2 小雨の夜
大衆食堂での厨房の仕事を終えて、帰り支度を整えたレナが外に出ると、鼻先にぽたりと落ちた雨粒に思わず空を見上げた。いつもならばよく見えている筈の星の光が全く見えない。雲が星を隠して、ぱらぱらと小雨が降っていた。
どうかこれ以上雨足が強くはなりませんように。
今日は朝から快晴だったのに。
レナは肩掛け鞄を両腕で抱えるように持ち直して、うつむきがちに急ぎ足で停留所のあるペンシャット博物館前広場へと向かった。
大衆食堂から歩いて十五分程の距離にある博物館前広場に到着し、次にトリテ広場行きの馬車停留所へ向かう。雨は小雨のままで強くなる気配はなく、帽子や外套はそれほど濡れてはいない。
停留所に立っている御者の姿を見て、レナは小さく息をのみこんだ。
今日の御者はティッジだ。
いつも週に一回、多いと二回は彼の動かす乗合馬車に乗るのだ。自己紹介をされたあの日から既に五日は経過している。そろそろ帰りの御者は彼だろうな、と単純に考えてはいたが、いざ目の前にしてしまうとやはり少々身構えてしまう。
レナは鞄から財布を取り出して歩みを進めた。
老齢の男性の先客と行き先やお金のやり取りを終え、乗車する様子を見守り扉を閉めたティッジが振り返る。声をかける前に目が合った。レナはいつものように軽く会釈すると、ティッジも同じように右手で御者帽子のツバをつまんで会釈を返してくれる。いつもと変わらない様子で、睨むような真っ直ぐな鋭い目付きで。
「こんばんは。トリテ広場までお願いします」
「こんばんは」
挨拶と同時に二枚のお金をティッジへと渡すと、彼も事務的に挨拶を返してくれる。お金を受け取って素早く確認を終えた彼は頷いた。
「確認しました。どうぞ」
「ありがとう」
お金を腰に吊るしている黒革の鞄にしまったティッジが扉を開けてくれる。レナが乗車して座席に座ると、あっさりと扉は閉じられた。
六人乗りの乗合馬車にはレナを含めて三人の乗客。
見覚えのある顔ぶればかりで、今夜も終着のトリテ広場まで乗るのはレナだけだ。時間にして約十分程そのまま待ち、結局レナの乗車以降に一人もお客は来なかった。
馬車は定刻通りに動き出す。
小窓に雨粒がぶつかる。
静かな車内で、レナは小窓に付着して滲むように広がる雨粒を見つめた。
あの時の自己紹介は何の意味があったんだろう?
何か話や用事があるのならば声をかけられるかもしれない、と思っていたが、結局何も声はかけられなかった。いつもと変わらないやり取りだけをして、こうして馬車は動き出してしまっている。
他の乗客がいたから話しかけられなかったのだろうか?
しかし、もし用事があったのならば、名乗ってくれたあの時は既に二人きりだったのだ。その時に用件を話してくれていてもおかしくはない筈だが。
一人、また一人と、先に乗っていた乗客が各々の目的の停留所で下車していく。最終便であるこの馬車に途中から乗車するお客は滅多にいない。
レナの乗車時間は三十分程。今日は残り十五分も残して車内に一人きりになっていた。
雨が心配で、レナはいつも以上に外ばかりを眺め続けていた。
しかし雨足は強まる気配がない。それどころかぽつぽつと降っていた小雨はどんどんと弱まっている。どうやらどしゃ降りの中を走って帰宅する事にはならずに済みそうでホッとした。
馬車が停車する。
扉を開けると、降っていた小雨はさらに弱まっている。頭にはいつもの丸帽子を被っているが、一応さらにその上に外套のフードも被った。
馬車から降りたレナが振り返って御者台を見上げると、無表情なティッジと目が合った。御者帽子も、帽子からはみ出ている濃紺の髪も、外套も、しっとりと濡れている。
――ありがとう
晴れの日も暑い日も、雨の日も風が強い日も。
