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3 甘いもの


 うそ……


 遠目に見えた御者の姿にレナは思わず目を見開いた。

 最後に会ってからまだ三日しか経っていない。会えない可能性の方が高いと思っていたティッジが乗合馬車の横に立っている。お客とお金のやり取りをしていた。

 しばしポカンと驚き、しかしレナは慌てて停留所へと小走りした。



 トリテ広場行きの乗合馬車の定員は六人。

 食堂帰りである最終便の利用者は少なく確実に乗ることが出来るが、喫茶店帰りの馬車はまれに定員オーバーで都合の良い時間に乗る事が出来ず、待たなくてはいけない時がある。

 普段ならそれ程気にしないのだが、せっかくティッジがいたと分かってしまうと、どうしてもあの馬車に乗りたい。もし甘い物が好きならクッキーを渡したい。


「あっ……!」


 乗客の乗車を確認して扉を閉めたティッジは満員を示す白いカードを扉の取っ手部の下にあるケースに差し込んだ。発車定刻まであと十分もあるが、今日は珍しく満員になるのが早かった。

 停留所へと小走りしていた足を止めて、レナは街路樹の陰に隠れるように移動した。


 馬車は定時運行。満員になったとしても定刻になるまで発車しない。挨拶程度ならば会話は可能だ。分かってはいるのだが。

 お金を払って乗車する、その()()()に少し話して喜んでもらえそうならクッキーを渡したかっただけなのだ。クッキーを渡したいがためだけに近づいて挨拶をするような、そんな気安い関係性ではない。


 うーん……やめておこう。

 乗車しないのに話しかけられても迷惑だろうし。


 少々残念に思いながらもレナがもう一度なんとなく乗合馬車の停留所へと視線を向けた瞬間、どきりと心臓が跳ねた。

 ティッジと目が合ったのだ。

 街路樹の隅に隠れるように立っていて、停留所まではそこそこに距離はあるのに。夕方の今は丁度帰宅時間で多くの人々がごったがえしているのに。勘違い? かと思ったが、あまりにも真っ直ぐに逸らされる事無く向け続けられる眼差しは、間違いなく自分を見つけて捉えているという現実を物語っていた。


 やめておこう、と決めたはずなのに、レナはティッジの眼差しを無視する事は出来なかった。

 話しかけても、大丈夫だろうか。

 迷いながらも結局停留所へと歩みを進めてしまう。もう、歩いて向かってしまったからには勢い頼みだ。



「こんにちは。レナさん」

「! こんにちは」


 御者帽子のツバをつまんで会釈してくれるティッジに、レナは少しだけ驚いた。教えたばかりの名前をきちんと覚えてくれただけではなく、早速呼んでくれるなんて。


「すみません。もう満員なんです」


 ちらりと白いカードに視線を向けて言うティッジは、すみません、と言いながらも、ちっともすまなそうな態度ではない。事実を淡々と述べているだけの態度は彼の通常運転の姿だ。前に見た緊張していた様子は幻だったのだろうか、と思えてしまう程に一気に壁を感じてしまい、レナはここまで来てしまった事を後悔しそうになった。やっぱりただ仕事の邪魔をしてしまったような気がする。

