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8 きっかけ



「えぇーっ!?」

「声っ」


 仕事を終えて私服に着替えていた時。

 きらりと瞳を輝かせて大きな歓喜の声を出したアリスに、レナは咄嗟に自身の人差し指を自分の口元のあてて、静かに、と訴えた。


 食堂での夜営業を担当している女性は、厨房はレナ、給仕係はアリスの二人しかいない。他は全員男性で、しかも二人よりも年上の既婚者ばかりだ。女性用更衣室には二人しかいないのだが、あまりにも大きな声はさすがに男性更衣室にも聞こえてしまう。すみません! とアリスは先程よりも声をひそめて謝るが、その表情は満面の笑みに溢れていた。


「今日、お化粧とか髪のリボンとか。いつもと全体的に雰囲気が違うなーと思ってたら! 昼間にお食事に行ってた事にもびっくりなのに、次回の約束まで! レナさん全然その後の報告してくれないから聞いて良かった!」

「アリス、声が」

「小さい声の中の最大限の大きさです!」

 

 アリスはレナに飛びついて抱きしめる。

 レナはまたもや慌ててアリスの身体を受け止めた。


「その御者のティッジさんっていう人の事、良いなぁってちゃんと思えたんですね? やっぱり良い出会いだったんですね!」


 大はしゃぎしながら言うアリスに、抱きしめられた腕の中でレナも微笑みながら頷いた。


「うん。アリスの言うとおりだったみたい」

「感動……! レナさんが惚気(のろけ)てる!」

「次も食事に行くって言っただけじゃない。惚気にならないわ」

「違うんですよ、そういう事じゃないんです」


 おーいまだ着替えてるのか? と、鍵当番の同僚が呆れた様子で声を上げて扉越しに尋ねてくる。二人は大慌てで抱きしめ合っていた身体を離し、着替えと挨拶を済ませて店を出た。



 ペンシャット博物館前広場に向かう道中、アリスはレナに質問攻めだった。


 レナは苦笑しながら、答えられるものだけには正直に答えていく。ティッジの個人情報について伏せて、食事の時間がいかに終始穏やかで、それでも楽しかったか。珍しく自分が沢山お喋りしてしまったこと。そして喫茶店ホポンの食事やお菓子、紅茶がとても美味しく居心地が良かった事などを話した。

 アリスはいちいち感動したり、嬉しそうにはしゃいだり、反応が普段以上に大きく楽しそうだ。とくに面白い話はしていないのに、とレナは思うが、アリスがこんなささやかな話でも興奮してしまう程、普段の自分の生活はやはり地味なんだと実感してしまう。


 話せる事は案外少なく、言える事はあっという間に言い尽くしてしまう。

 しかしアリスの瞳は輝いたままで、興味深そうにレナに尋ねてくる。


「ティッジさんがレナさんの事をお誘いするに至った理由とか、きっかけって何だったんですか? 七年間、御者とお客っていう関係だけで雑談した事もないって言ってましたし。会話して人柄を把握して、っていう始まりじゃないんですもんねぇ。この場合、やっぱりティッジさんにとってレナさんの外見と雰囲気が好みど真ん中で、レナさんの事知りたくて近づきたくて七年越しの想いを胸に……とか!?」

「聞けなかった。だから分からなくて」

「えーっ、そこ気になりませんか!?」

「もちろん。食事に行く前はずっと気になってたから聞こうと思ってたんだけど。いざ会って顔を見ちゃったら、なんだか恥ずかしくて。流れに身を任せて会話してたけど、やっぱり気になるね」

「……って言うわりには、すごく冷静じゃないですか? あんまり気にして無さそうに見えますけど」

「ううん、そんな事ない。気になってるよ」


 今のアリスの予想は違う気がする。

 レナはそんな風に思いながら、笑って返事をしていた。





 仕事がある日はいつも帰宅した途端、特に大衆食堂帰りは真夜中の帰宅という事もあり、疲労と睡魔が限界ですぐに寝る支度を済ませてベッドへと直行する。しかし今日はとても珍しく眠気が無かった。

