6 喫茶店
毎日利用するペンシャット博物館前広場の停留所で馬車を降りたレナは、早速約束の博物館前へと歩みを進めた。
親族や職場の男性以外の異性と二人きりで外食するのは初めての事だからか、ペンシャット博物館が見えた途端、急に現実味を帯びてしまった。ばくばくと心臓が飛び出してしまいそうな程に緊張してきている。
御者服の姿しか見慣れていないティッジの私服姿ですぐに見つけられるだろうかと心配していたが、レナはすぐに気付く事が出来た。
しかし足は止まってしまう。
帽子は被っていないが、髪型は普段と同じだった。
シャツに焦茶色の外套を羽織り、黒のズボンという落ち着いた服装のティッジは、険しい表情で御者服を着た別の男性と何やら会話していた。二人は顔見知りらしく、厳しい表情を浮かべながら会話するティッジとは対象的に、相手の御者はにこにこと笑っている。恐らくティッジと年齢はそれほど変わらない御者は、筋肉質で大柄なティッジとは正反対でしなやかな細身の体型をしていた。
ひとまず二人の会話が終わるのを待ってみようと思ったが、ティッジの視線が御者から逸れて目が合った。眉をひそめていたティッジの表情は、途端にもっと険しい表情に変化していく。まったく嬉しそうな様子ではない表情。レナは怯みそうになったが、彼は睨んでいる訳ではない、という事は分かっている。
「レナさん。こんにちは」
はっきりとティッジが名前を呼んだ途端、御者の男もびっくりした様子でティッジの視線の先にいるレナへと向けられた。女性の登場にとても驚いた様子の御者は、早速ティッジに「え、誰?」と質問攻めにしている。
急に二人の男性に視線を向けられてレナは少しだけ反応が遅れてしまったが、止めてしまっていた足を動かして人混みを縫うように進んで駆け寄った。
「こんにちは。仕事のお話の途中ですか? 時間を……日を改めた方が良いですか?」
レナが心配して尋ねると、ティッジは苦々しげな表情のまま即座に「いいえ」と小さく首を振った。
「ただの雑談です。行きましょう」
興味津々な様子で自分を見つめてくる御者を見上げていたが、大きな手のひらが躊躇いがちにそっと背中にまわされた途端に、意識はそちらに向いてしまった。ティッジはすぐさまこの御者から離れたいらしく、ずっと難しい表情のままだ。背中に回されたティッジの手によって導かれるように御者に背中を向けた時。
「おーい待て、無視はやめよう」
「離してくれ」
「紹介してよ。ティッジにこんな綺麗な女性の知り合いがいるなんて聞いてないんだけど?」
首だけを動かしてチラリと振り向くと、御者の男は笑顔のままティッジの肩をがっちりと掴んでいた。その笑顔からは気迫が感じられた。紹介してくれるまで離さないよ、という気迫が。
女慣れしているらしい彼は、レナと目が合うと人懐こいようにニコッと笑みを向けてくる。困ってしまったレナも小さく愛想笑いを返していた。
逃げられない、と判断したらしい。
ティッジは渋々といった様子でレナの背中から手を離し、もう一度御者と向き直った。
「……レナ・ウィナさんです」
「レナさん? 初めまして。ミハエラ・イークスです」
「ミハエラさん。初めまして」
「ティッジと同じベルティ社で御者をしてて、彼とは幼馴染みという間柄でもあるんですよ。地元が同じで。彼の兄と俺が同い年でっていうのもあって俺にとっては弟みたいなものなんですけど、御者としては彼が二年先輩っていう事情もあって――」
「腐れ縁です」
「えっ、勝手に腐らせないでよ」
ティッジはげんなりとして様子でミハエラを見据えている。
ミハエラはけらけらと一笑いしたあと、もう一度レナを見てにこりと微笑んだ。
「ティッジが休日にここにいるのが珍しくて、つい声をかけてしまったんですが。なるほど、レナさんとの約束があったからなんですね? お邪魔虫は退散して仕事に戻ります。レナさん、楽しい一日を」
「ありがとうございます」
御者帽子のツバを軽くつまんで左目をパチリと閉じてウインクまでしてくれるミハエラという人は、ティッジとは何もかもが違っていた。
とても気さくな人だ。ティッジと同僚で幼馴染みという関係を教えてくれた事もあり、警戒を膨らませかけたレナも少々安心して素直に礼を述べた。