 でも、もう来てしまったのだし。


「次の馬車に乗って帰ります。ティッジさんは甘い物はお好きですか?」

「甘い物?」

「お世話になっている方にクッキーを沢山いただいたんですけど、一人で食べるにはとても多かったんです。もしお好きでしたら、少しですけど是非貰ってくれませんか?」


 鞄から三種類のクッキーが入った小さな紙袋を取り出して控えめにティッジに差し出して、ちらりと彼の表情を見上げてみる。

 金色の細い瞳を見開いて薄く唇が開いている。

 素直に驚いた表情を浮かべていた。そんな表情を見たのは初めてで、レナも驚いてしまって彼の表情から目を離せなかった。


「……――です」


 あまりにも声が小さく、しかも掠れていたため、レナは聞き取る事が出来ずに瞳を瞬かせた。


「あの……」

「甘い物は、好きです。ありがとうございます」


 そう言って紙袋を受け取ったティッジは、素早く腰に下げている黒革の鞄にそのまま紙袋をしまい込んだ。レナはそんなティッジの様子――彼の耳に目を奪われた。


 ティッジの耳がりんごのように真っ赤に染まっていたから。



「レナさんは甘い物がお好きなのですか」

「はい。大好きです。けど、あまりにも量が多いとさすがに困ってしまって。この鞄の中の半分以上は今はクッキーが入っているんですよ」


 いつもより膨らんだ肩掛け鞄を持ち上げてティッジに見せると、二人の間に甘い香りがふんわりと香った。


「お世話になっている人、というのは」

「とても親切な、……優しい方です」

「……そうですか」


 職場の店長です、と言ってしまうと、どこにお勤めですか、という流れになってしまいそうで、レナは苦笑しつつも少々歯切れ悪く答えてしまう。クッキーのお裾分けは出来たのに、まだ職場を明かす勇気はなかった。


 ティッジとの距離感はこのままにすべきなのか、少しずつ広げて良いものなのか。

 日常の限られた小さな世界で穏やかに過ごしていたレナには、たった一人の人との新しい関わりが、特に男性との関わりが職場以外では皆無だったため、判断の基準が分からなかった。

 二十六歳で独身、という己の立場の現実もある。この国ではとても肩身の狭い現状に置かれてしまっている。しかしそれは何よりも家族を優先したいという意思で日常を過ごした結果だ。狭いけれど安心できる世界を大切にしたいからこそ、新しい人との関わりは少々の勇気がいる。


「では。そろそろ発車の準備をしますので」

「はい。すみません、お邪魔してしまって」

「いいえ。……邪魔などと。思うわけがありません。クッキー、ありがとうございました。安全にご帰宅を」


 そう言って会釈すると、ティッジは素早く馬車止めを解き、御者台へと上がっていく。もう一度レナを見下ろして小さく目礼したかと思えば、鞭を持って馬車を動かして発車して行ってしまう。

 レナは停留所に一人で立ち尽くしたまま馬車を見送っていた。


「……邪魔などと思うわけがない……」


 さらりと凄い事を言われてしまったような、そんな気がする。

 深い意味はあるのだろうか、と思ったが、ティッジは普段と変わらない様子でその言葉を述べていた事に気がついた。

 危ない。

 深い意味なんてある訳がないわ。


「深い意味、って」


 どういう意味?


 レナは、らしくもなく、あり得ない可能性を自然に考えていた事に気付いてしまった。顔がとても熱い。こみ上げる恥ずかしさと居たたまれなさに襲われて、レナは顔をうつむかせて小さく右手で顔をあおいだ。

 自惚れも(はなは)だしい。彼とは何年も前からの顔見知りだし、卑下するつもりではなく真実に自分は特別な美人ではない。健康だけが取り柄で仕事だけしか頭にない面白みもない平凡な人間だ。だからあり得ない。絶対に。





 帰宅したレナがポストを開けると一枚の手紙が入っていた。

 差出人は妹のサラサだ。


 レナはポストの扉を閉めると、急ぎ足で家の中へと入って鞄を置いて、ペーパーナイフで封を切って便箋を取り出した。レナへの挨拶、体調を気遣う文章と共に、王都での暮らしや仕事の事が活き活きと綴られており、レナの表情は安堵と喜びで緩みっぱなしになっていた。



 十九歳のサラサは一年前から王都サレンにある高級衣装店プティでデザイナー見習い兼針子として働いている。


 衣装店プティの商売相手は貴族が中心であるため、衣装作りの基礎技術はもちろん、貴族相手にも通用するマナーも兼ね備えていなければ採用には至らない厳しい場所だ。昔からお洒落への興味関心が高かったサラサは、決して裕福とは言えない庶民ウィナ家のお金事情の中でも、持ち前の社交性と明るさで人脈を築き上げていき、過去に貴族相手に家庭教師をしていたという老齢の女性シルティとの接触に成功した。服飾専門の女学校では学ぶ事の出来ないマナー全般についても学校と両立して学び、努力が実ってプティに採用されたのだ。

