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5 前を向いて



 帰宅したレナはすぐに帽子と外套を脱ぎ、鞄を椅子の上に置くと、ティッジからお礼にと言われて渡された茶色の封筒を取り出した。

 一緒に食事に行く日を決めた後はすぐに別れてしまったため、結局ティッジの前で封筒の中身を見る事は無かった。


 封筒から中身を取り出して、レナは思わず笑顔を浮かべていた。


「わぁ……! 可愛い」


 入っていたのは二種類の便箋。

 一つは小さな雪の結晶柄のスタンプが便箋の四隅に施され、もう一つはクロッカスの花のスタンプが便箋上部の中央に施されていた。どちらの便箋も十枚ずつ入っていて、紙質も普段レナが使用している便箋よりも少々良質なものらしく手触りも滑らかだ。


 レナは弟妹、親戚、友人に頻繁に手紙を書く。


 ペンシャット博物館前広場のすぐ近くにある配達局支店にもよく通っている。


 食堂の仕事は休みで喫茶店の仕事だけがある日の時などには、配達局支店に寄って手紙や小包を出したり、同時に安価な便箋や封筒も買ってから馬車の停留所へ向かい帰宅するのだ。停留所から配達局支店はよく見える場所にある。もともと七年間もの顔見知りであるティッジは、理由は知らずともレナが頻繁に配達局支店に出入りしている事を知っていても不自然ではない。よく手紙を書く人、と、そんな印象があったのだろう。律儀にお礼のものを用意してくれたティッジは、いつ会えるかも分からないレナに対し、いくら甘い物が好きという情報を得ても食べ物を渡すという選択肢は躊躇した結果が便箋だったのかもしれない。


 まさかこんなにも素敵な物を貰ってしまうなんて。


 レナは便箋を大事に文机の上に置くと、鞄掛けに鞄を戻しつつ手帳を取り出した。

 文机の引き出しからペンとインクを取り、腰を落ち着けた後、ティッジと一緒に食事に行く日である一週間後に丸をつける。『十一時、ペンシャット博物館前』とメモを書いた。この日のお昼に一緒に食事をとる約束をしたのだ。喫茶店の仕事は休みだが食堂の勤務日でもあるため、お昼を食べた後、夕方より少し前には解散する予定になっている。


 手帳から視線を外し、もう一度便箋を見つめる。

 自分は世間知らずでも鈍感でもない。そう思っている。

 だからこそ、ティッジからの今回の食事のお誘いの意味は、大人としてきちんと理解しているつもりだ。余程の事情が無い限り、多分。自分の解釈は間違ってはいない。


「――っ……」


 レナはペンを置くと、そのまま文机の上に両腕を置いて突っ伏してしまった。

 やっと落ち着いていたはずの心が、またもやどきまぎと暴れ出している。落ち着いて、落ち着いて、と自分自身で念じるものの、人生初めての事態にやはり動揺してしまっているのは間違い無かった。


 食事に誘ってくれた時。

 予定を話し合っている時。

 今までと変わらず、ティッジは終始とても緊張しているのは明らかだった。


 仕事中や、明らかにお客と御者としてのやり取りの時はとても冷静で落ち着いている。それどころか大柄な身体付きでニコリとも笑わない、怒ったような表情も相まって恐い人だと思っていたのに。レナとティッジという人と人の会話になると、途端にいつも彼は緊張で張り詰めた様子で、しかし丁寧に向き合ってくれる。

 ただ単純に何か用事があっての接触ならば、恐らく彼ならばあんな風に緊張したりはしない人だと、そう思う。

 考えられる理由は一つしか浮かばない。


 ティッジはレナ(自分)に好意を抱いてくれている。

 理由もきっかけもさっぱり見当がつかないのだが、おそらく。きっと。


「……自惚れなのかな。……えぇ? でも」


 お誘いを迷わず了承したあの時の自分の勢いと気力はどこへ消えてしまったのだろう。


 異性を二人きりでの食事に誘うという事は、つまり、そういう意味に捉えられる。


 これはこの国の大人の男女交際のきっかけとしての常識。

 恋愛どころではない生活をおくっていたレナには今まで一度も縁の無かった話で、誘う事も誘われる事も経験した事が無かったが、さすがに常識はきちんと心得ているつもりだ。


 お誘いの了承も、「私もあなたの事が気になっています」という意思表示になる。


 異性との二人きりの食事は三回までは知人、あるいは友人としての関係でお互いに熟考期間として受け止められる。この三回の間に、今以上の関係の発展は無いとどちらかが判断した場合は、今後の二人きりでの食事の誘いはきっぱりと断る事がマナーだ。

