表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

天の浮橋~竜の飛ぶ海~

 曇天の空から雨が降ってきた。此処は宮津の天橋立。少し驚くことに思っていたほど都会という訳ではなく観光地によくある売っているものがよくわからないガラクタ屋が少々あるぐらいであった。古い家が軒並み並んでおり京都と丹後の差は同じ都道府県にあるとは思えないほどに違う。世紀の大都市に住みし古人たちの憩いの場だったのだろうか。今の高尾山か秩父か。

 そして少しさまよいながら進むと前に来たるは丹後の海。車窓から見たもの以上に違い色は紺色が濃く冬を感じさせる。まだまだ秋であるが寒い冬は少しずつただ着実に忍び寄りぬ。この冬はまた一段と寒くなることを思い出し丹後の海のような気分をしていると日本三大文殊堂の一つなる智恩寺へ着いた。境内はそこまで大きくないが松の木の渋さがとても良い雰囲気を出している。私は学生。一応学問に身をささげている立場である。学問の道を進む人にとって知恵というのはとても必要なものである。そのため文殊の知恵を頂きたい身なのである。そのため智恩寺の文殊菩薩を伏し拝み文殊の知恵を頂けるように祈りをした。その後今度は木造の多宝塔を見た。木造の多宝塔というのも丹後の渋さというものがある。立てる松も多宝塔の渋さを醸し出している。その後山門を出でて山門を見れば壮大な門が凛とした門構えで立ち尽くしていた。

 左を見ればレンタサイクルをしているところがあった。聞けば向こう岸、即ち丹後一宮たる元伊勢籠神社もといせこのじんじゃ付近の駐輪場まで貸していると聞いた。たしか400円だったはずである。そして400円を支払い自転車を借りた。此処から奥の天橋立へ行く。自転車を走りすぐ左へ曲がった。すると橋が見える。これは船が来ると回転することで有名だ。生憎船はここを通らなかったので橋は黙っていたが左は阿蘇の海青く。奥を見れば与謝野の街も見えにけり。早も渡り自転車を走らす愉快さを歌うは丹後の海の青か松の緑か。真っすぐに伸び行く道の両端には松の木が並んでいる。奥はもう何も見えない。ただただ松の並ぶ道である。ただ夏と冬の境を感じるだけである。涼しい磯の風を全身で受け止めて走りゆくのは最早愉快とで片付くことのできないものである。嗚呼此処まで心地よい感覚を覚えたのはいつ振りか。松風寒き天の浮橋の上。これを見て雪舟は筆の跡を残し与謝野夫妻はお歌を詠んだ。此処は歴史的な憩いの場であり古くからある観光地である。その地を今力の限り疾走するのは耐えがたき幸せであろう。こう愉快さに酔っていたらいつしか天橋立神社に着いていた。神社と言っても壮大な拝殿だったり本殿だったりがあるわけではなく小さな祠がポツンとあるのみである。祭神はいくつか説があり明治の頃の資料では天橋立が天の浮橋という伝承に基づいているのか伊弉諾尊、伊弉冉尊と書かれており、江戸時代の資料では竜の伝承に基づいて竜神様、豊受大神、大川大明神と書かれているらしい。どちらが事実か知らないが無造作に立つ松の木の中にポツンとある祠はとても美しい。此処を参り神社を出た後に右にはおのずからなる細道が続いていた。そこを少し歩めば驚いた。丹後の海の壮大のせいか。この海に心を洗われるとまた自転車を漕ぎ始めた。漕げばすぐにスピードが出る。磯の風以外にもその時に吹く松風の冷たさが気持ちよい。最早絶頂すら覚える。この高ぶる気分を抑えて走らせると彼岸花が咲き乱れていた。松の林の中に固まって生える花火のような朱色の花にまだ夏だと沿い信じていた私も夏が過ぎたることを認めなくてはならない。少年の時代が少しずつ終わりを迎えているようで少し切ない。今年最後の花火大会を見た後に秋の風を楽しもうと漕いだ。そして天橋立の先っちょにきた。左に行けば自転車を返す場所に行けるのだが敢えて右に行った。海辺の小さな田舎町といったところだろう。観光地のような雰囲気がせず落ち着いた感じであった。住民もすぐ近くに一大観光地があることを知らないかの如く、そこに天橋立があるのが当たり前の如く生活していたのであった。そこに少し驚いたのだ。(がよくよく考えてみれば私も姫路に住んでいた時近くに姫路城があるのが当然だったし姫路城も街に溶け込んでいてごくごく普通の町並みかと錯覚していたのと似ている。)さてそんなことは置いといてそんな海沿いの街を走らせていると大勢の人が海釣りをしていた。釣り具を持っていったら…と思ったがそもそもエサがいそめちゃんもオキアミもサビキの時に使うあれもなっかったことに気づいたのであった。そしてもう一つこれ以上進んだってなにもないということを悟ったのである。そのため分岐点に立ち返りそこを今度は自転車を返すところに向かった。すこし天橋立を離れたところである夫婦がいた。夫の方が「天橋立が綺麗に見えるところに着いたよ」と彼の妻に仰せられたのを聞いて振り返れば天橋立の西側が綺麗に見えていた。その綺麗さには私も舌を巻いた。その壮大さも離れると薄くなり最終的には天橋立が見られる場所ならどこでも見られる景色というレベルになった。その場所は自転車を返却する場所になった。ボートもやっているらしく一人の男がボートを整備していた。その男に「自転車を返しに来ました」とだけ言って返した。