 サラサの熱意と裕福では無い家庭事情を知ったシルティは、破格の安さの授業料でマナー講師を請け負ってくれた。サラサもレナも生涯感謝してやまない相手がシルティなのだ。


 手紙には、サラサは三ヶ月後に二泊三日で帰省する事と、シルティの家へご挨拶に伺う予定だという事が書かれていた。


 レナは早速手帳を開き、サラサの帰省予定である日付に丸印をつけた。

 サラサはマメに手紙をくれるが、まだ勤めて一年目で見習いという立場もあり、帰省は全く出来ていなかった。会うのは家を出てから初めてであり、レナの心はすっかり浮き足立っていた。


「マークはどうかしら」


 可能ならば、一日でも三人が揃って話す事が出来ればもっと嬉しい。

 レナは書棚の引き出しから便箋と封筒を取り出すと、文机に座り、マークへ手紙を書き始めた。



 サラサと同じく王都サレンに住むマークは現在二十歳で、警邏(けいら)隊員として働いている。


 最初、警邏隊員を目指すとマークから聞かされた時、レナはとても驚いたと同時に心配した。警邏隊員になれば庶民にとっては十分すぎる程の給金を得る事が出来る。それでも心配が上回った。

 マークは性格も口調も全てがとても穏やかな人柄で、それに加えて男性としては小柄で体型も細かった。勉学は採用基準を満たしても、肝心の身体と体力面で不採用になる可能性が高かったのだ。奇跡的に採用されたとしても、大怪我をしたり命を失ってしまう可能性を考えると、恐ろしくてたまらなかった。


 しかし、当時まだ十三歳だったマーク本人が真剣に警邏隊員を目指すという夢を持ち、教えてくれたことが嬉しかったのも事実だった。


 レナはマークの応援に徹した。

 マークは勉学に関しては不安要素が無い程に優秀だったため、五年間、身体作りに没頭して取り組んだ。小柄な現状に変わりはなかったが、その体格をカバーするために体力の向上に励み身体を鍛え、無事警邏隊に採用された時、レナもサラサも大いに喜んだ。マークはただただホッとした様子で、そんな姿も彼らしいな、と思ったものだ。


 レナに負けず劣らすの家族想いのマークは長男という立場の責任感の強さも大きいらしい。働き出してすぐにレナ達に仕送りをしようとしたが、レナはきっぱりと断った。

 本当に困った時や助けてほしい時はちゃんと相談する、贅沢は出来ないけれど人並みの暮らしが出来るお金は自力で稼げて貯金も出来ているし心配は不要だから、自分自身の今と将来のためにしっかりと管理してほしい、と。


 マークは心配そうにしていたが、レナの強い意志と想いを冷静に受け止めてくれた。年に一回は必ず帰省してくれて、サラサ程のマメさはないが手紙に関しても帰省連絡の手紙以外も年に数回程は送ってくれている。のんびり屋で幼かった弟が、今では逞しく元気に社会生活を送ってくれている事が、レナは何よりも嬉しかった。



 手紙を書き終えると、便箋を折り畳んで封筒に入れて封を閉じ、出し忘れる事を防ぐために早速通勤鞄にしまった。同様に、机の上に出しっぱなしだった手帳を閉じ、鞄にしまおうとした時。


「あっ」


 ひらりと落ちた一枚の名刺は御者のティッジから貰った物だ。

 レナは名刺を拾って、しばしそれを見つめた。

 見つめながら思い出したのは、ティッジの不機嫌そうな厳つい真顔ではなく、黒革の鞄に紙袋をしまいながら緊張したように耳の縁を真っ赤に染めた横顔だった。

 レナは、くすっと微笑んだ。意外な可愛らしい一面を見てしまったような気がする。やはり彼は人見知りなのかもしれない。


 クッキーは気に入ってもらえたかな?


 今度会った時に感想を聞いてみよう、と決めて立ち上がったレナは、もう一度書棚の引き出しを開けて保管用の名刺入れを取り出すと、その中にティッジの名刺をそっとしまった。



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