 疲労感は確かにあるのに、どこか心地良く感じる。

 レナは形見のブローチを慎重に外して軽く拭き、鏡台の引き出しを開けて、元の場所に大切にしまった。

 元気だった頃の母のからっとした明るい笑顔と、寡黙だったが優しく家族を大切にしていた父。そんな両親の面影が、なぜか今、レナの心に色鮮やかに蘇っていた。



 顔を洗って丁寧に身体を拭って、お決まりのクリームをしっかりと両手に塗り込む。少々古いが清潔な柔らかな生地の夜着に着替えてベッドに潜り込む。サイドテーブルに置いた燭台の、一本の小さな灯りを消そうか消さないか迷って、しばらくはつけたままぼうっと見つめる事にした。明日は喫茶店も食堂も出勤日だ。朝は早い。すぐに眠るべきと分かっている。


 だけどまだ眠りたくない。

 ティッジと過ごした、楽しかった時間を思い出す。今日の余韻にもう少しだけ浸っていたかった。


 ――レナさん。好きです


「っ……」


 思い出した途端に胸がどきりと騒いでしまう。

 レナは肩までかけていた掛布を頭も全て隠すように引っ張り上げて、しばし身体を折り曲げて、ただただ空気を求めて呼吸を繰り返していた。


 ――ティッジさんがレナさんの事をお誘いするに至った理由とか、きっかけって何だったんですか?


 何で。どうしてだろう。

 名刺をもらったあの日までは、ティッジという御者は他の御者と同じ存在だった。彼は御者。レナにとっての彼は本当にただそういう存在だった。


「いつから……」


 思い返してみても分からない。

 一体いつから、そんな特別な感情を持って自分の事を見てくれていたんだろう。




 *


 一度目の食事からちょうど一週間。


 この日のレナは朝からそわそわと落ち着く事が出来ずにいた。しかしその感情が表に出る事はない。周囲の人々に気付かれる事も無い。普段と変わらず仕事を黙々とこなし、ついに退勤の時間になった。今日は喫茶店も食堂も仕事の日で相変わらず身体はしっかりと疲れているのだが、まったく気にならなかった。



 最初の食事から二度目の食事までの間は十四日間。

 唯一今日だけが、レナの乗る乗合馬車の御者がティッジだという事を、互いの仕事の勤務日や時間を教え合っている時に知ったのだ。詳細は聞けておらず分からないが、やはりティッジがトリテ広場行きの乗合馬車の御者をする日は確実に減っていた。


『次回までに一度会えそうですね』


 そう言ってレナを一度見たティッジの微笑みがあまりにもやわらかくて、嬉しそうで。

 レナは強烈に印象に残っていた。どきどきしてしまって咄嗟に視線をそらしてしまった反応を後悔してしまった程。食事の時間を過ごしていく中で、今までにこりとも笑わなかったティッジが、ふとした瞬間に照れながらも微笑んでいる表情を見せてくれるようになった事がとても嬉しかった。


 ペンシャット博物館前広場に到着して停留所に向かう。

 ティッジは馬車の扉を開けてお客の乗車を促している最中だった。御者としての仕事の顔をしていて、レナが近くまで来ている事には気付いていない。

 もう長年、当たり前のように立っている御者。あぁ今日も一日が終わったな、と、帰りの馬車に乗る時の御者の姿を見て一番に思う事はそんな事だけだった。


「ティッジさん。こんばんは」


 扉をしめる大きな背中に向かってレナが挨拶すると、ティッジが振り返った。


「レナさん。こんばんは」

「トリテ広場までお願いします」


 お決まりの言葉と共に用意していたお金を渡す。ティッジもいつものように確認すると一度頷いた。


「確認しました。どうぞ」

「はい。ありがとう」


 ティッジが扉を開けてくれて、レナが馬車に乗り込む。

 閉じられた扉の窓越しに目が合うと、今日はどちらからともなく同じようなタイミングでレナは微笑み、ティッジからは目礼が送られた。足早に御者台へ戻るティッジの後ろ姿を見つめながら、そういえば扉を閉められた後もこうして視線を重ねるような事も、名刺をもらったあの日以前では考えられない事だった、と思い返す。