何も考えず一言だけ感謝の言葉を述べて、そうすると彼は小さく会釈する。そんな姿を見た後、すぐに背中を向けて立ち去っていた。約七年間ずっと。下車した後に、ありがとう、以外の言葉をティッジにかけた事は、そういえば無かったような気がする。ティッジに限らず他の御者に対しても言える事だが。
考えたのはほんの一瞬だった。
「ありがとう。寒くないですか?」
寒いに決まっている。分かりきっているのに、私は一体何を尋ねて。
考えが至らずにただ何となくかけた言葉にレナ自身が後悔しかけたが、ティッジは尋ねられた事に対して意外そうに片眉を跳ね上げた。
「寒くはないです。お気遣いどうも」
「あ、いいえ」
思いがけず丁寧な返事をもらってしまい、レナは少し恥ずかしくなってしまった。お気遣い、だなんて。ただなんとなく聞いただけなのだ。
少々気まずくなって視線を下げたと同時に一礼し、顔を上げた瞬間。
「お尋ねしたい事があります」
まさか会話が続くとは。やはり彼は私に聞きたい事があったらしい。
ティッジは眉間の皺を深くさせ、何か躊躇うように一度口を閉じたが、やがて再度口を開いた。
「お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「え?」
「……、警戒されるのは当然です。無理に名乗られなくても――」
「いいえ、かまいません。レナ・ウィナです」
「レナさんとお呼びしても?」
「はい」
名前を聞いただけのティッジは、レナが気付いてしまうほどに緊張感を漂わせていた。表情は終始厳しいままなのだが、纏う空気や仕草がいつもと明らかに違っている。レナが名乗った途端、ティッジは安堵したように緊張がほぐれたような印象があった。
今まで全然そんな風には見えなかったのだが、人見知り、なのだろうか?
「私もティッジさんとお呼びしても良いですか?」
「はい。お好きなように。引き留めてしまって申し訳ない。安全にご帰宅を」
「ええ。ありがとう」
再度互いに会釈して、止みかけの小雨が降る中レナは急ぎ足で家へと向かった。少ししてから、馬車が動き出す音が聞こえてくる。
小雨から濡れるのを防ぐために鞄を胸の前で両手で抱えている手に、少しだけ力が入ってしまう。
とくとくと、いつもより胸が早鐘を打っている。
どうして。
家族や親戚、友人、職場以外の人と、こんなにもささやかな会話をした事自体が久々だったから、知らず知らずのうちに緊張してしまったのだろうか?
それにまさか、尋ねたい事が私の名前だったなんて。
「名乗ってしまったわ」
早足だった足の動きが少しずつ遅くなってしまう。
迂闊に自分の事を、たとえ名前だけとはいえ、必要時以外はよく知らない人には話さないようにと気をつけていた。彼とは七年前からの顔見知りではあるが、名前と職業以外は何も知らない人だ。今日は初めて意外な一面を見た気がするが、謎が多すぎるし、むしろ謎がどんどん深まってしまった気がする。
どうして今更、こんな風に改まって自己紹介されて名前を聞かれたのだろうか。
「……そもそも考えすぎかしら?」
彼は見た目は怖いし愛想は無いが、仕事は丁寧だし粗暴でもない。安全を最優先に御者として働いている事はお客としてよく分かっている。ただ、誰が相手でも業務以外の雑談をしている姿を見た事は一度も無かった。だからこそ彼とお金のやり取りと挨拶以外の言葉を交わしている事にレナ自身がとても驚いている。
そう、名前を聞かれただけだ。
ティッジはそれ以上にレナには何も尋ねる事もなく、引き留める事もなく帰宅を促した。先に言葉をかけたのはレナだったが、夜も遅い時間と分かっていていつもレナが一人で夜道を歩いている事を知っているからこそ、長々話してはいけない、と心得ているように。
「考えすぎね」
レナが一人で納得した途端、案の定お決まりの大きな睡魔が身体の内から迫っている事に気がつき、もう一度歩く速度を上げたのだった。
*
あの小雨の夜から三日後。