 そして数分歩いたら堂々と立つのは丹後一宮元伊勢籠神社である。籠神社は丹後一宮であり尚且つ元伊勢伝承をもつ神社の中で最も大きいものである。元伊勢とは神宮(伊勢神宮)ができるまでの90年間豊受大神と天照大御神を祀っていた神社のことである。さてそんなことで行ってみたら石でできたもので鳥居が新しく駐車場なども整備されていた。何か清々しさも感じられる。この鳥居をくぐり少し歩けば右に大和さざれ石という大きなさざれ石が、左には手水舎があった。手水をして右を見ると様々な石が固まっていた。少し読むに2015年に有志の方により奉納されたのだとか。恐らくだが一の鳥居や駐車場もその時に改修されたのだろう。鳥居のいつ奉納されたかを記すものを読まなかったことが悔やまれる。そして次に正面を見ると木でできた二の鳥居があった。元伊勢の名のような風が感じられる。社殿は神門の垂に隠れて見えない。しかし神門の垂が元伊勢であったことをかすかに伝えている様だった。この神門をくぐれば壮大の籠神社である。祭神は彦火明命ひこほあかりのみことで海部氏のご先祖様である。この神様は丹後の発展に強く貢献された神様という。そして海部氏は籠神社の宮司を今でも世襲されているという。また籠神社は神明造で神宮と同じ造りをしているという。私はあまりそこらへんには詳しくない訳だが素人の私でさえ格式の高い神社であることを拝殿から感じられる。凄いことである。そこをお参りして授与所に向かいお守りを授かった。紫のお守りに「元伊勢籠神社」と書かれているお守りである。それを授かって今度は奥宮の眞名井神社に行った。道中またまた彼岸花が咲き乱れて美しかった。ただそれと同時に「何回俺は彼岸花を見なあかんねん」と心の奥底から思った。他にも某赤い政党のポスターもあり「田舎だなあ」と思った。良く思案せずとも田舎への理解が偏っていると思う今日この頃。(この表現には一切の政治的イデオロギーはないことだけは伝えたい。また小生の田舎への理解は汽車しか通っておらずまたその汽車も数時間に一本だったり最寄りのコンビニまで徒歩一時間だったり人間が住めるようなところではないというような理解でありその理解の根本からおかしいものである。因みにどうせ誰もコメントしないだろうがコメント欄は治安維持法が敷かれているため注意されたし。)さて田舎への理解とかはどうでもよくいつの間にか小さな鳥居の御前に来ていた。「与佐宮奥宮眞名井神社」と書いてあった気がする。そこをくぐると急な坂道が前に来たるのだ。左を見れば400m先と書かれてあった。若干絶望しつつ登り始めた。ただ登っていくとだんだん楽になってきておのずと体が進んでいくのである。この進む力のみを頼りにして登る。登といつしか林に覆われていくのである。そして鳥居が眼前に立っていた。そこでもう私は達成感で死に絶えそうであった。しかしここより先にある未知の果てを求めて鳥居をくぐり階段を一つ一つ登った。一段登るだけでもう幸せが止まらない。達成感に泥酔したのだ。なにせ勉強はできず考査はいつも下から数える方が便利でありそのくせ要らない知識を身に着け滑舌は悪く歌も高い音が出ず音痴でで友人から滑舌とセットで馬鹿にされ運動は全くできず顔もニキビだらけで背丈は伸びずそのくせ太ももとケツはブクブクと膨らみ挙句の果てには自分の名前の漢字が常に間違えられるのである。こんな日常生活を歩んでいたらこんなちょっとした達成感で泥酔するのも納得である。さてさて愚痴を書き連ねるのもこれぐらいにしておこう。そんなことをしていたら小さなお社があった。神聖さが私を包む。その横に謎の集団がいた。カルトに入っているのか誰かに恨みがあるのか分からないがいい年したおっさんおばさんが集団で輪になり真ん中に熊のぬいぐるみを置き謎の呪文か童謡を唱えていた。しかし例の集団の目は皆輝かしく子供のような明るい目をしていた。しかし彼らが何をやっているか分からない一般的な参拝者にとってはただただ恐怖心を煽るのみであった。気味が悪く神聖なこの空間も横にいる謎の集団によりさっさと帰りたい気持ちすら表れてしまった。しかし伏し拝むときぞ気味悪さを忘れし。清々しい気分になり心を落ち着かせたり。そして拝み終わり横を見ると例の集団はまだ謎の踊りをしていた。無視して横にあると聞く磐座を拝んだ。しかし筆者は磐座好きではなく周辺の森と社殿好きであるために恐怖はふつふつと沸き立つ。お祈りを済ます足早に逃げ出した。鳥居をくぐり坂を猛ダッシュで下り坂の付け根にある鳥居まで逃げた。ふと後ろを見ても誰も追ってくるものはいない。(まぁ元々追うものは一人としていなかったから)全くあの謎の儀式をやるにしても神社仏閣では止めて頂きたい。というかやるなら家の中でやれと思う今日この頃。