 しかし、どちらも四回目の食事を了承した場合。

 この時点で二人の関係は友人、知人ではなくなる。お互いがお互いを恋人としての共通認識を持つ事になるのだ。この国では、結婚の意思確認の時は互いに言葉が必要だが、恋人という交際の始まりは言葉ではなく食事回数のみで決定する。


 レナは二十六歳という大人の年齢になって初めて、男女交際のきっかけの常識という世界に足を踏み入れてしまった。


「……」


 のろのろと顔を上げたレナは椅子の背もたれにかけていた羽織りを手にとると、自分の身体を包み込むように肩にかける。そしてそのまま両手で自分の身体を抱きしめた。


 大きな不安、恐怖心。

 大きな期待、高揚感。


 色々な感情がごちゃ混ぜになって自分の心が渦巻いている。

 そう。まだ始まったばかり、スタート地点に立ったばかり。一緒に食事をするのも次回が最初で最後になるかもしれないし、もしかしたら三回行く事になるのかもしれない。お互いがお互いをまだ何も分からないのだから、どう転ぶかなんて分からないのだ。


「……ティッジさんに感謝ね」


 そっと便箋に右手を伸ばす。

 しっとりとした滑らかな手触りに、レナは小さく微笑んだ。


 レナ自身、新しい人間関係を築く事に対してはどうしても慎重になってしまう(たち)だ。今の暮らしに対して不満を持っていなかったから尚更、新たな人や世界との交流に対して億劫になってしまっていた。人見知りはしないしお喋りは好きなのだけど。


 だが、ティッジに声をかけられ、しかも食事に誘われて。

 戸惑い、今も尚疑問も尽きない。しかしまっすぐに向き合ってくれる事がこんなにも嬉しいものだという事を、レナは今頃になって初めて知ってしまった。


 たとえ三回も食事に行く事もない、短い縁だったとしても。

 今のこの、感じた事のない気持ちは決して忘れたくない。

 こんな感情の存在を教えてくれたティッジに対して、レナはすでに感謝の想いを抱いていた。





 どうしよう。

 むしろどうしてここに気が回らなかったの、私。


 レナは激しく後悔してしていたが、もうどうしようも無かった。


 ティッジと二人きりで食事に行く当日。

 クローゼットを開けて普段通りに服を取ろうとして、ぴたりと手が止まってしまった。中にあるのは紺色、濃淡の違いがあるだけの茶色、黒、気持ち程度の白い服が並んでいる。普段使い用として二着ある外套も紺色と茶色だ。

 見事なまでに暗い色ばかりしかない。

 いわゆる、ちょっとしたよそ行きに使えそうなお洒落着と言えるような服が何もなかった。

 あったとしても友人や親族の結婚式に参加するために使用したものしかなく、食事に行くためだけに着れる物では無い。普段毎日のように使用している落ち着いたオリーブ色の丸帽子だけが、少々華やかな色合いをしている、としか言える物が無かったのだ。


『お姉ちゃん、また茶色の服ー!? 髪色と被っちゃってるじゃない。もったいないよ! もっと違う服を着ようよ』


 サラサが常に文句を言っていた事を鮮明に思い出す。はいはい、と流し聞きしていたが、お洒落に敏感なサラサの言葉をもっと真面目に聞いておけば良かったと今になって反省した。しかし出勤したらすぐに着替えてしまうし、休日も買い出し以外は家の事ばかりの日々で、そもそもお洒落に興味も無かった。


 結局レナは諦めて、普段の通勤着とまったく変わらない服の組み合わせを手に取った。


 襟のついた白のブラウスに、紺色の(くるぶし)丈のスカート。しかしあまりにも日常的で地味すぎた。誘ってくれたティッジに対してこれでは失礼すぎる、と焦り、しばし考えたレナは鏡台へと向かった。

