9 ◆あの日
◆
「ティッジさん、また。一週間後に」
「また。帰り道、気をつけて」
「ありがとう」
にこりと笑って会釈し、背中を向けて足早に帰路につくレナを、ティッジは静かに見送った。建物の角を曲がってレナの姿が見えなくなる。細く吐いた息は白く浮かんで空中に溶けて消えていく。
胸の奥が小さいながらに鈍い音をたてている。
――交際したい、と思って伝えて下さった事はとても嬉しかったです。でも、どうしても気になっているんです。どうして私だったのか。聞いても良いですか?
いつもの口調で尋ねてきたが、レナの張り裂けそうな緊張は、ティッジにも正確に伝わっていた。
考えながら慎重に返事をした。
行動を起こすと決意したきっかけについては間違い無く真実であり、そのきっかけがあったからこそ、自分でも曖昧だった感情が形となって覚悟も決まったのだから。御者と客という関係でしか無かった現実ががらりと変化した事に、ティッジは大きな喜びを感じていた。
だが、全てを話す事も出来なかった。
※
今日も普段と全く変わらない。
同じような一日が過ぎて終わり、また明日も似たような一日を過ごしていく。特別な事は何もない。しかし不幸でもない淡々とした日常。
そんな日常が変化したきっかけは、恐らく二年前の秋の終わり。
とても些細な事だった。
その日、トリテ広場行きの最終便の御者はティッジだった。
ペンシャット博物館前の停留所の馬車止めに馬車を停車させて乗客を待つが、この日はトリテ広場行きに限らずどこの停留所もがらんと閑散としている雰囲気があった。祝日や休日という訳でもなく理由は分からない。しかしまれにそんな日もある不思議も、ティッジにとっては何ら不思議な事ではなかった。そんな日もあるか、とその程度の事だ。
ならば、彼女も今日は来ないのだろうか。
ふと、考えた。
夕便か最終便。
おそらく仕事帰りにいつも利用してくれて、そして必ず終着のトリテ広場まで乗車する女性の事を。一週間に一、二度は必ず会う彼女。たまに二週間以上会わないと、体調を崩しているのだろうか、引越しでもしたのだろうか、とそんな事まで考えてしまう程度には意識している客。
彼女の存在を認知してから五年が経とうとしていた。
常連の利用客や顔なじみの客は多数存在する。
しかしティッジはそのほぼ全ての客とは雑談を交わす事は無く、私的な交流に発展した相手もいなかった。
ティッジに限った話では無い。一般庶民向けの乗合馬車から貴族向けの借用馬車まで、幅広く馬車業を営むベルティ社が、御者は客との過度な私的会話や交流を控えるようにという決まりがあった。客とのトラブルを避けるために。
しかし、過度の、という基準は曖昧なもので、御者自身の判断に委ねられているのも現実だ。社交的な御者は常連客との会話を楽しむ者も一定数存在し、大っぴらにはしないだけで私的交流にまで発展している者もいる。酒飲み仲間、趣味友達、結婚する者も。会社は目を瞑っている。トラブルにならなければ黙認しているのも事実だった。
客とトラブルを起こした場合の処罰は重い。とくに貴族向けを担当している御者は決まり事を厳守している。
ティッジは夕方以降は乗合馬車を担当し、日中は貴族向けの借用馬車や辻馬車の御者を担当していた。しかし客が貴族相手の馬車も担当しているから厳守している、という訳では無い。もともと社交的な性格ではなくお喋りが好きでも得意でも無いだけで。
さすがに御者を五年も務めた今では慣れたものだが、最初の頃の評判は散々だった。睨んだつもりは全くないものの睨まれた、と苦情を言われ、子どもには泣かれてしまう。しかし馬車の運行に対しての苦情が無かったのは事実で、御者という立場から外される事はなかった。
今日は久々にここからの乗客はいないかもしれない。
腕を組んで立ったまま、時計台を見上げながらティッジは思う。
発車まで後三分をきっている。そろそろ準備をしなければと、馬車止めを外しながら屈んで作業をしていた時。
「あの! すみません」
振り返ると、ぜぇぜぇと肩で荒く呼吸を繰り返している女性が立っていた。相当急いで慌てて来たらしい。目がらんらんと光っていた。いつも終着のトリテ広場まで乗車する、おそらく自分よりも少し年下であろう女性。
立ち上がったティッジは御者帽子のツバをつまんで会釈した。
「こんばんは」
「こんばんは。トリテ広場までお願いします」
二枚のお金を受け取って確認し、ティッジは頷いた。
「確認しました。どうぞ」
「はい。ありがとう」
扉を開けると、彼女は軽く会釈して乗車した。座った途端にほうっと安堵した様に息を吐いた姿を認めた時、ティッジはわずかに違和感を覚えた。
しかしその違和感の正体が分からない。
何事も無かったようにそのまま素早く扉を閉める。御者台に戻って鞭を握り、馬車を発車させた。
……なんだ?