この日のレナの仕事は喫茶店の厨房のみの出勤で、大衆食堂の厨房は休日だ。全休日は月に三日だが、それ以外の日は両方出勤したり、どちらか片方が休日で片方が出勤というような不規則な生活をおくっている。
喫茶店のお昼の混雑の峠を越えて昼下がりの時間になり、レナは他の調理員と交代して休憩に入った。
「ああ、ご苦労様」
「お疲れ様です。試作ですか?」
休憩室の小さなテーブルに置かれた大きな平皿に、三種類の小さなクッキーが置かれていた。甘い香りがふんわりと休憩室を満たしている。休憩室の奥にある更衣室から出てきたばかりの店長――六十歳になったばかりのひょろりと細身で背の高い、穏やかな笑顔と整えられた鼻下の豊かな口髭が印象的な男性であるマルコが、エプロンを腰の位置で結びながら微笑んで「そうだよ」と頷いた。
「レナが最後だ。食べてみて、後で感想を教えておくれ。この中から一つに絞りたくてね」
「今回もどれも美味しそうですね。分かりました」
「食べて余った分は全部持って帰って良いよ」
「これ、全部ですか? 結構量がありますけど」
「他の皆にももう好きな量を持って帰ってもらっているから。私が調子にのって作りすぎてしまったんだよ」
お人好しの店長はそう言って笑っている。
いつも試作のお菓子は自費で大量に作っては、従業員全員に余分に持たせている。喜んでもらえるのが嬉しくて、とのほほんと笑いながら言うこの穏やかなマルコに、レナは長い間心身共に支えられていた。
「ありがとうございます」
レナも笑顔で、素直に感謝の言葉を述べると、「うん、また三十分後にね」とマルコはひらりと片手を振って店舗のカウンターへと向かっていった。
厨房頭巾とエプロンを外して、自分用に紅茶を淹れて椅子に座ったレナは早速クッキーを頬張った。最初は真剣に味わい、喫茶店で出している自慢の紅茶との相性も考えながら、三種類のクッキーの中からどのクッキーを店で出すに相応しいかを考えながら食していた。
これかな、と一つを決めた後、改めて平皿に山盛りに積み上がったクッキーの量に、レナは嬉しい気持ちと同時に少々悩んでしまう。
普段だったら、食堂で共に働く従業員への差し入れに持っていくのだが、今日のレナは休日だ。
食堂でお世話になっている店長のロックはマルコ同様に優しく従業員を大切にしてくれるのだが、彼は絵に描いたようなへそ曲がり頑固親父そのものだ。休日を与えた筈の従業員が少しでも顔を出そうものなら「今日は休みだろう! 邪魔だ、帰れ!」と問答無用で追い払われてしまう。忘れ物をとりに行っただけ、差し入れだけ、という理由ですらも怒られてしまう。
休みの日はしっかり休め、という、ロックなりの労りの形は荒っぽい。
家に全て持って帰ってもレナ一人だ。喜んで一緒に食べてくれていたマークとサラサはもういない。
涼しい季節で良かった、とレナは思った。
保管場所には気をつけて少しずつ食べれば大丈夫だろう。
マルコが持ち帰り用にと用意してくれていたペーパーにクッキーを包み、紙袋にしまっていく。それにしてもやっぱり多いわ、と思いながら、他に誰か食べてくれそうな人はいないかしら、と考えを巡らせたが、そもそも狭すぎる人付き合いの中で気楽にクッキーを渡せるような関係の人は少なすぎた。
お世話になっている親戚達は同じ街で暮らしているが地区が逆方向で帰宅が遅くなってしまうし、皆働いている。会えるとも限らない。
やっぱり一人で食べきってしまおう、と思いかけたが、最後の最後に一人の男性の姿がパッと思い浮かぶ。
「……会わない可能性の方が高いわ」
甘いお菓子を好んで食べる姿など想像も出来ず、会話らしい会話も二回しかした事がないけれど。
そもそも今日の帰りの御者が彼である可能性はとても低いのだけど。
レナは自分用に持ち帰る紙袋とは別に、崩れないように丁寧にペーパーにクッキーを包んで紙袋にそっとしまった。