7 傾く心
御者という事以外は何も知らなかったティッジ・サルクスはどんな人なのか。
少しずつ知っていくと、レナは彼に対してわずかに残っていた心の壁のようなものが、溶けていくように消えていくのが分かった。
ティッジは十二歳で終了する義務教育の学校を終えてすぐにベルティ社に雇われた。
入社してからの数年間は厩や客室となる箱の管理全般をしており、その後、日中は貴族相手の借用馬車、夕方からは乗合馬車の御者としていくつかの路線を担当していた。レナの予想通り、夕方から夜間の担当がトリテ広場行きだが、違う路線の御者をしている事もあるという。入社してから成人するまでは寮で暮らしていたが、その後は会社の事務所近くにある庶民が使用する一般的なアパートで一人暮らしをしている、と。
地元はエクリト村というのどかな村で、自然豊かだが山林しか無いような静かな村だ。
実家のサルクス家は林業を生業として村の山林管理をしており、今は父と後継者の兄が村で働いていた。両親は健在で兄も十年前には結婚しており、三年に一度の間隔で村に帰省する度にとても賑やかになっている、と語るティッジの口調は淡々としていて、語られる情報は最低限だが、ただただ優しかった。
家族の事を大切に想っている事が伝わってきて、もともと何よりも一番大切なのは家族という想いが強いレナも、あたたかい気持ちで胸が満たされていくのを感じていた。
雇用は極端に少ない村であるのは事実で兄弟も多く、ティッジと姉、弟と妹の四人は全員義務教育を終えると進学はせずにすぐに職を求めてあちこちに散らばり、ティッジも就職をきっかけにこのペンシャット市街にやって来た。姉と妹もそれぞれの暮らす街で結婚しており幼子を抱えている事情もあり、近年はまったく会っていないが、たまに手紙でやり取りをしているという。
弟は王都にある貴族の屋敷の使用人として住み込みで働いていて独身という事もあり、ティッジがここ数年で一番頻繁に会っている家族は弟だと語った。頻繁と言っても一年に一回必ず会っている、という頻度だ。
食事を味わいながら、レナはティッジとの会話を心から楽しんでいた。少しばかりあった緊張も今は無くなっている。
レナはお喋りが好きだが、それは相手の話を聞く、という意味での好きだった。
家庭でも職場でも。
熱中するような趣味もこれといった特技もないレナの日常は仕事と家事しか話題がない。ささやかで平凡な日常を面白可笑しく話すようなユーモアも、残念ながら持ち合わせてはいなかった。だから自分の事を話すよりも、聞き役として会話する事の方が好きだし得意でもある、と思っている。
それは相手が女性でも男性でも関係なく。
だから、今回のティッジとの食事も、自分は聞き役に徹してティッジの話を聞きたいと思っていた。少ない時間の交流の仲で、ティッジは仕事以外の場所では人見知りする人なのでは、と思っていたからだ。レナは人見知りはしない。それならば自分から話しかけてお互いの事を話しつつ、楽しい一時を過ごしたい、と。
けれど、いざ実際に食事と会話を始めると、レナはほとんど自分ばかりが喋ってしまっている事に気がついた。
もちろん、レナもティッジに対して質問していた。彼の事を何も知らないのだから、少しでもどんな人かを知りたかった。
ティッジはあっさりと質問に対して簡潔に答えてくれて、そこで会話が終わりかけてまた何か尋ねようとする前に、ティッジが尋ねてくる――そんな事を続けていたら、いつの間にか自分ばかりが質問に答えていた。らしくもなく、面白くはないと分かっているのに、ささやかな雑談まで続けてしまう程に話すという事が楽しかったのだ。
ティッジがずっと興味深そうに熱心に話を聞いてくれているのが伝わってきて、嬉しかったから。
それにしてもやはり、喋りすぎてしまったような気がする。
いつの間にかお互いに食事はとっくに終わっていて、それぞれ食後の紅茶を飲んでいた。
「すみません、私……」
自分らしくない会話展開にレナは動揺していた。
話の聞き役は自分の役目なのだと、自然とそう思い込んでいたらしい。自分自身ばかりが話す事に罪悪感が勝手にこみ上げて、ぽろりと謝罪の言葉がすべり落ちてしまう。
「私ばかりが沢山話してしまいましたね」
苦笑しながらレナが言う。
カップをソーサーに置いたティッジは、穏やかな顔つきを消し、真剣な表情でレナを見つめていた。真剣な面差しは相変わらず恐怖心を刺激されそうになる程に怖いが、もうすっかりレナは慣れてしまった。
「俺は今日、レナさんの話を沢山聞きたいと思っていました。今この瞬間も、楽しいです」
「本当ですか? 真に受けてしまいますよ」
「真に受けて下さい。そもそも俺はレナさんの声を聞けるだけで……」
「声?」
声を聞けるだけで?