「邪魔したな、ティッジ。後で詳しく聞かせてもらうから」
「……ミハエラ」
嫌そうにミハエラの名を呼ぶティッジを完全に無視したミハエラは、もう一度レナに「では、失礼します」と愛想良く挨拶をすると、そよ風のごとく軽やかな足取りで持ち場の停留所へと戻って行った。
「……すみません。到着早々に騒々しく」
「いいえ。仲が良いんですね」
「違います」
頑なにミハエラとの仲を否定するティッジがおかしくて、レナは口元に右手をあてて小さく笑ってしまう。ミハエラと話す時のティッジの砕けた口調や態度はレナにとってはティッジの見た事のなかった初めての一面で、よほど親しい間柄なんだろうなと、そう思った。
ティッジを見上げると、彼はいつものように気難しげに、そして少々困った様子で立ち尽くしている。
心許なそうな、不安そうな。
どうしてかそんなティッジの姿がレナには可愛らしく見えてしまった。
「今日は誘ってくださってありがとうございます。行きましょう?」
レナが言うと、ティッジはぐっと口を強く引き結んだ。
みるみる頬を赤くして照れたようなティッジの反応に、レナもつられるように頬を染めてぎこちなく微笑んだ。
*
天気や街の様子など、平凡な会話をしながら徒歩で十分程。
ティッジが選んでくれていたお店は、レナは初めて来た喫茶店だった。
外套と帽子を脱いでそれぞれ椅子にかけて着席したレナは店内をまじまじと眺めてしまう。
内装などはレナの勤めている喫茶店ファレルよりもシックで落ち着いたデザインのインテリアでまとめられている。利用する客層も、老若男女幅広く家族連れや若い人も多く賑やかな雰囲気があるファレルとは違い、ここ喫茶店ホポンは一人客と二人客が半々ほどの割合だ。かといって静かすぎるという事もなく、ほどほどに会話の声や笑い声、物音も聞こえてくる。入店してすぐに、レナはこの喫茶店がとても居心地良く感じていた。
普段は職場と配達局支店、そして必要な買い物をするための商店以外のお店に行く事は滅多にない。そもそも外食は久しぶりでとても新鮮だった。
メニューを開いて、職業病もあるせいか、何を食べようかとじっくりと悩んでしまう。
ファレルと似たようなメニューがやはり多いが、日替わりメニューや季節限定メニューなど、気になるメニューも多い。真剣に考えてやっと決めた時、ずっとティッジが無言のまま静かに待ってくれていた事に気がついた。
「すみません! 長々と悩んでしまって」
「いいえ。ゆっくり選んでください」
「もう大丈夫です。やっと決める事が出来ました」
ティッジは苛立った様子はまったくなく落ち着いていた。むしろとても優しい眼差しで、見守るように見つめられていて、レナはますます気恥ずかしくなってしまう。
注文を終えると、何か考えた様子でしばし沈黙していたティッジは、やがて口を開いた。
「以前いただいたクッキーの事ですが」
「はい」
「レナさんのお世話になっている方というのは、喫茶店ファレルの店長ですか?」
二人きりで食事に行くことを了承した時点で、自分の身の上話や仕事の事などは誤魔化したりはせずに話す事も決めていた。
けれどまだ何も言っていないのに、どうして。
驚きと戸惑いでレナが言葉に詰まらせてしまっていると、ティッジはそんなレナの反応に困ったように眉を下げた。
「詮索するような聞き方をして申し訳ない。事務所から近いのでファレルには同僚とたまに行くんです。マルコさんとは挨拶もする関係なのですが――」
「店長と?」
厨房業務が主のレナは、勤務歴は長いが接客に入る事は滅多になく、顔なじみのお客という存在が無かった。まさかティッジがファレルの常連客で、しかもマルコと挨拶もする程の親しい関係だったとは知らなかった。
親しい、と言うよりも、マルコは人当たりがとても柔らかいだけではなく、自分からお客に話しかける事が多いと聞く。
ティッジから声をかける事は考えられず、恐らく何らかのきっかけでマルコがティッジに声をかけた事がきっかけで挨拶するようになったのだろう。
「ファレルでは紅茶を頼むと必ず二枚のクッキーがつきます。レナさんからクッキーをいただいた後に一度だけファレルに行った時に全く同じクッキーが出たので。まさか、と」
「……そうだったんですね」