一週間ぶりに会ったが。いつもと様子が違う気がする。
もやもやとした感情が広がる。しかし確信はない。いつもと様子が違うからといって自分にはどうする事も出来ない。深く考える事をやめて、ティッジは冬が間近に迫った冷気に瞳を細めつつ、運転に集中した。
通常通りに馬車は進み、トリテ広場の停留所に停車する。
ティッジは御者台に座ったまま彼女が降りてくるのを待った。
停車して、箱から出てきた彼女は必ず自分を振り返って「ありがとう」と言ってから帰路につく。大半の乗客は降りたらすぐに御者を振り返らずに馬車から離れていくし、御者もいちいち気にしない。しかし彼女のように、降りた後も必ず挨拶をしてくる常連客もいる。
しかし今日はいつもと様子が違った。
いつまで経っても扉は開かず、彼女は降りてこない。
不思議に思ったティッジは、彼女を待たずに御者台を降りて馬車止めを行い箱に向かった。窓越しに中を伺う。わずかにしか街灯の光が入り込まない客室の暗い箱の中で、彼女は帽子と鞄を膝の上に置いて抱えるように持ったまま、力なく箱壁に頭を寄せてうつむきがちに眠っていた。
「お客さん。着きましたよ」
こんこん、と強めに扉を叩きながら声をかける。しかし彼女は起きなかった。ぴくりとも反応せずに眠り続けている。相当疲れているらしく、深く眠っている様子だった。
躊躇いながら眉を寄せつつ、ティッジは扉を開けた。
「お客さん、――……」
彼女の頬に濡れた後があって、今も目尻にも涙が溜まっている。
泣いた後であると同時に今も眠ったまま泣いていた。気付いたティッジは言葉を詰まらせてしまう。よく見たら暗闇でも分かる程に顔色が悪い。隈も濃く、少し痩せたようにも思う。
彼女の身に、何が?
考え込みそうになるが、扉を開け放った箱の中には容赦なく外の冷気が入り込む。このままここで眠らせ続けている訳にもいかず、しかしただの御者であり客への深入りをするつもりはないティッジは、早く彼女を起こして帰宅させる事が一番の最善だと、やっと思い至った。
相手が酔っ払いであったり明らかな病人だったら躊躇わずに触れて起こすが、さすがに年齢も近く明らかな病人という訳でもない彼女を揺すり起こす選択は出来なかった。
「お客さん。着きましたよ」
はっきりと、大きな声をかける。
ん……、と吐息のような言葉を漏らした彼女の瞼がゆっくりと持ち上がった。とろんと寝惚けた様子で、瞼が開いた瞬間に目尻に溜まっていた涙が一筋こぼれ落ちていく。明らかに疲れ切っていて、何か大きな不安でも抱えているのか。
見た事も無いほどに生気が無く、儚く消えてしまいそうな彼女の様子に、ティッジの心は凄まじい勢いで冷え込んでいった。
「具合が悪いですか?」
「……え!? すみません! 大丈夫です」
彼女は寝過ごしてしまった事にだけ気をとられていた。恥ずかしそうに大急ぎで帰り支度を整えている。自分が泣いている事にも気付いていない様子で。ティッジが扉から離れると、彼女はすぐに箱から降りて申し訳なさそうに頭を下げた。
「ありがとう」
「いいえ」
早足で帰路につく彼女の背中を見送る。彼女の姿が見えなくなるまで見送る、という事をしたのはこの日が初めてだった。具合が悪そうだったという理由もあるが、それだけが理由ではないような気もする。よく、分からない。
ティッジの知る彼女は、明るい笑顔が印象的な。そんな女性だった。
会うのは必ず夜。
仕事終わりの疲労は当然感じるが、それでも彼女はいつもこちらを見ると一瞬にこっと笑って会釈する。たった少しの時間しか見る事が無い明るい笑顔がとても魅力的な女性だと、そう思っていた。この国の民ではありふれた色である栗色の髪をしっかりと纏めて、つぶらな榛色の瞳を細めて笑顔を浮かべる彼女の事を。
そう思っていたんだ、と、五年経った今更ティッジは気が付いた。
一体何があった?