レナがカップを持ったまま反応が出来ずにいると、ティッジもしばしの間自分の言い放った言葉に首をかしげ、そしてレナが見た事も無いほどに顔中を赤くして金色の瞳を忙しなく彷徨わせた。
「先程の言葉は! 違います。いや、違わないのですが……、間違えました」
「え?」
「とにかく。俺はレナさんの話を聞くのが好きですし、楽しいです。ですから、話しすぎたとかそんな事は一切気にする必要はありません」
「……はい」
そっか。間違ったのか。
レナはどきどきしながら紅茶を口に含ませる。
ティッジも、レナが見ていて緊張を通り越して心配してしまいそうになるほど赤面しながら、もう一度カップを持ち上げて口をつけていた。
びっくりしてしまった。
嬉しい、と感動してしまうような言葉を。
同時にレナは急激に不安に襲われた。
まだ自分の年齢を伝えていない。
ティッジの年齢も聞いていない。
ティッジが気にしていないだけなのか――絶対に違う。この国において、女性に年齢を聞くことはマナーとしてよろしくない事くらい、皆分かっている。
おそらくティッジはレナが二十代後半だいう事は予想しているのだろう、と思ってはいるが、いざ年齢を明かそうとすると、縮まった距離を置かれてしまうのではないかという不安が込み上げてしまった。なぜかは分からないが好意を向けられていると実感してしまったからこそ、余計に怖くなってしまったのだ。
縮まった距離を置かれたり、離されたくない。
少しずつで良いから、もっと近づきたい。
ティッジという人の事をもっと知りたい。
「今更なんですけど。私、歳が二十六なんです」
レナが怖々と勇気を出して言うと、テーブルに視線を向けて紅茶を飲もうとしていたティッジがカップから口を離して顔を上げた。特別驚いた様子も嫌そうな様子も無かった。
「二つ違いですね。俺は二十八です」
「二つ違い……。そうですね」
ほっ、と、レナは脱力して微笑んだ。
良かった。
年齢に引っ掛かりはないんだ。
レナは心底安堵してしまった。
食後の紅茶と追加で注文した焼き菓子をお供に、レナは今度こそ余計な力を抜いて、何も心配事を抱えることなく素直にティッジとの時間を楽しんだ。
まだこの時間が終わらないで欲しい。
願っても、レナの仕事の時間が迫っていた。そろそろお会計を済ませて店を出なければいけない。
ティッジは表情や態度の反応は終始落ち着いていたが、だからといってつまらなそうではなかった。勘違いでも自惚れでもなければ同じように楽しく過ごしてくれていたのではないかと、ティッジが先程伝えてくれた言葉の通りに思ってしまう。
でも。自惚れの勘違い、という結果も当然ありうる。
今回はティッジが誘ってくれた。もし次回も食事に行ってくれるのならば自分からお誘いしても大丈夫だろうか。断られたら絶対に悲しくて、落ち込んでしまうのは目に見えているけれど。
「伝えたい事があります」
突然ティッジがそのように話し、レナは目を瞬いた。
姿勢を改めて正し、穏やかだったティッジの眼差しが急に強くなり、一体何を言われてしまうのかとレナも思わず身構えてしまう。
「レナさん。好きです」
――レナさん。こんばんは
そう言われる時とまったく同じような口調で言われてしまって、レナはあやうく「こんばんは」ととんちんかんな返事をしそうになった。
「え、っと」
「今日、こうしてお話することが出来て良かった。ありがとうございます」
「ティッジさん……待ってください」
「もちろん。待ちます。ただ、俺はレナさんと、真剣に交際したいという意思があるという事を伝えておきたかった。そのように理解してもらった上で、叶うのであればまた是非、食事を共にしていただきたいです」
こんな流れは想定していなかった。