「マルコさんにはレナさんの事は何も聞いていません。ただ、このクッキーはマルコさんが考案されたのかと聞いてみたら、そうだと言っていたので」
「はい。私、喫茶店ファレルの厨房で働いています。よほどの事情がない限りは接客には全然入らないので、まさかティッジさんが定期的に来店されている事は知りませんでした」
「ファレルの厨房で……」
ティッジは納得した様子で一度頷いたが、しかしやがて「ん?」と眉間の皺を深くした。
「ファレルの閉店は夕方ですよね?」
「はい。夕方から夜の時間は大衆食堂ミレーの厨房で働いています」
「ミレーの? ……あそこか、知っています。ずっと二カ所を掛け持ちされていたのですか?」
「はい」
「では、まさか今日の夕方からの用事というのは食堂の仕事を?」
「はい」
「それで……食堂の仕事がある日の馬車の利用時間が最終便で、ファレルの仕事のみの時が夕便、という事ですか」
「その通りです」
ティッジは全て納得した様子ではいるが、険しい表情のまま心配そうな色を浮かべている。かける言葉に悩んでいるのは明らかだった。
レナは慣れていた。
自分の住んでいる場所と職場までの距離はそこそこ遠く、しかも仕事を掛け持ちしていて勤務日が重なる日も多い。自分の生活サイクルを説明すると、ほとんどの人は真っ先に体調を気遣ってくれる。そんな働き方の生活が出来るのは若いうちだけだ、いつかきっと身体を壊すぞ、と。
しかし体力には自信がある。しっかりと両立したいからこそ睡眠と食生活には気をつけているし休日もちゃんと休養にあてている。どちらの店長も、もう既に感謝しきれないほどに勤務日数においても定期的に相談に応じて貰っていた。
どうしても、今の生活を手放す事が出来ない。今ある全てを大切にしたい。家族に安心してもらいたいし、何かあればすぐに助けたい。自分は生活に困ってはいないし元気だという事も証明したい。
一人でも大丈夫。
ちゃんと生活していける、と。
「私は今の仕事も職場も好きなんです。どちらも長くお世話になっている場所で、待遇の面もきちんとしています。すごく恵まれているんです。休日はもちろん、しっかり休んでいますから。だからティッジさん、そんな風に心配した顔をしないで下さい」
ティッジは何か言いたそうだが、かける言葉に迷いがあるのか慎重になっている様子がある。ますます険しい厳つい顔つきでまっすぐにジッと見つめられ続けてしまい、レナも困ってしまい視線をテーブルに下げてしまった。
「……俺は、」
「お待たせしました」
ティッジが口を開いた瞬間、店員が注文していた品を運んでくる。
レナが頼んだパンとごろごろ野菜のシチューのセットと、ティッジが頼んだパンと煮込み野菜と鶏肉のスープのセットが手際良くテーブルの上に並べられていく。
美味しそうな香りに包まれて、レナは急に自分が空腹だった事を思い出した。しかし同時に、ティッジが何かを言いかけていた事を思い出す。尋ねようとして視線を食事からティッジに向けると、彼は落ち着いた様子で小さく首を振った。
「冷めてしまう前に食べましょう」
「でも。さっき何か言いかけていましたよね?」
「先程は……レナさんご自身の事を、知り合って間もない俺に対して教えてくださった事に礼を。まだほとんど話したこともないような俺にご自身の事を話す事を躊躇われるのは当然だ」
「いいえ。今日はちゃんとお話しようと思っていたので」
レナは目の前に並べられた美味しそうな食事達をもう一度見て、満面の笑みを浮かべた。
「ホポンがこんなに美味しそうな料理を提供する喫茶店だと知る事が出来て嬉しいです。私一人じゃ絶対に来る事はありませんでした。連れてきてくれてありがとうございます」
レナが言うと、ティッジは何度か目を瞬いたあと、「こちらこそ」と言って微笑んだ。
ほんのわずかに目尻が下がって、口角も少しばかり上がっただけの小さな変化。ティッジの厳つい無表情や険しい表情、愛想の無い鋭い睨みをきかせたような表情ばかりを見慣れてしまっていたレナは、不意打ちの微笑みに大いに驚いてしまった。
見惚れてしまった気がする。
……ううん、驚いただけ。
レナは自分の頬に熱が集中している事に気付かれたくなくて、落ち着くまでの間、不自然に思われてしまう事も覚悟の上でずっと料理だけを見つめていた。