 鏡台の二段目の引き出しを開ける。

 中にしまってあるのは母の形見であるネックレスとブローチだ。

 数は少ない。ネックレスは二つ、ブローチは三つ。たまに思い出した時に見つめるだけだった形見だが、レナは祈るようにそっと両手を組み合わせて目を閉じた。


「借りるね、お母さん」


 母はお金に関して堅実な人だったが、サラサのようにお洒落が好きだった人だ。お金をかけず、しかし気に入った服やアクセサリーを大切に使う人だった。もしも今も健在だったら、あまりにも地味すぎる自分の装いを見て嘆かれてしまっていたかもしれない。

 しばし母を想って黙祷し、レナは一つのブローチを手にとった。

 小枝にとまっている小鳥の姿がデザインされた、可愛らしいブローチだ。

 左側の襟の端にブローチをつけてみる。鏡で確認してみると、普段と変わり映えのなさ過ぎる自分の装いが一気に華やいで見えて、レナはやっと満足した。


 鏡台の椅子に座って、丁寧に化粧を施していく。

 肌色を整えて、普段滅多に塗らない頬紅や口紅も塗っていく。慣れていないため、失敗しそう、という心配もあって色は気持ち程度としか言えない程に薄い色使いだが、何もしないよりは良い筈だとレナは自身に言い聞かせていた。


 髪を丁寧に梳かして、髪型をどうしようかとしばし悩む。

 散々悩んで、結局いつもと同じ髪型にしてしまった。夕方からは仕事もある。その事情も考えても、やはりあまり凝った髪型をするのは躊躇ってしまった。

 長い髪をしっかりと結って、くるりと一纏めにするお決まりの髪型。いつもと唯一違うところは普段よりも丁寧に慎重に結った事と、リボンを巻き付けた事くらいだ。当然、リボンの色は深緑色と落ち着いた色合いで飾るように巻き付けた訳では無く、本当にただ巻いただけだ。しかし栗色の髪にリボンは良いアクセントになっているように思った。普段とは違う特別感があるように見える、気はする。自己満足だが。


「うん、良いかな?」


 鏡をジッと覗き込む。


 気のせいだろうか? 普段よりもとても自分が元気そうに見える。

 間違い無く緊張しているし不安もある。

 でもそれ以上に、今日という日をとてもわくわくした気持ちで迎えている。早く会いたいな、とそんな風に考えている。


 お礼の便箋を貰って約束の今日までの一週間、ティッジと会う事は無かった。ティッジ自身から、業務の関係で顔を合わせる回数は確実に減ります、と言われていたからだ。今回も含めて以前九日間も顔を合わせなかった事も、ティッジの業務変更の関係だったのかもしれない。



 レナは外套を羽織って丸帽子を被り、外出用の肩掛け鞄を持った。

 貴重品とハンカチを入れた鞄の中に、書棚から手紙を取り出す。配達支局店に持って行く予定の手紙は、弟のマーク宛てに書いたものだ。


 以前マークに宛てて書いた手紙の返事が、レナも驚く程早く届いたのだ。サラサの帰省と合わせて自分も帰省出来るように調整するよ、という嬉しい返事だった。レナは早速マークに返事を書いたのだ。

 いつもは何も飾り気の無い、シンプルな便箋しか使った事が無かった。しかし今回の手紙はティッジから貰った綺麗な便箋を使用している。季節は冬も近いため、雪の結晶柄の便箋で書いた。綺麗で書き心地の良い便箋に文字を書くことはこんなにも楽しいんだ、と感動しながら書いた手紙。

 レナにとっては今回の手紙は少々特別なものだが、サラサはともかく、弟のマークは便箋の変化には絶対に気付かないだろうな、とレナは思いながら苦笑する。


 けれど、マークはレナにとって大切な家族。

 素敵な便箋を使って手紙を書けることは幸せな事だった。

 大事な手紙が折り曲がったりしないように、しっかりと手帳に挟み込んで鞄へとしまう。


「――よしっ」


 準備は、全て終わった。

 今日が素敵な一日でありますように。


 家の戸締まりを済ませて、レナは少しだけ緊張しながらも、前向きな気持ちで待ち合わせ場所のペンシャット博物館前へと向けて出発した。



 

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