今のティッジは何か大きな覚悟を決めたかのように冷静だ。それでも、彼の鼻や頬は先程よりもうっすらと赤くなっている。わずかながらに緊張している様子でもあって、それが伝わってくる。
思いがけない展開に驚愕しっぱなしのレナはティッジとは正反対に落ち着かず、身体が熱く、ほんの小さく指先が震えていた。言葉が喉につかえて出てこない。
喜び、混乱、不安――色んな感情がぐちゃぐちゃになっている。
男女二人きりの食事の意味、常識。
分かっていた事なのに。
はっきりと面と向かって言葉をかけられただけで、こんなにも現実を強く実感して、頭の奥が麻痺したみたいに思考がまとまらない。
言葉を失って動けずにいるレナに、ちょっと失礼します、と短く声をかけたティッジは立ち上がってどこかに向かってしまった。
一人きりになった瞬間、レナは言葉にならない悲鳴のような息が漏れそうになり、両手で口と鼻を覆って深くうつむいてしまった。
二回目の食事も行きたい。むしろ自分から誘おうと思っていたんだもの。嬉しいに決まっている。
でも。
それなのにどうして私は、さっき――。
放心気味だったレナだが、席に戻ってきたティッジに「そろそろ行きましょうか」と声をかけられて慌てて外套を羽織って帽子を被り直した。
お会計をするために財布を取り出そうとしたら、既にティッジが二人分の会計を済ませていたことを知った。先程席を立ったのは会計をするためだったのだとやっと理解したレナは、恐縮しきりで感謝の言葉を述べつつ、ますますティッジの顔を見るのが気恥ずかしくて仕方のない心地になっていた。
何事もなかったかのように平凡な会話と無言の時を繰り返して、二人はあっという間にペンシャット博物館前に到着した。
ティッジに今日の食事の事について改めてお礼を言われて、レナも同様に感謝の言葉と共に礼をした。
「ではまた。夜間の帰宅はくれぐれも気をつけて」
レナは短く息を飲み込んでしまう。
次回会う約束をしていないのに、もう会話はこれで終わりといった雰囲気を濃厚に漂わせているティッジに対して、慌てて口を開いていた。
「次はいつ食事に行く事が出来ますか?」
「――え」
誘われた事に対してとても驚いたような反応をされてしまい、レナは背筋を凍らせてしまいそうになってしまう。あのように言われてしまったら、てっきり当然のように次回の食事もしてくれるものだとばかり思っていた。違ったのだろうか。
「あの、次は私が行ってみたいお店に。ぜひ」
「……良ろしいのですか」
「もちろんです。駄目でしたか?」
「まさか!」
大きな声で言われて、レナがびっくりして目を丸くすると、ティッジはまたもや恥ずかしそうにぎゅっと口を閉じて首の後ろを掻いた。耳の縁が赤く染まっている。
「店を出る前に、早まって告白をしてしまった事を申し訳なく思っていました。返事を急かしているつもりは無いのですが、早速誘ってしまうとレナさんにとって負担になってしまう」
「負担だなんて。全然思いません」
「……」
「……顔が。真っ赤……」
呟くようにレナが言うと、ティッジは自身の大きな右手で顔の上半分を覆って、逃げるように横を向いてしまう。口元は歪んでいるのに、反応は明らかに歓喜で満ち溢れていた。
レナはそんなティッジの反応に同じように照れつつも、たまらなく嬉しく感じて、胸が高鳴ってしまっている。
ティッジの事を何も知らなかった七年間は、大柄な体格のせいで威圧感がある強面の御者、という印象だけだったのに。今ではすっかりそんな印象を持っていた事が信じられないほどに、彼に対して親しみの感情を寄せてしまっている。
誰に対しても抱いたことのない感情が、確かに胸の奥で芽生えている事を、レナははっきりと自覚していた。