なぜ彼女は泣いていて、あんな風にやつれていたんだ。
心配しても考えても、御者と客という関係性でしかない自分には分かるはずも無かった。
この出来事をきっかけに、ティッジは今までとは明らかに違う意識を持って彼女の姿を見るようになっていた。
今まで彼女に対して客以上の個人的な興味が無かったからか、見方が変わった途端、彼女の周囲の様子も少しだが見えてくる。
停留所近くまでは職場の同僚らしき女性と来る時が意外と多い。
夕便の乗車前は配達局支店に寄ってから停留所に来る事も多い。
少し前までは年齢の離れた弟妹らしき二人が揃って、特に雨天などの天候に不安がある時に彼女を迎えにくる事があったが、最近は弟の姿がない。妹らしき人が迎えに来る事がまれにある位で、その回数も減っている。
気付いた事はその程度。
そして、あの日だけではなく、その後も二回、彼女はトリテ広場に到着した事に気付かず眠っていた事があった。ティッジの心配はつのるばかりだったが、涙を流してはおらず、あの時以上にやつれていなかった事はわずかな救いになっていた。
日々を過ごすうちに、やつれていた彼女が少しずつ元気を取り戻し顔色も明るくなっていく姿に、ティッジは勝手ながらに安心していた。理由は分からずじまいだが。
それでもやはり安心した。
じろじろと観察していると思われないように。
むしろそんな事は絶対にしないように。
普段と変わらないやり取りの中で彼女の顔色を注視する程度しか出来なかった。それだけでも今までとは違い、彼女の表情がよりはっきりと見えているような気がしていた。
さらに一年が経過しても大きな変化は特に起きなかった。
だが、気になる点はあった。
天候が悪い時は必ず迎えに来ていた妹らしき人物もついに姿を現す事が無くなった。年頃を予想しても、おそらくは学校を卒業して働きに出たのだろうと推測は出来た。そこはすぐに納得したのだが。
ここ数ヶ月。
あの時ほどでは無いが、また少し、痩せてきたような。
元気がなくなっているような気がする。
彼女はいつも一人で、足早に帰路につく。
ティッジはいつも彼女を降ろしてすぐに馬車を発車させていたが、その時は常に彼女の事を考えるようになっていた。
今は一人暮らしなのだろうか。
何の仕事をしているのだろう。
あの時はなぜ、泣いていたんだ。
支えてくれる恋人、あるいは夫は――
「……」
何を馬鹿な。
ティッジは自分の考えに対して自分で不快に思い、そして考える事をやめる。その繰り返しだった。考えるだけでは何も変わらない。行動を起こさなければ何も変化は起きない。そんな事は分かっている。
ぎゅっ、と、意味も無く鞭と手綱を握る手が力んでしまった。
『前の彼女と別れて何年経ったっけ?』
『ミハエラ。もう帰ってくれ』
『んーと……七年か。えー、その間全然女っ気ナシだろ? 新しい彼女作んないの? 結婚とか興味無い? 俺は結婚したいのにさーなぜか振られるんだよねーなんでだろ?』
『遊び呆けすぎだからだろう。帰ってくれ、明日も早いんだ』
『ちょ、おふっ。外套投げるな! これ結構良いヤツだったんだから! ――って、遊び呆けすぎぃ? 遊び心が微塵もないお前も大概だからな? 七年前の彼女に"一緒にいてもつまらない"って振られてあっさり終わったのはどこのどいつだっけ!?』
数日前の深夜。
暇だ相手しろ、と同じアパートの階上に住んでいるミハエラは酒とつまみを片手に家にやって来た。かと思えば、さっさと酒盛りを始めて興味も無いことをペラペラと喋り、話題が尽きたかと思えばティッジの過去や現状を追求したり根掘り葉掘り聞き出そうとする。
程よく彼が酔っ払ったタイミングで、ティッジのうんざりも限界に達し、少々強引に追い払う。
頻繁では無いものの定期的にそんな事がある。
普段ならば追い払ったらやれやれと就寝するが、最近は考え込む時間が出来ていた。
これから先。
交際したり結婚する未来を考えた時。
脳裏には一人の女性の姿が見えるようになっていた。オリーブ色の丸帽子を被り、榛色の瞳を細めてにこりと笑って挨拶を交わしてお金のやり取りするだけの関係の、利用客である彼女の事を。
おかしい。
なぜ彼女が出てくる。
もう六年以上も前から知っている女性でただの客だ。一目惚れをした訳でも、彼女の人柄を知っている訳でもない。むしろ何も知らない。それなのになぜ。
自分で自分の感情が迷宮入りしそうになり、ティッジはますますうんざりして、思考を強制的に止めてしまう。
その繰り返しだった。
自分で自分の事がまったく分からなくなっていた。
会社の人事異動で、三ヶ月後にトリテ広場行きの路線を外れる事が決定するその瞬間までは。