厳密には違うらしいけどね」
不意に、魔方陣の青い閃光が消えた。そして、街灯がともり始めた。
「王都には、大魔方陣が張り巡らされていてね、公共的ないろいろをこなしてくれる。便利なものだよ」
街灯が定規の目盛りのように、等間隔に淡く光っていた。
*
その日は、夕子とエンヂの二人で宿屋に泊まった。木の匂いが印象的な清潔で良いところだった。アルザーは、色々と報告するべきことがあるらしく、王城に(王城!すごい響きだ)向かった。
翌朝、アルザーは酒の匂いをプンプンさせながら、千鳥足で帰ってきた。
エンヂが尋ねた。
「どうだった?」
「俺の葬儀が三日前に行われたところらしくてな。今更帰ってくるなと怒鳴られたよ」
「あらまあ!酷いこと言うわね」
「あはは。ついでに長期休暇ももらってきた。うっ、ちょっと待ってくれ」
アルザーは口を押さえた。
「あいつら、あほみたいに酒を飲ませてきたんだ」
「どうして長期休暇を?」
夕子は聞いた。
「それは、ユウコと旅をしなきゃいけないからね」
「「ええ!?」」
夕子とエンヂが同時に声を上げた。
エンヂが問い詰める。
「それって、どういうこと?」
「そりゃあ、勇者は旅に出なきゃいけないし、勇者にはお付きの戦士が必要だろう?」
「待ってよ、私、勇者になるなんて一言も言ってない。それに、そもそもそんな力無い」
「いーや、あるね。ユウコ、君はストロウの遺言にぴったりなんだ。あはは!俺はユウコ以外を勇者だなんて絶対に認めないぜ!!」
アルザーは上機嫌に笑った。
「待ってってば。私は剣だって使えないし、魔法だって使えない。ただの、異世界からどういうわけかやって来ちゃっただけの十五歳の女子なんだよ。どうして、私が勇者なんかに…」
そこで、夕子は口をつぐんだ。
「ぐー」
アルザーがすっかり寝込んでしまっていたからだ。
「なんなのよ!もう!!」
エンヂが叫んだ。夕子も訳が分からなかった。どうして、アルザーは夕子を勇者にしようと考えているのだろう。何の取り柄もない夕子を。
…君はストロウの遺言にぴったりなんだ。
ストロウの遺言とは、何なのだろう。
*
午後になると、のっそりとアルザーが起きてきた。
寝起きなのに、アルザーは腰に長剣をさしていた。
「どうして?」と聞くと、「職業病だ」という答えが返ってきた。
それから、アルザーは頭を押さえながら、夕子を案内したいと言い、外へ連れ出した。
宿の外に出ると、一つの建物が目に入った。
それは随分遠いところに立っている塔で、雲に付いてしまうのではないかというぐらい高かった。他にそれほど高い建物はなかったので、余計に目に付いた。
「アルザー、あの塔って何?」
「ああ、あれは魔方陣制御塔だ。王都の魔方陣をあそこでどうこうしているらしいよ」
それから、二人は街へ繰り出した。あみだくじを辿るように右左と進んでいく内に、夕子にはすっかりさっきまでいた宿屋の方角も分からなくなってしまったが、アルザーは何でも無いという風にすいすいと進んでいった。
そして、ある建物の前に止まった。
「食堂メンメン花」と看板には書いてあった。(再三言うが、見たことがない文字なのに内容が分かる。本当に不思議だ)
アルザーと夕子は木のドアを開けて、中に入った。すると、
「ちょっとぉ?アタシのパスタ、隣の客より少ないじゃない?ふざけてんの!?」
食堂の真ん中のテーブルに座っている赤毛でローブ姿の女が大声を上げた。
「お客様、そんなことは…」
「いい?アタシゃね、こういうときのために魔術を研究してんの。今から見せたげるから、『パスタの重量を天秤に量る』魔法をさ」
「ああ!もう!分かりました。もうちょっとパスタを持ってきますから!!大声で騒がないでください!!」
「最初からそうしときゃいいのよ」
赤毛の女は勝ち誇った顔を浮かべ、満足そうにパスタを食べ始めた。
「はあ、何やってんだあいつは…」
アルザーはため息をついた。そして、その女に声をかけた。
「おい、コリン」
「ありゃ、アルザーじゃん。随分遅かったじゃない?よっぽど残党たちが手強かったのね。まさかエンヂをさらわれて捕まってた、なんてことはありえないだろうし。天下の王国騎士団四番隊隊長ですものねぇ?」
「…ぶっとばすぞ」
「ええ!まさか本当なの!?ありゃー、あんたのバカがそこまでだったとはねえ。あは。ん?そっちの可愛い子ちゃんは?」
アルザーがコリンと呼んだローブの女は、明るい口調でひとしきり話した後、不意にこっちを向いて尋ねた。
「こちらは、アイダ・ユウコ。ユウコ、このクソうるさい女は、コリン・エレンという。魔術師だ」
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました!
今日は、あともう一話だけ投稿します。
ぜひ、そちらもご覧ください。