 気味悪いものを見た後だが飯が食いたく思い籠神社の横にある食堂によった。私は食事代を使わずに旅間を満喫する方法を知っている。なぜならドケチだからである。その方法はうどんを頼むということだ。これは外れがない。そしていつも通りうどんを頼んだ。しかしうどんは出てきてない。後ろの丹後の海の波の色も気休めにはならない。なぜ遅いのか。それは本当に遅いのではなく自分自身がとてつもなく焦っていたからである。福知山で掴まされたフリー切符。しかしこれを800円(列車分の100円と蒸気船の700円)しか得をせずに終わっていいのだろうか?さらに言うならこの切符はいろんなところに行き金をバラまけということだろうが宮津だけで終わっていいのだろうか?そういう疑問が頭をよぎるのである。そして京都丹後鉄道も山陰本線も本数が極端に少ないのである。最悪の場合明日最寄り駅で学校の用意を貰って通学するのもありかもしれないがそれは校則違反のため好ましくない。しかし柱状節理で名を得たる玄武洞も一目見んとぞ思うこともある。グーグルマップでは成相寺、傘松公園に行きたいためそれを考慮すると夜中に帰ることになるそうだ。しかしそれでも憧れを止めることは叶わなかった。うどんがやってきたのだ。それと同時に決心はついた。豊岡に行ってやろうと私は心の中で誓った。さてうどんは後ろに見える丹後の海も相まって美味しいのである。これを作ってくれたこの食堂の人に美味しいうどんを作り私の腹を満たしたことへの感謝と先ほどまで遅く無いのに勝手に遅いと内心イライラしていたことへの謝罪の意を伝えたい。しかしうどんは実はこの店の選択肢的に不正解だったかもしれない。無論うどんはとても美味しいがほかにもっと美味しそうなのがありそっちの方が高いものの宮津を満喫できたのかもしれない。しかしこれも積み重ねだろう。積み重ねて積み重ねて私は出来上がっていく。そう私は回顧している。

 さて腹も膨れ決意を胸にケーブルカーに乗り天の浮橋もとい空の飛ぶ竜が眼前に広がり行く。こうしてケーブルカーを降り見れば日本三景の一つなる天橋立がいた。例のまた覗きをする前に神の島「冠島」と「沓島」の二島がはるかに見える。この島は籠神社の奥宮であり市杵島姫命と彦火明命が降り立ち給う場所である。そこを拝めるいわゆる拝所があった。拝みて今度こそ天橋立を望めば宮津湾を一望した。この宮津湾を背にしている天橋立は非常に美しい。世界で一番の眺めだがこれを最大限に楽しむ方法がある。それはまた覗きである。「日本三景の一つたる天橋立に亡霊船を探し出す方法のまた覗きをするとはどういうことだ?」という変なところに突っ込む人にもわかりやすくまた覗きの起源を説明したい。まずまたを覗くという行為は古には亡霊船か普通の船かを区別するのに行われていたという。つまり何を言いたいかと言ったら元から天橋立にまた覗きは存在しなかったということだ。存外ですよね。そして時代は明治の頃日本が日本たらしめる形となるころ宮津では一人の男がいた。それは吉田皆三という男である。この男は天橋立が天の浮橋であったという伝承とまた覗きをたしたら素晴らしい観光体験が出来るとひらめいたのだろう。それは宮津湾が空に見え天橋立が天の浮橋に見えることをひらめき彼は天橋立でまた覗きというものを編み出した。結果は大成功。今や国際観光地の地位を得たのである。さてこのまた覗きするならば絶対に傘松公園でするべきである。今は反対方向にあるビューランドなるものがあるが全く竜にも空に浮かんでいるようにすら見えないのである。これ以上言うとよくなさそうだがでも傘松公園の方が断然おすすめであろう。そうして傘松公園を楽しんでいるさなか二人の青年がカメラを持ってきてシャッター押してくださいと言ってきた。私に断る義理はないからシャッターを押した。一人の青年は内気で恥ずかしそうにしていたのを記憶している。またもう一組ある夫婦に話しかけられた。「また覗き何に見えますか」と問われるに咄嗟にしかし弱く「竜に見えます・・・」と答えた。その後少し会話して別れた。その後もまた覗きをしていたらふと見えたのである。何に見えたか?それは天に浮かびたる天の浮橋でなく空高く舞い上がる竜のように見えたのである。また覗きしない天橋立と根本から違いまた覗きしない天橋立は砂州が宮津湾を橋の如くつなぐという絶景と言ったところだがまた覗きをするといまにも飛び立たんとする竜の気迫が眼前に広がりとても勇ましい。