 名刺をもらいお互いの名を知ってから、同じ事を繰り返す日々だった日常に少しずつ起こっている小さな変化。

 ふわりと心に温かな思いが広がって、同時にきゅっとほんの少しだけ苦しくなるような。それでいてその苦しさを手放したくないような、おかしな思いが小さく弾けている。


 恋。恋人。


 今存在する大切な人達と毎日を穏やかに過ごす事が何よりも大切だったレナにとって、絶対に必要とは言えなかったものの存在。

 特別な関心も願望も無かった言葉達。

 だけど……




「わっ……」


 トリテ広場の停留所に到着して外に出た途端、冷たい風が一瞬強く吹き付けて、レナは瞳を細めて肩を縮ませた。また少し、寒さが厳しくなったような気がする。

 レナが御者台を見上げた時には、ティッジはすでに御者台から降りて馬車止めに馬車を固定している最中だった。


「今日は一段と寒いですね」


 作業しながら声をかけられて、レナは「はい」と返事をしながらティッジの元へと歩み寄る。

 立ち上がったティッジが歩みを進めるレナの元へと駆け寄ってくる。

 トリテ広場にあるわずかばかりの街灯の明かりの下。見上げたティッジの頬も耳も寒さのせいか赤くなっていた。


「風邪には気をつけて下さい」

「俺は大丈夫です。レナさんこそ、気をつけて」

「身体は丈夫な方なんですよ? でも、ありがとうございます」


 二人きりのトリテ広場。

 冷たい空気に包まれた中で、向かい合ってささやかな会話を一つ、二つ交わしているだけなのに。レナの心はじわりと熱を生み出していく。

 ティッジの視線がトリテ広場の中央にある時計台に向けられた事に気付いたレナは、握り合わせていた自身の両手にほんのわずかに力を込めて、緊張しながら尋ねた。


「一つ、お聞きしたい事があるんです」

「はい」

「この前の食事の時に、交際したい、と伝えて下さった事はとても嬉しかったんです。でも、どうしても気になっています。どうして私だったのか。聞いても良いですか?」


 息をのんだティッジの細い瞳が見開かれる。

 しばしの沈黙が流れたが、尋ねられた事に対して動揺していた訳ではないようで、徐々にいつもの冷静な表情に戻っていく。静かな眼差しでレナを見つめたまま。


「御者とお客として、レナさんと言葉を交わすどころか会うことすら出来なくなる。決まった瞬間、私は辛いと思ったんです」


 レナは少々困惑し、眉を寄せてしまった。

 一体何の話なのか。


「レナさんに名刺を渡した少し前に決まった事ですが、担当路線が変わる事になりました。トリテ広場行きの御者をするのは今日を含めて、あと二ヶ月程です」

「……え?」

「最近あまりこちらに御者として入らないのは、二ヶ月後に担当する別路線にも入るようになったからです」


 レナは動揺を隠す事が難しくなってしまっていた。御者とお客として会うのもあと二ヶ月で終わってしまうなんて。

 

「この路線が担当から外れると決定して一番に思った事は、レナさんに会えなくなるのが辛いという事でした。それで……」


 急に口ごもったティッジは、明らかに冷気とは別の理由で首や頬のあたりを赤くして、ぎゅっと眉間の皺を深めて表情も厳しくさせた。 


「全てのお客は平等にお客として接していたつもりでした。だが俺は、レナさんに会えた日は違いました。嬉しかったんだ」

「……」

「なぜレナさんだったのかと聞かれても、はっきりとは。ただ、気になっていました。明らかに疲労がたまっている様子の時は心配でしたし、元気な様子で挨拶をされると安心しました。いつから気になっていた、とは正直明言出来ません。異動の話が出てからは焦っていました。会えなくなる事が決まり、レナさんに恋人がいるかも何も分からなかったので」

「……」

「……顔が赤い」

「!」


 前回自分がティッジにかけた言葉を、照れと苦笑混じりに同じように言われてしまい、レナは大慌てで顔を横に向けて右手を添えるように口元に当てた。


 喜びと恥ずかしさ、驚き。

 様々な感情が怒濤の勢いで込み上げてくる事に戸惑って、なぜだか涙が出そうになったのは初めての事だった。




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