旅の終わり
特急はしだては丹後の海を彷彿とさせるような車両でやってきた。その車両の名はKTR8000所謂「丹後の海」という車両である。青のフォルムは如何にも目前に見える丹後の海の波の色と同じである。そして列車は噴煙を出しながら走り出した。
少し走り出すと天橋立が立ち去りて阿蘇海の藍が目前に広がりその藍色も離れてしまった。ふと見たら田畑の緑が見えるようになった。この緑の色は未だ夏の雰囲気を残しつつ秋の香りを漂わせていた。夏と秋の境界に位置するこの季節が好きである。この季節を堪能しながら座席でゆったりしていたら丹後ちりめんで名を得たる与謝野の駅に着いた。駅には堂々と丹後ちりめんのPRをしていた。その駅も立ち去りて汽車はまたまた噴煙をまき散らしながら発車した。田んぼに調和する汽車の色を思い浮かべながら列車を堪能した。次に到着するのは丹後大宮。ここはあまりよく知らないが一人外国の兄ちゃんが乗ってきた。そこで汽車は駅を離れた。少し経つと駅員が来て外国の兄ちゃんに特急券を持っているかを聞いた。兄ちゃんはそこで乗車券を見せてまた駅員は英語で説明をした。そこで私は外国には特急券という概念がないことを思いだした。グローバル化と言われて久しい中特急券という存在が日本ぐらいしかないことは日本は遅れているともいえるが外国に合わせることもないのだろう。ただそれよりも彼がこの列車に乗っている瞬間を楽しんでいると願うばかりだ。そして次の駅で兄ちゃんは降りた。このうちに車窓には一度は来たことのあるような街を見るにふとなぜこの汽車に乗ったかを、そして明日の授業に行けない可能性を考え玄武洞までの道を調べた。けれども終電を逃すかもしれないという予想が消えることもなく積もていった。そうこうしているうちに遂に豊岡駅についてしまった。取り合えずここで焦っても仕方ないと思い降りて時刻表をみるもののやはり焦らざるを得ない。
とりあえずここに来たわけだしと思い山陰本線鳥取行きのキハ47に乗り一駅先の玄武洞駅に着き改札のないホームを突破し岸辺に着いた。岸辺に立ち海のあなたを見ると玄武洞がふと見える。川の向こうに行き是非とも玄武洞に寄りたいと思い渡し船に渡してくれと電話をかけるに玄武洞は閉じていると言われすみませんと言い電話を切った。一時間監禁確定であるため川にたまたまいた沢蟹と遊んだり彼方に見える玄武洞を収めたりした。さて一時間の監禁確定に遭ったところで玄武洞の長き道程の解説モドキをしたいと思う。昔溶岩が出てきて急激に冷めて玄武岩ができた。その際六角形の割れ目ができる。この割れ目を節理と呼び今回は柱状のものだから柱状節理と呼ぶ。そいつらはとても掘りやすいのである。それに目を付けたのが時の豊岡市民。彼らはこの玄武岩たちを石材に利用したのである。そうしてなかったはずの洞窟が出来上がっていったのである。(因みに彼らが掘った玄武岩は城崎温泉など豊岡の様々なところで見ることができる)そして後の世の小藤文次郎という人間が四神の玄武を元に玄武洞と勝手に名付けそれを元にして今小学六年生頃に習う玄武岩という名になっていった。こんな感じで解説モドキを終結したい。さてそうしているうちになにか汽車の来る雰囲気がした。
改札にICOCAをピッとすることも切符を入れることもせず入ると幻とも思えるキハ47がいた。来る列車の写真を撮るとすぐに乗り込み整理券を取るとすぐに列車は発車した。運行方向左側の席に座り玄武洞を見た。柱状節理が遠くからもわかるように見えていた。さて豊岡駅に着き清算しようと車掌さん兼運転士にそのことを問うと「駅員にしてもらってきて」と言われ駅員に整理券とお金を渡した。160円と記憶している。さて帰らんとすると特急以外で帰ろうと思うと一時間待ちとなる。一時間待ちたくもないしその次の普通で帰るとなると無事に帰ることができるのかと疑念に思い特急券を買いICOCAをピッとして特急きのさきに乗り福知山まで行けば18時前。急いで丹波路快速に乗り夜の福知山線をひたすら故郷に向けて進んだ。福知山城も周りの闇に飲まれ黄昏よりも暗くなった。その周りの闇に向かいふと心の中で行ったことがある。楽しかったという思い。自分の一人旅で最北に来たという達成感。そしてもう一つ無計画の恐ろしさである。
十二月にもなり師走の文字の如く様々な人があわただしくなる中皆様はどのようにお過ごしでしょうか。私は期末考査の現実逃避に三日坊主にしていたこの文章の終止符を付けております。一つ皆様に言わねばならないことがございます。それは私がこの文章を書き終えることができたのは偏に皆様が私の稚拙な文章を読んでいただいたことにあります。最後までお付き合いくださりありがとうございます。ここで終わりにしてもいいのですが次にいつパソコンを開くかもわからないのでここで一つ私がここで紀行文を書いている理由を話したいと思います。もともとは今年の二月今や黒歴史となった小説モドキをPXIVで書き上げたからです。その小説は「戦友」という軍歌を元に描いたのです。その後もPIXIVの方でそういうミリタリー系の小説モドキを書こうと思っていたのですが今年のロシアによるウクライナ侵攻でミリタリー系は書けないと思いでは紀行文を小説家になろうで書こうと思い始めた次第であります。そしてそんなものも今や三作目を書き上げようとしているわけであります。此処まで続くと思っていなかったもので今この後書きを書き綴るこの現実を私は嬉しく思います。こんな感じでしょうか。もうここで終わらせてもよいのですがドーパミンが出るのでもう少し書くことを検討いたします。さて今からはこの旅の感想を書きたいと思います。この旅で行った籠神社は私がこの旅に行く半年ほど前から行きたかった憧れの場所であります。そこに行けたということはとてもうれしいことでありつつその憧れが果たされたという訳でもあります。そして憧れはまた衝動的に起こり旅を続けることでしょう。然るに旅はよもや終わらないということなのでしょう。またこの旅でまた学んだこともあります。それは旅をもっと面白く彩るには様々な知識が必要であるということです。この旅以来柳田国男大先生の本を読み始め、地学にも興味を持ち始め、地政学も色々調べ始めたりしました。さてそろそろこの辺にして次に旅に行く場所は香川県の金刀比羅宮の予定です。國鐵岡山の末期色にも期待しているということでまたいつの日か会おう。