 そして天橋立を堪能すると傘松公園から成相寺までつながるバスがありチッケトを払い乗り込んだ。その後すぐバスは動き始めた山道をグネグネと登り始めた。古人は成相寺に参るためにこの山道をいともたやすく超えていったことを想像するに尊敬の念も感じられる。そして成相寺の山門を見えてそこを降りると橋立真言宗成相寺に到着である。ここは西国三十三所の第二十八番札所である。山門をくぐると左に見えるは五重塔。確か平成五年の塔とその名は言い朱を基調としている。名前の通り平成の頃に平安時代の創りの塔を再現するということで作ったらしい。また後で訪れよう。その後さらに階段を上るとやっと本堂が見えた。これを行くのもあとすこしと進むととうとう前に来たる成相寺。垂などはこの寺がどれ程の所かを私に表していた。観音様を拝むと中を少し見た。木の色ばかりである。これは私に自論だが北部に行くとお寺の木の度合いが増していく気がする。気のせいかもしれぬが。そろそろ外を見ようと出ようとした瞬間私の目においずるがあった。それを授かっていただこうと思い授与所に行き授かっていただいた。此処よりのちは人生の旅というべき西国三十三所の始まりである。観音様のご慈悲のためか片雲の風に誘われたか分からぬが私はこの巡礼も最終的に満行せねばなるまい。さて話は脱線したがこの寺の周りを歩くと鎮守社がありしたに西国三十三所堂があった。このお堂は西国三十三所のお寺の本尊様をお祀りしたお堂である。これを聞くと此処を拝めば終わる話と思う人も多いかもしれぬがそれは違うだろう。お寺まで行ってこその満行だから拝んで終わりはできない。しかし一応拝んでおいた。その後塔の所まで降りてきた。この塔を見んと欲して近くまで行きその新品の綺麗さと高さの持つ迫力が私を驚かせた。ちかくにこの塔を上から見えるところもあったのでそこに向かった。そこから見る塔も迫力と美しさは衰えることはなかった。さらにここを上へあがると展望台がありそこにも向かった。その展望台からの景色は傘松公園では味わうことのできないもので天橋立以外にも与謝野の街に大江山すらもただ一目。後ろは成相山の青々しさが夏の跡を残しており最後の夏の風を楽しんだ。そして山門の前にあるバス停でバスを待ちその後ただただと降りて行った。戻るとまた天橋立がお出迎えするのだから呆然と立ち尽くしていた。すると傘松公園に着いたときに私に話しかけてきた夫婦が今度は歳を聞いてきたから学生である旨を伝えその後会話が弾んだのであった。私はただまるで暇を持て余した神々のいたずらのように思っていた。そしてこの佳景を心に刻み、空を舞う竜と別れた。

 その後は蒸気船に乗り対岸まで渡った。たびたび来る波の色と横にある松の色が調和していたのもまた素晴らしい。蒸気船からの天橋立も力強く何があっても天橋立のみは残るように思えた。しかしその絶景も楽しむ時間も過ぎいつしか早も対岸に着く。だいたい天橋立近辺で行きたいとこ所は行けたから天橋立駅に行った。そして路線図と例の切符を見た。すると豊岡の玄武洞が何故か恋しき思えてしまい特急券をいつの間にか買っておりそのまま乗っていたのだ。そのまま特急はしだては走り出した。ただ何処に行くのかだけはわからない。天橋立を置いてどこに行くのかは分からない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